差し出された手
それから、俺の目をまっすぐに射抜いて口を開いた。
「アンリ嬢は、俺を第二王子として見ていた」
静かな声だった。
広間中が、その言葉に聞き入っている。
「それは当然のことだ。彼女だけじゃない、この国の誰もが俺を見る時、まず王族という肩書きを見る。第二王子のロンゲール・グレイフォード。血筋と地位、王家の名。皆が俺に向けるのは、それに対する敬意だ」
ロンゲールの声に、わずかな苦さが混じった。
「悪いことじゃない。臣下が王族を敬うのは当たり前だからな。俺も、そういうものだと思って生きてきた。誰も俺自身なんか見ちゃいない。見ているのは王子という器だけ。それでいいと思っていた」
彼は一度、言葉を切った。
そして俺だけを見つめて続ける。
「だがリンタロウ……お前は違うんだ」
その一言が胸に刺さる。
「リンタロウ。お前は最初から、俺を王子扱いしなかった。肩が凝ってると言えば揉んでくるし、腹が減れば飯を出す。俺が間違ったことをすれば、臣下のくせに真正面から意見してくる。お前が見ていたのは王子の器じゃない。俺自身だ」
前にも言っただろ、と小さく付け足す。
「火事の時もそうだ。お前は王子を守ったんじゃない。俺を守った。自分の命を投げ出してでも、この俺に生きてほしいと言った。あんなふうに俺を見てくれた奴は、生まれて初めてだった」
ロンゲールの声が微かに震える。
「地面に転がって、朦朧とした意識で、お前は俺に言ったよな。あなたのためなら何度でも火に飛び込むって……覚えてるか?」
「…………はい」
覚えている。忘れるはずがない。あれは俺の本心だ。
俺は……この気持ちが忠誠だと思っていたが。
「あれを聞いて俺は気付いたんだ。俺はこいつのことが、何よりも大切になっているんだと」
貴族たちの囁きが大きくなる。
それでも俺の耳には、どよめきの半分も届いていなかった。
ロンゲールの言葉だけが頭の中で反響していた。
「アンリ嬢のことは大切に思っている。だが、それは恋じゃない。俺が生涯をかけて隣に置きたいのは、俺を一人の人間として見てくれた、たった一人の男だけだ」
ロンゲールは俺を見て言い切った。
「なぜ、お前なのか。答えは簡単だ。俺をちゃんと見てくれたのが——お前だったからだ」
その瞬間、俺の中で何かが決壊した。
これまで、忠誠という名の箱にきつくしまい込んできたもの。
触れないように、見ないように、蓋をしてきたもの。
それが、堰を切って溢れ出してきた。
思い出が次々と蘇る。
初めてロンゲールに会った日の快活な笑み。
鷹狩りの帰り道に見た夕暮れ。
くだらないことで笑い合った執務室の夜。
火の中でロンゲールの名を叫んだ瞬間。
彼との時間が、俺にとってどれほど特別だったか。
俺は認めてこなかった。
ただの臣下だと、忠誠だと、そう言い張ってきた。
……本当は、ずっと前から知っていたのに。
(俺は……この人のことを)
胸が熱くて苦しい。
顔が燃えるようだ。
この感情に名前をつけることから逃げてきたが、もう無理だ。
ロンゲールの言葉が、俺の逃げ道を全て塞いでしまったから。
「ロンゲール、様……俺は……」
彼の想いに応えたいという気持ちに疑いようはない。
それでも俺の中には、どうしても口にしておかねばならないことがある。
「……ロンゲール様。俺は……女性が好きです」
絞り出した声は情けないほど掠れていた。
言ってしまってから俺は俯く。
こんな時に何を言っているのか。
せっかくの求婚に水を差すような一言。
それでも、これは俺にとって譲れない事実だった。
ロンゲールを騙すことだけはしたくない。嘘をつきたくない。
「前……いえ、昔から、俺が好きになるのは女性でした。豊かな体身体つきの、よく笑う女性に惹かれる。それが俺という人間です。だから、あなたが期待するような相手には……」
「知っている」
ロンゲールの声が俺の言葉を遮った。
顔を上げると彼は笑っていた。
困ったような、それでいて慈しむような表情だった。
「お前が女好きなのは、とっくに知っているさ。夜の町で覗きを取っ捕まえた時も、好みを聞いた時も、お前はずっと、胸のでかい美人がいいと言い続けてたからな」
そう言われて、かあっと顔が熱くなった。
何度も言った。ロンゲールの前で堂々と自分の性癖を語ってきた。
今にして思えば、その全てをロンゲールは覚えていたのだ。
「あの時の俺は……今にして思えば、面白くなかったのかもしれない。お前が女がいいと言うたびに胸の奥がざらついた。あの時は分からなかったが、今なら分かる。なんでこいつは、俺の方を見ないんだろうっていう嫉妬だった」
ロンゲールは苦笑しながら続けた。
「だから、知った上で言ってるんだ。お前が女好きだろうが、男に興味がなかろうが関係ない。俺が欲しいのは、女としてのお前でも、都合のいい相手としてのお前でもない。リンタロウ、お前という人間そのものが欲しいんだ」
ロンゲールが一歩、距離を詰めた。
そして、ゆっくりと俺に手を差し出す。
大きくて無骨だが、安心できる手だ。
「無理にとは言わない。お前がどうしても応えられないと言うなら、俺は引く。この話はなかったことにするし、二度と口にしない」
その手が微かに震えているのを見てしまう。
いつだって退くことのない勇敢な男が、国王の御前で婚約を破棄してみせた男が、俺の返事一つに、こんなにも緊張している。
その事実が、俺の胸を締めつけた。
「でも……もし。もしお前の中に、少しでも俺と同じ気持ちがあるなら……」
ロンゲールの声が優しく俺を包んだ。
「この手を、取ってくれないか?」
差し出された手を、俺は見つめた。
頭の中では無数の理屈が渦を巻いていた。
俺は男だ。臣下だ。
この人の想いに応えれば、周囲は何と言うか。
王家の醜聞になるかもしれない。
俺の存在がロンゲールの足を引っ張るかもしれない。
断るべき理由なら、いくらでも並べられた。
それでも。
その理屈の全てを、たった一つの想いが押し流していく。
——好きだ。俺は、ロンゲールが好きなんだ。
驚くほどに単純な話だった。
忠誠だとから使命だとか、ハッピーエンドだとか、そんなもので飾り立てて、俺はずっと、この気持ちに気付かないふりをしてきた。
ロンゲールの傍にいたいのは、臣下だからじゃない。
ロンゲールに生きてほしかったのは、主君だからじゃない。
ただ、好きだったからだ。
視界がじわりと滲む。
俺は、震える手をゆっくりと持ち上げた。
そして——ロンゲールの差し出された手に重ねた。
温かい。温かい手だ。
「……こんな俺で、いいんですか?」
「お前がいいんだ」
ロンゲールは即座に答えた。
迷いのない、力強い声だった。
彼の手が、俺の手をしっかりと握り返す。
もう離さないとでも言うように。
「他の誰でもない。お前じゃなきゃ、駄目なんだ」
その瞬間、俺の目から堪えていたものがこぼれ落ちた。
情けない。いい年をした男が、こんな大勢の前で。
そう思うのに涙は止まってくれない。
嬉しかった。
ただ、どうしようもなく嬉しかったのだ。
俺が選んだロンゲールが、俺を選んでくれた。
俺という人間をまるごと欲しいと言ってくれた。
握られた手から、彼の熱が伝わってくる。
その熱が、俺の凍えていた場所をじんわりと溶かしていった。
「……はい」
頷いた。涙を拭うことも忘れて、ただ彼の顔を見つめて。
「俺でよければ……喜んで」
ロンゲールは顔を綻ばせた。
これまで見たどんな笑顔よりも嬉しそうな、くしゃくしゃの笑み。
次の瞬間、俺の身体は力強い腕に引き寄せられていた。
貴族たちの、驚きとも祝福ともつかないどよめき。
その中で、俺はロンゲールの腕に抱かれていた。




