第一話:その雨雲は、嘘に濡れる(その1)
ハウスのビニール越しに、初夏の光が揺れていた。糖度13度のミカンが並ぶ選果台の前で、陽菜はふと手を止める。
——世界の膜が、薄く震えている。
そう思った瞬間、指先に触れた果実の表面が、ほんのわずかに剥がれたように見えた。風もないのに、ハウス全体が呼吸するように膨らんで、しぼむ。
「……また、だ」
誰にも説明できない。けれど陽菜にはわかる。世界の境界層が、今日も静かに軋んでいる。
——世界の軋みは、あのときすでに始まっていた。
◇
「おい、陽菜。お前のせいで、実家の萬屋店のシャッターが閉まりっぱなしなんだが」
五月の頭、爽やかな初夏の風が吹き込んでくるはずの月曜日の朝。
俺――風見嵐水は、実家の『風見萬屋店』の薄暗い事務所で、目の前の幼馴染に向かって盛大なため息をついた。
背後にある古いブラウン管仕様のオシロスコープが、ジジジと頼りない電子音を立てて波形を刻んでいる。
「今日の午前中までに、地元の農家から預かったみかんの糖度計のセンサー調整を終わらせなきゃいけないんだ。初夏のハウスみかんの出荷が始まるから、糖度のばらつきは死活問題だって、あそこの頑固親父に泣きつかれてさ」
「そんなこと言われても……私だって好きでこんなことになってるわけじゃないわよ!」
「原因は間違いなく、先週のお前だろ。『触れたみかんの糖度を100%見抜く』っていう妙な能力に目覚めたせいで、近所のスーパーの『糖度13度!』っていう大嘘のポップをその場で暴いただろ。あの騒動が回り回って、農家の間で『風見の倅はみかんの糖度になぜかやたらと目利きが利く』って噂になっちまって……」
せっかく綺麗に収まって萬屋の通常業務に戻れると思った矢先にこれかよ、と俺はこめかみを押さえた。
半年前まで、俺の居場所はこんな油臭い事務所ではなかった。大学院の博士課程。そこが俺の世界のすべてだった。
白衣を着るわけでもなく、油まみれのツナギを着るわけでもない。ただひたすらに、高性能のワークステーションと格闘し、流体力学――目に見えない空気や水の流れを計算する数式の中に没頭していた。
ナビエ・ストークス方程式の非線形な挙動を解析し、コンピューター上に美しい熱対流の渦を描き出すことだけが、俺の未来を約束していると信じて疑わなかった。
教授からは「お前は数字の悪魔に愛されている」とまで言われ、そのまま研究者として一生を終えるはずだったのだ。
――だが、親父が心不全で急死した瞬間、その精緻な計算式は一瞬で破綻した。
死んだ親父から引き継いだ地域の便利屋――男所帯の染み付いた古びた萬屋の事務所のど真ん中に、今、第二の異常事態が起きていた。
「だって、嵐水! 仕方ないじゃない、朝起きたらこうなってたんだから!」
パイプ椅子に座って頭を抱えているのは、幼馴染の日向陽菜。
都内の大手商社で働くオフィスワーカーであり、仕立ての良いオフィスカジュアルに身を包んだ端麗な彼女の姿は、本来なら洗練されているはずなのだが――。
「問題はそこだ。……なあ、陽菜」
「なによ?」
「お前の頭上、三十センチほどの空間に、直径五十センチくらいの真っ黒な『本物の雨雲』が浮かんでるぞ」
「知ってるわよっ!」
陽菜の頭上にぽっかりと浮かんだその雲は、まるで独自の重力圏を持っているかのように彼女の動きにピタリと追従し、頭と肩の範囲だけにザーザーと容赦ない大雨を降らせ続けている。
「これじゃ会社に行けないわよ! 丸の内のオフィスに、頭上だけ大雨の女が出社してきたら大騒ぎになっちゃう!」
「当たり前だ。新手のナントカ使いか何かと思われるのがオチだな」
「そういう問題じゃないでしょっ!」
「いや、物理的に大問題だ。室内に雲が発生するなど不可能だし、気圧も湿度も計算が完全に破綻している。おまけに、その局所的な湿気でビルのOA配線でもショートさせたら――」
「ビルの心配より、わたしの頭の心配をしてよ! ほら、どうにかしてよ嵐水!」
「……俺に言われてもな。陽菜、今朝、本当に変わったことは何もなかったのか?」
「何もないわよ! 朝、普通に起きて、テレビの星占いを見て、いつも通りメイクして、それから……」
その時、陽菜のポケットの中でスマホがけたたましく鳴り響いた。
バイブレーションの振動に合わせて、彼女の頭上の雨雲がピクリと震える。
画面に表示されたのは『石崎部長』の文字。陽菜が引きつった顔で通話ボタンを押し、スピーカーモードにすると、電話の向こうから、いかにもガサツで自己中心的な中年男性の声が漏れ聞こえてくる。
『ああ、日向くん? 今週の水曜日の会議の資料、君に任せてるんだからね。まぁ、体調が悪いならゆっくり休んで、明日にはシャキッとして出てきなさい。君の作った資料がないと、僕が役員会で突っ込まれちゃうからさ。よろしく、ヒナタちゃん』
プチッ、と一方的に通話が切れた瞬間、陽菜の額にピキリと明らかな青筋が浮かんだ。
同時に、彼女の頭上の雨雲が『ゴロゴロ!』と腹の底に響くような音を立てて激しく鳴り響き、雨脚が目に見えて強くなった。事務所の床に、水滴が叩きつけられる激しい音が響く。
「……嵐水、これ。私の頭上の雲、さっきより濃くなってない?」
陽菜の震える声に、俺は視線を上げた。確かに、雨雲の黒色は先ほどよりも一層深まり、事務所の空気を重く湿らせている。
逃げ場のない室内で、俺たちは降り止まない雨と、現実の崩壊を同時に見つめていた。
——世界の軋みは、あのときすでに始まっていた。




