第四章 前編
汗が滲む額を拭う。
強い日差しが街道に照り返していた。
ルクレアの前を行くロイドは涼しい顔で歩を進めている。
慌てるような声が後ろから聞こえ、ルクレアはつい振り返ってしまった。
先程すれ違った旅人の一人が、道の真ん中で赤い顔をして踞っている。
ルクレアは黙ってロイドに視線を向ける。
やはり、ロイドは直ぐに旅人に駆け寄った。
「大丈夫か?」
立ち止まったルクレアの額に汗が伝っていた。
堅牢な石造りの街。
街道を馬の蹄が叩く音が響き、商店からは食欲をそそる匂いがしていた……筈だった。
街全体が暗く、静まり返っている。
道を行く人の顔色は悪く、皆、何度も空を見上げていた。
ルクレアとロイドもつられて空を見上げる。
陽の光が何かに遮られていた。
翼が羽ばたく音。
甲高い鳥のような鳴き声。
空から羽が降ってくる。
周囲から悲鳴が上がった。
「ま、魔獣が出たぞ!!」
方々から石畳を蹴る音がした。
いくつもの影が陽を遮る。
それを追うように羽ばたく音が続いた。
「浚われるぞ!! 逃げろ!!」
誰かが叫んでいた。
ルクレアの目の前を大きな影が遮る。
猛禽類を思わせる瞳が、確かにルクレアを捉えた。
手足が震える。
背筋を冷たい汗が伝った。
「下がっていろ」
声と同時に空気を裂く音が聞こえる。
目の前に赤いものが散った。
魔獣の断末魔が辺りに響く。
逃げる人たちが後ろを振り返り、一人の絶叫が響いた。
「い、いやだ!! 助けてくれぇええ!!」
大きな鍵爪に掴まれた男が子供のように手足を振り回す。
魔獣は次の獲物を探すように、辺りを見渡していた。
次の瞬間、石畳を蹴る音と空を裂く音がする。
地面に何かが叩きつけられた。
「早く逃げろ」
自由になった男は、持ち主を失った鍵爪の拘束から必死にもがき出る。
甲高い鳥の声。
翼が大きく動いた。
魔獣の足が地を離れる前に、剣が振りかぶられる。
羽が辺りへと散らばった。
鳴き声をかき消すように、地面が揺れる。
ロイドが地に落ちたそれに剣を突き立てた。
「終わりだ」
空へと飛び立った残党を見送りながら、ロイドがそう呟いた。
安堵の声と苦痛の声が聞こえてくる。
獣の匂いと鉄の匂いが微かに漂っていた。
「大丈夫か?」
ロイドは倒れた人を助け起こしている。
ルクレアはその場からそれを眺めていた。
「聖女様だ!!」
喜びと希望に弾んだ声が聞こえて、自身の胸元の聖女の証を握りしめた。
心臓が早鐘打つ。
足がガクガクと震える。
しかし、住民達の視線はルクレアに向けられてはいなかった。
「みなさん……!!大丈夫ですか!?」
美しく輝くブロンドの髪と白い衣。
白い肌と澄んだ青い瞳。
その瞳の下には黒い、疲労の跡が残っていた。
聖女、と呼ばれた彼女は迷いなく、倒れる人々に駆け寄った。
住民は皆、安堵の表情を浮かべている。
「すぐに治しますからね」
血で汚れるのも厭わずに彼女は怪我人を抱き起こした。
先程まで苦痛の声をあげていた男も希望に満ちた瞳で彼女を見つめる。
「でも、聖女様……まだお疲れが残っているのでは……」
周囲を取り囲んでいた民衆の一人が、聖女の傍までやってくる。
「いいえ。この状況でそんなことは言っていられませんわ。それに……」
治癒魔法の光が男を包んだ。
一瞬、男の苦しげな声が上がる。
瞬きを繰り返した後、光は消え。男の傷はすっかりと治っていた。
「こうして、元気になられた姿を見れば、疲れなんて感じませんわ」
穏やかに目を細める聖女の顔は、疲れに彩られていても美しい。
周囲の民衆は尊い者を見る目で彼女を見上げていた。
中には膝をつき、祈り始めるものまでいる。
厳粛なミサのような光景を、一人の声が崩した。
「ルクレア。彼女を治してくれ」
血の流れおちる腕を抑え、苦悶の表情を浮かべる女性を助け起こしたロイドがルクレアを真っ直ぐと見つめていた。
「……なんであたしなの」
ルクレアはロイドから視線を外し、無意識に美しいブロンドを見つめる。
「お前は聖女なのだから治せる。もう一人は疲労しているのだろう?」
平然と言葉を放つロイドにルクレアは視線を逸らした。
ルクレアの手では隠しきれない聖女の証が、熱を帯びている気がしてくる。
「……聖女?」
「あの女が?」
周囲の目付きが変わった。
ルクレアを見下ろす視線に、俯いてしまいそうになる。
「……まあ! あなたも聖女なのですね!」
花が綻んだような笑顔で駆け寄ってきた"聖女" が強ばるルクレアの手を取った。
柔らかい手が、ルクレアの荒れた両手を包み込む。
ルクレアの胸元で聖女の証が揺れる。
足元から、靴が擦れる音がした。
「あなたも一緒に癒してくれるならば、もっと大勢の方を助けられますわ」
澄んだ青に写し出された自分のみすぼらしい姿に、思わず顔を俯かせた。
「……良いわよ」
「でしたら……」
「但し、報酬がなければしないわ」
目の前の青が大きく見開かれた。
周囲から鋭い視線が飛んでくる。
「聖女なのに……」
「同じ聖女でも……」
「本当に聖女なのか?」
唇を噛み、後ろに下がろうとしたルクレアの手を、暖かい手が強く握りしめる。
「……分かりました」
「え……?」
片手を離し、金色の中から青いピアスが取り出される。
そのまま、ルクレアの手に握らされた。
「足りませんか? もう一つならすぐに渡せますが、それでも足りなければ、家長……父にお願いしないといけないのでお待ちいただけると」
「た、足りるわ……寧ろ、多すぎるわ」
「なら、その分頑張って癒しましょう」
向けられた笑顔に目を細め、視線を逸らす。
ルクレアへの冷たい視線は”聖女”への信奉の視線に変わっていた。
握られている指先が冷えていくような気がした。
「ロイド様、ルクレア様。わたくしは聖女として務めております、ミリアナと申します」
品の良い調度品に囲まれて、優雅に礼をとる聖女。
縁遠い柔らかさに何度も姿勢を直し、ルクレアはミリアナを見る。
「様はいらない」
「……そうね」
「でしたら、ロイドさんにルクレアさん! あなた方のお陰で助かりましたわ!」
先程の遠い美しさではなく、人懐っこい笑顔にルクレアは息を飲み、視線を逸らす。
「お二人はどうしてこの街に?」
「魔獣討伐だ」
ミリアナが胸の前で手を合わせ、感嘆の声をあげる。
机がなければ、二人の手を取りそうな勢いだ。
「良かった……!! わたくしだけでは、癒すことは出来ても、魔獣をどうにも出来なかったのです」
「そうか」
「衛兵の方々も魔獣を追い払うだけでもやっとで……」
空を飛ぶ魔獣は厄介だ。
足跡を追うことも出来ず、痕跡を辿ることは困難だからだ。
「相手は群れだ。まずは、戦力を削ること。そしてその後は相手の巣を叩くことが必要だ」
いつもの調子で話すロイドの言葉に、ミリアナは熱心に頷いている。
「持久戦だな」
「持久戦ですか……」
眉を下げたミリアナに、ロイドが首を傾げる。
「何か問題があったか?」
「いえ……問題ではありませんが、それだと傷ついてしまう方が出てしまうんだろうと思うと……少しだけ、憂鬱で」
「聖女が二人いるなら、犠牲は最小限ですむだろう?」
少し瞳を見開いたミリアナは苦しげにロイドに頷きを返す。
「……では、これから暫くよろしくお願い致します」
持久戦は想定以上に厳しいものだった。
どこから襲い来るか分からない敵にたいして、こちらが取れる手段など限られている。
襲撃情報にロイドが対応するが、決定打を打てるのが彼だけである現状では、群れへの対応は厳しくなっていた。
「……大丈夫なの?」
「……ええ。まだまだ平気ですわ」
ふらりとよろめいたミリアナの身体を支える。
触れた身体が妙に冷たく感じた。
二人が来るまでこの街の人間を癒し続けて来たのだから、当然だろう。
体力は治癒魔法では回復できない。
彼女を休ませる必要がある。
だが、敵はそんなことを待ってくれない。
数を減らされた報復か、食糧確保か、浚われる人が増えてきた。
ロイドが間に合わずに連れ去られる者。
遺された者からすれば、仕方ない犠牲だと割り切ることは出来なかった。
「本当に、あの二人に任せていて良いのか!?」
「聖女様にも無理させて……!」
「本当に魔獣の討伐に来たのか!? 実はあちら側なんじゃ……!!」
街を歩けば、そんな声が聞こえてくる。
小さかった声は次第に膨れていった。
「皆様……お二人は力を尽くして下さっています。寧ろ、わたくしの方が力及ばず……申し訳ありません」
ミリアナが頭を下げれば、民衆の瞳に柔らかさが戻った。
慌てて、彼女を信じる言葉を口にする。
「聖女様方や騎士様が悪くないのは分かってますよ!!」
「そうそう……ミリアナ様に頭を下げていただきたかったわけでは……!!」
頭を上げたミリアナの安堵の表情に、更に言葉を投げる者は居なかった。
しかし、こんなのはミリアナがいる時だけだ。
彼女がいない時、特にルクレアが一人の時はいっそう酷い。
「聖女だなんて名乗っているけど……」
「ミリアナ様にばかり働かせてるんじゃないか?」
「治癒を拒絶して、ミリアナ様に金品をたかっているだとか……」
聞こえるように話されている言葉にルクレアは手を握りしめた。
指先が冷えていく。
耳鳴りがする。
「……牢屋の中よりはマシだわ」
聖女の証を握りしめ、言い聞かせるように、誰にも聞こえない小声で呟いた。
宿で一人、ロイドは剣を磨いていた。
度重なる戦闘で、随分と痛んでしまっている。
こんな応急処置ではなく、鍛冶屋にお願いしたいところだが、そんな時間はない。
いつでも手に取れる場所に剣を立て掛けるロイドの耳に、控えめなノックの音が届く。
「ミリアナです。ロイドさん、入ってもよろしいですか?」
「構わない」
短く答えれば、ゆっくりと扉が開かれる。
椅子に座るように促せば、扉を少し開いたまま、彼女は椅子に腰かけた。
「どうした?」
彼女の体力と疲労を考えると、早く休んだ方が良い筈だと、ロイドは彼女を見る。
少しふらつき、顔色も良くない。
こんな状態で来たということは不足の事態でも起きたのだろうか。
「実は、その……今のままで良いのか、本当にこれが正しいのか不安になってしまって」
「これが一番被害も少ない、適切な手段だ」
「ですが……!」
ミリアナがロイドの腕を掴む。
真っ直ぐと見据える瞳が何故だか力強く感じた。
「……ですが、犠牲者は居ます」
「分かっている」
犠牲者が居ない作戦だなどと、伝えた覚えはない。
彼女もそれを理解していたと思っていたが、今更どうしたというのか。
腕を掴む手が震えている。
ミリアナの言葉を待つ時間が妙に長く感じた。
「ロイドさんはお強いのですね……わたくしは、助けたいという思いしかない、弱い人間ですわ」
俯きながら溢された、ミリアナの言葉にロイドは首を傾げる。
「ミリアナは充分に助けている」
ルクレアとロイドが訪れるまでの間、彼女の治癒魔法は間違いなくこの街の生命線だった。
「ロイドさんはお優しいのですね。……だから、魔獣退治をされているのですか?」
「いや、王命だ」
優しさと魔獣退治に何の関係があるのだろう。
ロイドは首を傾げながらも答える。
「まあ! ……そうだったのですね。では、ルクレアさんも?」
「そうだ」
同行者だと紹介された時に、確かにそんなことを言っていた筈だ。
「ルクレアさんは……どうして、報酬を気になさるのでしょうね。いったい、何があったのか……」
何故か痛ましげな表情でミリアナは瞳を閉じていた。
ロイドはルクレアの言っていたことを思い出す。
「仕事ならば、報酬が払われるのは当然のことだろう?」
顔を上げたミリアナが少し目を見開いた。
「そういう考えも、確かにありますわね。……わたくしは、ルクレアさんのことを何も分かっていませんわね」
苦笑を浮かべたミリアナはロイドに笑顔を向けてから立ち上がる。
「今日はこれで失礼しますわね。話に付き合ってくださってありがとうございました」
結局何が話したかったのか、分からないままにロイドは装備の手入れを続けることにした。
いつ魔獣が襲いに来るか分からない怯え。
誰が浚われるか分からない恐怖。
緊張がピークに達したのだろう。
宿へ戻ろうとしたルクレアとロイドを住民たちが引き留めた。
「いつになったら、魔獣は居なくなるんだ!!」
「あんたたちがのんびりしているせいで……あたしの夫を返してよ……!!」
掴みからんとする勢いで周りを囲まれ、二人とも身動きが取れなくなった。
ルクレアは、震えそうな身体を必死で抑える。
「魔獣の数は減らせている。じきに、巣を特定する余裕も出てくるだろう」
冷静に返すロイドに住民たちは更に足を踏み出して、語気を強める。
「それがいつかって言ってるんだよ!!」
「それまで、俺たちは餌として囮になれってか!!」
ルクレアに向けて、拳が振り上げられた。
ルクレアは腕で顔を庇い、身を縮まらせる。
しかし、その腕はルクレアに届く前に、ロイドに掴まれていた。
「聖女を害するのは、お前たちにも不利益だろう?」
ガタガタと抑えきれない震えに、思わずルクレアはロイドの背に隠れてしまう。
見咎めるような視線と共に、ルクレアへ言葉が叩きつけられる。
「いつもそうやって影に隠れて!!」
「それでも、本当に聖女なの!?」
「聖女のくせにミリアナ様にばっかり負担を押し付けやがって……安全地帯に引きこもってるんじゃねぇ!!」
怒りに満ちた、見慣れた敵意にルクレアはロイドの背から出てくる。
震える足を抑えて。
感情を隠し、鏡のように、彼らと同じ表情を返す。
「なんだよ……偽物聖女が!!」
「いっそのこと、お前が拐われちまえ!!」
「街の皆が拐われてもなんとも思ってねえんだろ!! なら、お前が囮でもやれよ!!」
そうだ、と賛同の声が上がる。
違う。
そんな言葉に意味がないことは、ずっと前から分かっている。
それでも勝手に肺から空気が押し出されて喉を震わせた。
「あたしは……!」
「何をしているのです!!」
怒りに満ちた住民の輪を崩して、息を切らしたミリアナが現れる。
「ミリアナ様……」
「お二人を責めて……どうなると言うのですか!!」
悲しげに、けれど強い光を湛えた青に、住民たちの顔が色を失った。
二人を背に庇うように立つミリアナの背が眩しく見える。
「違うんです……ただ、私たちは、今のやり方が正しいと思えなくて」
「……これは、犠牲者がもっとも少ない方法ですわ」
手をぎゅっと握りしめて、震えた声でミリアナが答える。
しかし、住民たちは積もった怒りと鬱憤を逃しきれないのか、ミリアナを前にしても引き下がろうとはしない。
「で、ですが……私たちは黙って囮になるのは嫌なんです。だから……」
ルクレアへと視線が集まる。
誰も何も言わない。
けれど、何が言いたいかは、嫌と言う程分かる。
「皆様のご意見は分かりましたわ」
麗しの聖女様に認めて貰えたと、住人達の口から喜びの声が漏れた。
ルクレアへと嫌な視線が集まる。
背筋が冷え、耳鳴りがした。
踞りたくなる身体を必死で抑え、足に力を入れる。
しかし、ルクレアが住民たちに突き出される事はなかった。
「では、わたくしが囮を務めましょう」
朝の散歩にでも向かうような口調でミリアナが告げる。
住民たちが焦って、ミリアナを止めようとした。
しかし、ミリアナは首を縦には振らない。
「囮となれるのであれば、誰でも構わないのではありませんか?」
気まずげに俯く住民たちにミリアナは優しい声色で語りかける。
「皆様が、この現状に憤るのも分かります。ですが、誰かを犠牲に成果を得ようとすれば、必ず悲しい結果になりますわ」
ミリアナの言葉に顔を上げた住民たちは、ミリアナの方を見ながら口々に謝罪の言葉を口にする。
ルクレアはただ、後ろでそれを眺めていた。
遠い世界の出来事のように。
「魔獣だ!!」
その言葉がルクレアの意識を現実へと引き戻した。
空高く陣取った影は、すぐに手が伸びそうな所まで降りてくる。
「逃げろ!! 家に入るんだ!!」
焦る住民が我先にと走り出した。
しかし、地を這う人ののろまさを嘲る影がすぐそこまでやってくる。
悲鳴が上がる。
白い地面を赤が汚し、人が空に拐われた。
ロイドの振るった切っ先が線を引く。
しかし、群れ対個人……どちらに軍配が上がるかは決まっていた。
ミリアナは住民たちに手を引かれ、安全な場所へと連れていかれる。
抵抗する彼女が手を伸ばした先には、血をながし、倒れている人がいた。
胸が裂かれ、血溜まりが広がっていく。
早く治療しなければ、死んでしまう。
足が震える。
早く逃げろと心臓が足へと血を巡らせる。
「ルクレア! 下がれ!!」
ロイドの声に逆らうように、目の前の怪我人へと駆け寄る。
急いで治癒魔法を使えば、倒れた彼が苦痛の叫びをあげた。
ルクレアは震える手でミリアナから渡された報酬を握りしめる。
「……仕事だから」
声は悲鳴と魔獣の鳴き声によってかき消された。
光が消える頃には、傷口が塞がり、呼吸も落ち着き始める。
ルクレアが安堵に力を抜いた次の瞬間。
「ルクレア!!」
ロイドの声。
振り返る前に身体に衝撃が走った。
「え……」
地面が遠くなる。
鍵爪が身体に食い込み、服が裂け、痛みが走る。
あれ程近かった悲鳴が、遠くなっていた。




