重なる心
宴がようやくお開きになった。
貴族たちは興奮冷めやらぬ様子で、今日の出来事を語りながら帰っていく。
前代未聞の婚約破棄と、まさかの求婚。
この一日は、長く社交界の語り草になるだろう。
俺はその渦中の人物になってしまったわけだが、実感はまだ湧かなかった。
人が捌けた広間で、俺はアンリの姿を探す。
彼女はオズワルドと連れ立って、そっと会場を後にするところだった。
二人の背中には、これまでの張り詰めた空気がもうない。
なんとなくその後を追ってみる。
見届けたかった。あの二人が、どうなるのかを。
庭に出ると、雪はやんでいた。
薄く積もった雪が、月明かりを受けて青白く光っている。
庭の一角で、アンリとオズワルドは向かい合って立っていた。
俺は木立の陰から、そっと様子を窺う。
盗み見のようで気が引けたが、足は動かなかった。
「アンリ様、私は……」
オズワルドの声が震えていた。
長年、胸に秘めてきた想い。
それを今、口にしようとしているのだ。
彼の緊張が、離れた俺にまで伝わってきた。
「……オズワルド」
アンリが彼の言葉を優しく遮った。
「もう、様はいらないわ。昔みたいにアンリと呼んで」
オズワルドが息を呑むのが分かった。
「そんな……私は、ベルナールの縁者とはいえ、あなたとは身分が——」
「身分なんて、もう関係ないの」
アンリの声は澄んでいて、そこには迷いも恐れもない。
「私、決めたの。もう自分の心に嘘をつかないって。家のためでも体面のためでもなく、私が本当に傍にいたいと思う人と生きるって」
アンリが一歩、オズワルドに近づいた。
「その人は、あなたよ。ずっと、あなただった」
オズワルドの目から大粒の涙がこぼれた。
彼はくしゃりと顔を歪め、震える手を伸ばしてアンリの手を取った。
「……いいのですか。本当に、俺なんかで」
「あなたじゃなきゃ嫌なの」
二人は、どちらからともなく身を寄せ合った。
月光の下、寄り添う影が一つになる。
長い間、互いに想い合いながら、身分に阻まれてきた二人。
その想いが今、ようやく結ばれたのだ。
俺は木立の陰で、そっと目頭を押さえた。
(……よかった)
本当によかった。
アンリもオズワルドも報われた。
俺があれほど引き裂こうとしていた二人が、こうして幸せそうに寄り添っている。皮肉なものだった。
俺の計画は根本から間違っていた。
間違っていたからこそ、皆が本当の幸せに辿り着けたのだ。
自分の愚かさを、今さらながら思い知る。
俺は原作の知識だけを頼りに二人を引き裂こうとしていた。
アンリを望まぬ相手に嫁がせようとしていた。
それが正義だと、心中エンドの回避だと信じ込んで。
本当に守るべきだったのは筋書きなんかじゃない。
目の前で生きている人間の心だったのだ。
結果として、全てがあるべき場所に収まった。
アンリはオズワルドと。俺は——ロンゲールと。
誰かの犠牲の上に成り立つ幸福ではない。
皆が自分の望む相手と結ばれる。
こんな結末が待っていようとは、あの婚約発表の朝には思いもしなかった。
「——まったく、盗み見とは感心しないなぁ」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、ロンゲールが面白そうに笑って立っていた。
いつの間に来ていたのだろう。俺は慌てて木立から離れる。
「ち、違います。これは、その、見守っていただけで」
「分かってる。冗談だよ」
ロンゲールは、くつくつ笑いながら俺の隣に並んだ。
そして、アンリたちの方へ視線を向ける。
二人は、まだ寄り添っていた。
「うまくいったみたいだな、あいつらも」
「はい……本当に、よかったです」
心からそう言うと、ロンゲールは優しい目で二人を見つめた。
「アンリ嬢には、悪いことをしたと思ってる。婚約者を公衆の面前で袖にしたんだからな。だが、あれが彼女のためでもあった。彼女だって、望まない結婚から解放されたかったはずだ」
「ええ、アンリ様は感謝しておいででしょう」
二人はしばらく黙って、月夜の庭を眺めていた。
冷たい空気が頬を撫でる。
それでも、不思議と寒くは感じない。
隣にいるロンゲールの気配が、じんわりと温かかったからだ。
「……なあ、リンタロウ」
ロンゲールがぽつりと言った。
「はい」
「本当に……俺で、いいんだよな」
その声には、先ほどまでの余裕はなかった。
求婚の時に見せた緊張が、また滲んでいる。
豪胆な男が、こういう時だけ急に弱気になる。
そのちぐはぐさが、俺にはたまらなく愛おしかった。
「何を今さら」
俺は思わず笑ってしまった。
「あれだけ大勢の前で堂々と求婚しておいて、今になって不安になるんですか?」
「うるさい。柄にもないことをした自覚はあるんだよ」
ロンゲールは、ばつが悪そうに頭をかいた。
その仕草がいつもの彼らしくなくて、俺はまた笑った。
それから俺は、彼の方へ向き直った。
「ロンゲール様。俺は、あなたに返しきれない恩があります」
静かに言葉を紡ぐ。
「田舎から出てきた俺を拾ってくれた。傍に置いて、頼りにしてくれた。俺の居場所を作ってくれたのは、あなたです……だから、これからは、俺があなたを支えたい。臣下としてでなく、隣に立つ者として」
ロンゲールの目が、わずかに見開かれた。
「今日、あなたが俺を選んでくれたように。俺もあなたを選びます。何度でも、何があっても」
言い終えると、顔が猛烈に熱くなった。
柄にもないのは俺も同じだ。大それたことを口にした。
しかし、これは俺の嘘偽りのない本心だった。
ロンゲールはしばらくの間俺を見つめていたが、それから今日一番の晴れやかな笑みを浮かべる。
「……お前ってやつは」
頭に乗せられた手が、ゆっくりと俺の頬へ下りてきた。
大きな手のひらが、冷えた頬を包む。
その温もりに、俺は思わず息を止めた。
ロンゲールの顔が、すぐ近くにあった。
月明かりに照らされた双眸が俺だけを映している。
目を逸らすことはできない。
「これから、忙しくなるぞ」
ロンゲールが囁くように言った。
「王家が認めたとはいえ、俺たちのことを快く思わない連中もいる。前例のない話だからな。風当たりも、強いだろう……それでも、お前は、俺の隣にいてくれるか」
その問いに、俺は迷いなく頷いた。
「当然です。何を言われようと、俺は、あなたの傍を離れません。それに——」
俺は少しだけ口の端を上げる。
「厄介事を捌くのは臣下の得意分野ですから。任せてください」
目を丸くしたロンゲールだったが、やがて堪えきれないというふうに声を上げて笑った。
夜の庭に快活な笑い声が響き、アンリとオズワルドがこちらへ気付く。
俺の知っている、いつものロンゲールの笑い方だった。
「違いない。お前ほど頼りになる奴はいないからな」
彼の手が頬から離れ、代わりに俺の手をそっと握った。
二人の指が絡み合う。
それは主君と臣下の握手ではなかった。
もっと近く、もっと確かな繋がりだ。
握り返すと、ロンゲールも力を込めて握り返してくる。
言葉はいらなかった。
俺たちは、これから同じ道を歩いていく。
険しい道が待っているかもしれない。
世間の風は冷たいかもしれない。
それでも、隣にロンゲールがいるなら何も怖くはない。
(あぁ……月が高いな)
長い一日が、終わろうとしている。
それは同時に、それぞれの人生の、新しい始まりでもあった。




