第四章 後編
「い、た……っ!」
乱暴に落とされた身体を抑えながら、ルクレアは声を上げた。
鼻をつく生臭さと獣臭に、むせそうになる。
震える腕を無理やり動かし、身体を起こした。
食べ残しの餌と赤い血だまり。
自分の辿る末路に、身体が震える。
近くで何かが動いた。
食欲と好奇心が満ちた瞳がルクレアを捉える。
成獣の半分程、ルクレアとあまり大きさの変わらない雛。
自分の歯がカチカチと鳴る音が鼓膜を揺らす。
後ろに下げようとした足がもつれて転んだ。
「いや……っ」
意味もないのに手で覆った顔に影が差す。
硬く目を閉ざした。
ルクレアのすぐ隣。
食べ残していた餌を嘴で弄ぶ音がした。
ルクレアの頬に暖かい液体がかかる。
それが、洗い流されていく感覚がした。
生きている。
雛は食べ残しの餌を嘴でつつき回し、少しずつ腹の中へと収めていく。
込みあがる吐き気を抑えながら、ルクレアは距離を取ろうと立ち上がった。
森の出口の方は雛が陣取っている。
少し小さく、翼の羽ばたく音が聞こえた。
巣から出ようとすればすぐに捕まってしまうだろう。
今のルクレアには、雛の腹が減りが遅いことを祈るしかできない。
「聖、女様……?」
呼びかける声の方を見れば、足を抑えた女性が座り込んでいた。
「あなたは……」
最初の襲撃の直後、ロイドに助け起こされていた女性だった。
魔獣に傷つけられ、助かった後に攫われるだなんて。
「足をやられたの?」
「……ええ」
抑えられた彼女の足に視線をやる。
巻きつけられた服の切れ端が赤黒く染まっていた。
酷い匂いがする。
「……見せなさい」
傷口が空気に晒され、痛みに彼女の顔が歪んだ。
時間が経ち、血が半端に固まり、膿んでいる。
「……処置するわ」
肉が削がれて骨が見える状態。
体力も消耗しているようだ。
これでは治癒魔法で治しても、元通りにはならないかもしれない。
なによりも、ここから逃げられる状態にはならないだろう。
「ですが、聖女様も消耗してしまうのでは……」
「別に、私に様なんてつけなくていいわよ。……聖女なんて呼ばなくても」
彼女の真っ直ぐな瞳を映さないように、ルクレアは視線を逸らす。
酷い顔色で、彼女は乾いた唇を緩く持ち上げる。
「いえ。私を助けてくれた……二度も助けようとしてくれる聖女様ですから」
その言葉に、ルクレアは手を止めてしまった。
唇が震える。
眦が熱くなる。
「……ただの、仕事よ」
ルクレアの返事はひどく頼りのない音だった。
辺りに悲鳴が響いている。
周囲の巣で育つ雛は食欲旺盛らしい。
運がいいのか悪いのか。
ルクレアたちのいる巣の雛は食欲よりも好奇心が旺盛らしい。
たっぷり残っている餌には目もくれずに、食べ残しで遊びながらゆっくりと腹を満たしているようだ。
「う、ぁ……」
「……しっかりしなさい」
治癒魔法で治した足はこれ以上血を流すことも、膿むこともない。
しかし、あんな状態で長時間放っておかれたせいか彼女の体調は芳しくない。
荒い呼吸がルクレアの鼓膜を揺らした。
助けを求める様に伸ばされた手を、思わず握ってしまう。
酷く、熱い手だった。
「聖女、様……」
「きっと、大丈夫だから。助けが来るわ」
上擦るルクレアの言葉に女性が安堵の表情を浮かべる。
ルクレアの胸がずきりと痛んだ。
「聖女様がいるから、大丈夫です、ね」
「……ええ。大丈夫よ」
熱を帯びたように熱くなった、懐のピアスをルクレアはぎゅっと握りしめていた。
森の出口の方から、音がした。
土を踏み鳴らす音。
何か大きなものが倒れる音。
目を凝らせば、森に似つかわしくない鈍い光がルクレアの目に映る。
揃いの鎧が魔獣たちへと挑みかかっていた。
剣が描いた線が、ルクレアに希望の灯を宿す。
「……しっかりしなさい。助けが、来たわよ」
自身に言い聞かせるように、震える声で呼び掛けるが、隣からは荒い呼吸だけが返ってきた。
まだ、少し遠い剣の音にルクレアの心臓が焦り出す。
ルクレアの力では彼女を動かすことは出来ない。
すぐ傍に、聞き慣れない音に興奮した、好奇心の灯った瞳があった。
ルクレアはゆっくりと隣の彼女の手を離して立ち上がる。
「ほら……こっちの方が、あんた好みの面白い餌よ」
笑える程に震えた声だった。
足に上手く力が入らない。
雛の目がルクレアを捉える。
背筋に嫌な汗が流れた。
少しだけ、彼らがここまで来るまでの時間を稼げば良いだけ。
簡単な事だ。
隣の彼女を見下ろしたルクレアは、首を横に振る。
走り出したルクレアを雛が追いかける。
後ろにいるのが子犬であれば、微笑ましい光景だろう。
しかし、現実はそうではない。
ルクレアは縺れそうになる手足を必死に動かす。
少しでも寿命を延ばすために。
横たわる彼女から距離を取るために。
しかし……。
「う、ぁぁああああ!!」
ルクレアの身体に衝撃が走る。
薙ぐように横に叩き飛ばされ、玩具のように地面に転がった。
「い、いや……」
手をついて後ずさろうとするルクレアの瞳に開いた嘴が見えた。
記憶がルクレアの思考を駆け巡る。
録でもない記憶ばかりだ。
悲鳴に罵倒。
鉄と膿の臭い。
牢屋と周りの視線の冷たさ。
誰も、ルクレアを助けてはくれなかった。
助けても、治しても。
拒絶ばかりで、否定された。
ぎゅっと目を閉じたルクレアの身体が、再び突き飛ばされた。
雛から遠ざけるために。
「な……!」
草の敷き詰められた地面に身体が擦れた。
鉄の臭いはまだしている。
ルクレアを突き飛ばした手は、酷く熱かった。
胸元の聖女の証よりもずっと。
「……ダメ!!」
伸ばした手が空を切る。
震える足に力が入ってくれない。
目の前で赤い飛沫が舞った。
「あぁぁああ!!」
悲鳴が聞こえる。
肉が喰い千切られる音も。
鉄の匂いが濃くなって、生の匂いが薄くなる。
瞳が暗くなっていく。
悲鳴が、鳴き声が、足音が聞こえる筈なのに聞こえない。
「ルクレア!!」
「……ロイド?」
声が聞こえた。
剣が風を切る音も。
目の前が明るくなる。
同時にルクレアは動かない足を必死に動かして、彼女に駆け寄った。
「なんで、あたしなんかを……」
「助けて、くれたから……」
もうルクレアの顔を捉えない瞳に、ルクレアの姿が映った。
流れ出る血がルクレアの手を暖める。
ゆっくりと差し出された手を握り締めた。
ルクレアの体温が奪われていく。
「治せるのか?」
剣についた血液を振り払いながら、ロイドがルクレアに尋ねた。
「……無理よ」
血も、体力も足りない。
治癒魔法をかけても、悪戯に苦しめるだけだろう。
せめて、専門的な治療を行える準備があれば別だった。
やはり、ルクレアの力では助けられない。
瞳にルクレアの姿が映らなくなった。
魔獣の討伐に安堵する住民の声がする。
隠れるように、誰かの喪失を嘆く声も。
「ロイドさん、ルクレアさん。あなた方には本当に助けられました。ありがとうございます」
街に残り、住民たちの治癒を行っていたミリアナが頭を下げる。
周囲の住民が拝むように、ミリアナを見上げた。
同時に、ルクレアへ針を刺すような目を向ける。
「結局、たいしてなにもしてないじゃない」
「住民を盾にして生き残ったんだとか……」
「通りで、一人だけ生き残ったわけだ」
ミリアナが悲しげに周囲を見渡せば、声は潜められる。
しかし、口よりも雄弁に目が語っていた。
「……ルクレアさんが、わたくしの渡したピアスを持っていてくださったおかげで巣を特定できたのです。それで、漸く周辺からの兵たちにも巣に討伐に向かっていただけたので……今回の解決はルクレアさんのおかげですわ」
ミリアナの言葉にも周囲の棘が和らぐことはない。
身体の奥が冷えていくような感覚に、ルクレアは聖女の証を握り締める。
「ロイドさんとルクレアさんは、どのくらいこちらに滞在されるのでしょうか?」
「物資の補給とルクレアが回復すれば、次の街へ向かう」
「まあ……では、まだ暫くいらっしゃるのですね」
綻ぶような笑顔を浮かべたミリアナに、視界がぐにゃりと歪んでくる。
休みたいと訴える身体とは裏腹に、今すぐにでもこの場を立ち去りたかった。
「……本当にもう大丈夫なのか?」
「ええ。問題ないわ」
旅支度を済ませ、重たい荷物に少しふらつきながらルクレアは街道を踏みしめた。
ロイドから伸ばされた手には、首を横に振る。
「ロイドさん! ルクレアさん!」
見送りなど無い筈の旅立ち。
二人の傍まで息をきらせたミリアナが駆け寄ってきた。
「どうした?」
「もう、発たれてしまうのですか?」
胸の前で手を握り、ミリアナがロイドとルクレアに一歩詰め寄る。
「ああ」
「あの……お二人にお願いがあるのです!」
真っ直ぐと、見つめる青い瞳。
決意に結ばれた唇。
「なんだ?」
「わたくしも、お二人に同行してはいけませんか?」
ミリアナの言葉にルクレアは自分の身体に腕をぎゅっと回した。
「わたくし一人では、乗り合いの馬車で大きな街を巡るしか出来ませんの。ですが、助けるべき人はもっと、沢山おりますわ」
ロイドはなんと答えるのか……ルクレアはゆっくりと視線をあげる。
彼にしては珍しく、即答せずに口元に手を当てていた。
「……いや、すまないが二人で旅をする」
ロイドの返答にルクレアは目を見開く。
ミリアナの息を詰める音が聞こえた。
「……わかりましたわ。また、御縁がありましたら、お会いいたしましょう」
一瞬の沈黙の後に、ミリアナは笑顔を二人に向けた。
手を振る彼女に見送られながら、二人で街道を歩いていく。
「なんで、断ったの?」
彼ならば、聖女が二人の方が効率良いと判断すると思っていた。
ロイドが再び手を口元にあてる。
暫く沈黙が続き、ルクレアに視線が向けられた。
「ルクレアが居れば充分手は足りる。それに……」
「それに?」
「……ミリアナが言う、作戦上での悩みや弱さ、正しさが、分からなかった」
ロイドが足を止めて、ルクレアを見つめる。
ルクレアも一度立ち止まり、ロイドを見つめ返す。
「……そう」
また、足を動かし始めれば足音が重なってくる。
迷子ような、知らない大人の中での振る舞いに困る子供のようなロイドの瞳がルクレアの心に残り続けていた。




