告白
「アンリ、俺はここに、婚約破棄を宣言する」
ロンゲールの言葉が広間に響いた。
俺の頭は、真っ白になった。
今、なんて言った?
婚約破棄。この人は、婚約破棄と言ったのか?
聞き間違いだ。そうに決まっている。
しかし、招待客たちのどよめきが現実だと突きつけてくる。
貴族たちが顔を見合わせ、ひそひそと囁き交わす。
オスカー王は動じることなく、ただ息子を見つめている。
「そ、そんな……ロンゲール様……っ」
アンリはうろたえているように見えるが、どうしてか演技のようにも感じた。
(な、なんで……)
俺は壁際で立ち尽くした。膝から力が抜けそうだった。理解が追いつかない。
何ヶ月もかけて積み上げてきたものが、たった一言で音を立てて崩れていく。心中エンドの回避が。
ロンゲールは、アンリを見据えたまま言葉を続けた。
「お前が触れられるような相手ではないのだ、俺は。お前にはそこの——みすぼらしい男がお似合いだろう」
そう言って、ロンゲールは傍らのオズワルドを指し示した。
オズワルドが、はっと顔を上げる。
「……ど、どうして」
その声は、アンリのものではなかった。
名指しされた青年——オズワルドのものだ。
みすぼらしい男がお似合い。
その言葉は、表向きは侮辱だ。
だが、俺には分かってしまった。
ロンゲールは、アンリとオズワルドを結ぼうとしている。
二人の想いを知って、あえてこういう形で背中を押しているのだ。
(そうか。ロンゲールは気付いていたのか……)
二人が想い合っていたことに。
俺が見抜けなかったものを、ロンゲールはとうに見抜いていた。
だから婚約を破棄する。
アンリを、本当に想う相手の元へ返すために。
なんて奴だ……自分の婚約を公衆の面前で反故にする。
その汚名を全て被って。
ただ一人の女性の幸せのために。
俺は——感動すら覚えていた。
ロンゲールは、そういう人間だった。
豪胆だが奥手で、自分の幸せよりもアンリの幸せを望んだ。
それに、アンリはオズワルドと結ばれる。
心中エンドなど初めから起こりようがなかった。
二人は幸せになる。ロンゲールの英断で、そうなるのだ。
だが、ここで一つの疑問が首をもたげる。
婚約を捨てたロンゲールはどうなる?
婚約者を失った第二王子。
その先には、いずれ新たな縁が結ばれて——
そこまで考えて、俺の思考が、ふと止まった。
「どうしてロンゲール様は、このようなことを……っ」
「当然のことだ」
ロンゲールが再び口を開いた。
「俺が人生を共にするのはお前ではない」
その視線は、もうアンリを見ていなかった。
別の誰かのことを朗々と語り始める。
「北にそびえるワナムント山よりも高い志を持ち」
俺は思わず聞き入った。
誰のことだろう。あのロンゲールが、これほどまでに讃える相手とは。
「我々が未だ全貌を知ることのできない海のように深い心を秘め」
志が高く、心が深い。
そんな傑物が、この場にいるのか。
俺は、その人物を探そうと広間を見回しかけた。
「それでいて、自らの能力を決して鼻にかけない——」
高い志、深い心、それでいて驕らない。
まるで物語の英雄のようだ。
一体どこの誰のことを言っているのか。
俺には、まったく見当がつかなかった。
「この者だ」
そう言って、ロンゲールが腕をまっすぐに伸ばした。
その指の先を、俺は何気なく目で追った。
指し示された、その場所に立っていたのは。
————俺だった。
時が止まった気がした。
広間中の視線が俺に集まっている。
貴族たちの驚愕の眼差し。
囁きが、さざ波のように広がっていく。
あの側近か。ロンゲール殿下が讃えたのは、あの男か。
その声が遠くから聞こえた。
自分の指先が冷たくなっていくのを感じる。
何かの間違いだ。俺のはずがない。
志が高い?
心が深い?
驕らない?
そんな傑物、俺であるものか。
俺はただ田舎から出てきた、ゲームの知識を頼りに立ち回ってきただけの、普通の臣下だ。英雄でもなんでもない。
だが、ロンゲールの指は確かに俺を指している。
力強い眼差しが、まっすぐに俺を捉えている。
ふざけている様子は微塵もない。
国王の御前で、招待客の面前で、ロンゲールは本気で俺を讃えたのだ。
(なんで……なんで、俺なんかを……)
混乱の中で、俺は必死に考えを巡らせた。
そうな、これは何かの方便だ。そうに違いない。
アンリとの婚約を破棄する。
その口実として、たまたま俺の名を挙げただけ。
臣下を持ち上げて、婚約破棄の場を丸く収めようとしている。
そうだ。きっと、そういう政治的な駆け引きなのだ。
そう思い込もうとした。
しかし、ロンゲールがゆっくりと、俺の方へ歩いてきた。
一歩、また一歩。
革靴が床を鳴らす音が、静寂の中に、やけに大きく響く。
彼は、俺の前で足を止めた。
見上げるほどの長身。
その双眸は俺だけを映している。
周りの音が消えたように感じた。
貴族たちのざわめきも、楽団の余韻も、何もかも。
ただ、ロンゲールと俺だけがそこにいるようだった。
彼が口を開いた。
これまでに聞いたことのない、静かな、それでいて熱を孕んだ声で。
「……リンタロウ。俺と結婚してくれないか」
————?
思考が、完全に停止した。
結婚?
俺は男だ。ロンゲールも男だ。臣下と主君だ。
結婚なんて、そんな、ありえないだろう。
だが、ロンゲールの目は笑っていなかった。真剣そのものだ。
俺の答えを待っているのだ。
緊張と覚悟を秘めて、俺を見つめている。
その眼差しに見覚えがあった。
火事の療養明けに、ロンゲールが俺を見ていた時だ。
好きな奴はいるかと尋ねてきた、あの夜の目だ。
俺にありがとうと呟いてくれた、あの時の——全部、同じ目だった。
俺はこれまで、それを緊張だと思っていた。
感傷だと、マリッジブルーだと、都合よく解釈してきた。
だが、本当は俺に何かを伝えようとしていたのだ。
俺が気付かないふりをしてきた、何かを。
(まさか——)
心臓が大きく跳ねる。
まさか、あの視線の全てが、あの言葉の全てが?
ロンゲールは、ずっと俺を……?
なぜ、俺はこんなにも動揺しているのだろう。
なぜ、ロンゲールに求婚されて——本来なら怒りでも湧いてくるだろうに——ただ困惑するだけでなく、胸の奥が、こんなにも熱く締めつけられるのだろう。
嫌悪ではない。恐怖でもない。
もっと別の何かが、俺の中で暴れ出そうとしている。
俺は認めたくなかった。
だから、必死に口を開いた。声が震える。
「な……何を、おっしゃっているのですか、ロンゲール様。私は臣下で……男で……」
「知っている」
ロンゲールが静かに言った。
「お前が男だってことも、俺の臣下だってことも、全部、知っている。その上で、言ってるんだ」
その言葉に、逃げ道が塞がれていくように感じた。
「なぜ、ですか?」
そう問いかけていた。
「なぜ、俺なんかを。俺はただの臣下で、あなたに、好かれるようなことなんて……」
ロンゲールは少しだけ目を細めた。




