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必死になってサポートしてきた乙女ゲーの攻略対象が、最後の最後で俺のために婚約破棄したんだが  作者: 歩く魚


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初雪と消せない火

 アンリ・ベルナールは幼い頃から、自分の人生が自分のものではないと知っていた。


 ベルナール家の娘。

 その肩書きは生まれた瞬間から課せられた役割だった。

 

 家のために美しくあれ、家のために賢くあれ、家のために良き縁へ嫁げ。母からそう言い聞かされて育った。

 アンリもまた、それを当然のこととして受け入れてきた。


 反発しなかったわけではない。

 幼い頃は淑女の作法が窮屈で、何度も母を困らせた。


 野山を駆け回り、川で魚を追い、泥だらけになって叱られた。

 年を重ねるごとに、抗うことの無意味さを悟っていった。


 自分一人がわがままを言ったところで家の事情は変わらない。

 ならばせめて立派に役目を果たそう。そう心を定めた。


 淑女としての作法を身につけ、感情を表に出さぬ術を覚え、誰に出されても恥ずかしくない娘になった。


 第二王子ロンゲールとの縁談が持ち上がった時も、アンリは粛々とそれを受け入れた。


 相手は申し分のない人物だった。

 快活で懐が深く、身分にかかわらず人を一人の人間として扱う。


 最初に庭園で言葉を交わした時、この人なら、と思った。

 退屈しない相手を選ぶと言った彼に覚悟を返したのは嘘ではない。


 良き妻になろう。

 家のため、そして自分のためにも、この縁を大切にしよう。

 そう本気で思っていた。


 ただ、一つだけ。

 心の奥に決して触れられたくない場所があった。


 ——オズワルド。


 その名を思い浮かべるたび、アンリの胸は静かに軋んだ。

 

 幼い頃からずっと傍にいた従兄。

 転べば手を貸し、泣けば泣き止むまで隣にいてくれた人。


 身分の壁があると分かっていながら、彼の隣にいる時だけ、アンリはただのアンリでいられた。

 ベルナールの娘でも、誰かの嫁ぎ先の道具でもなく、少女として笑うことができた。


 それが恋だと気づいたのは、いつ頃だったろう。

 気づいた時には、もう手遅れだった。


 自分は家のために嫁ぐ身で、彼はその縁者。

 結ばれることなど初めから許されていない。


 だからこの想いは一生胸に秘めて生きていく。

 墓まで持っていく。そう、固く決めていた。


 ・


 城に通うようになって、アンリは奇妙なことに気づいた。


 ロンゲールの傍にいつも控えている、あの金髪の側近。

 リンタロウという変わった名の青年だ。

 彼の存在が、どうにも引っかかった。


 最初は、ただの忠実な臣下だと思っていた。

 しかし見ているうちに、それだけではないと分かってきた。


 リンタロウがロンゲールに向ける眼差し。

 あれは主君を敬う臣下のものではなかった。


 もっと深く、もっと温かく、そして切ない何かを孕んでいた。

 誰かを心から大切に想う者だけが持つ眼差しだ。


 アンリには見覚えがあった。

 鏡の中で、幾度となく見てきたものだから。


 ある時、アンリはリンタロウに尋ねたことがある。

 あなたは殿下のことが好きなのか。


 彼は当然のように「臣下として敬愛している」と答えた。

 その顔には一点の曇りもなかった。

 本気でそう信じているのだ。

 自分の心の正体に、まるで気づかぬまま。


(ああ、この人は……)


 アンリはその時、痛いほどに理解した。


 リンタロウはロンゲールを想っている。

 それも本人が自覚している以上に深く。


 なのに、彼はそれを「忠誠」だと思い込んでいる。

 人の心の機微にはあれほど聡いのに、自分の気持ちには徹底的に鈍い。滑稽で、そして少しだけ、いじらしかった。


 そして、もう一つ。

 アンリはロンゲールの変化にも気づいていた。


 婚約の話が進むにつれ、ロンゲールがリンタロウに向ける視線が変わっていった。


 最初は気の置けない友のようだったものが、いつしか別の色を帯びていく。


 リンタロウが気づかぬところで、ロンゲールはひどく優しい目で彼を見ていた。

 まるで手の届かないものを見るように。失うことを恐れるように。


(殿下は気付いていらっしゃるのね)


 アンリには分かってしまった。

 ロンゲールの心が自分ではなく、リンタロウに向いていることが。


 婚約者でありながらそれを悟ってしまうのは皮肉な話だった。

 普通なら傷つくところなのかもしれない。

 裏切られたと怒るところなのかもしれない。


 だが、自分でもおかしいと思うくらい、嫉妬は湧かなかった。


 むしろ羨ましかったのだ。

 互いに想い合っているのに、それに気付かない二人。

 あるいは気付いていて口に出せずにいる二人。


 その姿はどこか自分とオズワルドに似ていた。

 身分や立場に阻まれ、想いを胸に秘めるしかない者たち。

 同じ痛みを抱えた同類だった。


 ただ、決定的に違う点が一つだけある。

 

 ロンゲールとリンタロウの間には、まだ可能性が残されている。


 二人とも生きていて、同じ場所にいて、手を伸ばせば届く距離にいる。

 あとは、どちらかが一歩踏み出すだけ。

 それだけで二人は結ばれる。


 なのに、自分とオズワルドは——。

 

 いや、本当にそうだろうか。

 アンリは、ふと諦観の足を止めた。

 

 自分は最初から諦めていた。

 家のために嫁ぐもの、本心は胸に秘めるものだと、そう決めつけて、いつからか抗おうとしなかった。


 けれど、それは本当に抗えないことだったのか。

 それとも、抗う勇気がなかっただけなのか。


 その問いが、アンリの胸に小さな波紋を広げていった。

 今まで蓋をしてきた感情が、静かに揺れ始めていた。


 

 婚約発表を数日後に控えたある日。

 アンリは城の庭で、リンタロウと二人になる機会を得た。


 ロンゲールが所用で席を外し、侍女も下がらせたわずかな時間。

 秋の終わりの庭は、葉を落とした木々が骨のような影を地面に落としていた。冷たい風が枯れ枝を鳴らしている。


「リンタロウ殿」


 アンリが声をかけると、青年は恭しく頭を下げた。


「アンリ様、何か御用でしょうか」


 いつもの礼儀正しい臣下の顔だ。

 

 この青年は、自分がロンゲールにどれほど深く想われているかも、自分がロンゲールをどれほど深く想っているかも気づいていない。眩しい。


「いいえ。ただ、少しお話がしたくて」


 アンリは落ち葉の散る小道を、ゆっくりと歩き出した。

 リンタロウが一歩後ろをついてくる。臣下としての距離。

 それでいて彼は、一種の気安さを持っていた。


「もうすぐ発表ですね」

「はい、準備は万端です。きっと素晴らしい式になりますよ」


 リンタロウの声には迷いがなかった。

 心の底からこの婚約を喜んでいる。

 アンリとロンゲールが結ばれることを、自分の悲願のように願っている。


 皮肉な話だ。

 彼が必死に整えているその舞台は、彼自身の想いを葬る場所でもあるというのに。


「リンタロウ殿は、本当に私たちのために尽くしてくださいますね」

「当然のことです。お二人の幸せが私の願いですから」


 お二人の幸せ。

 アンリはその言葉を静かに噛みしめた。


 この青年は、自分とロンゲールが結ばれることを「幸せ」だと信じている。


 だが、本当にそうだろうか。


 ロンゲールの心はここにない。自分の心も別の場所にある。


 誰も望まぬ結末へ向かって、リンタロウだけが懸命に道を整えている。


 立ち止まり、アンリは枯れ枝の向こうの空を見上げた。

 灰色の雲が低く垂れこめている。

 今にも雪が降り出しそうだった。


「昔話をしてもよろしいですか?」

「は、はい……私でよければ」


 突然のことに、リンタロウは戸惑った様子を見せた。

 婚約者である令嬢が、臣下相手に何を語り出すのか。測りかねているのだろう。


「私はずっと、自分の人生を、自分のものだと思えずにいました」


 アンリは空を見上げたまま、静かに語り始めた。


「生まれた時からベルナールの娘でした。家のために美しくあれ、賢くあれ、良き縁へ嫁げ。そう言われて育って、それが当たり前で。自分が何を望むかなんて、考えたこともなかったのです」


 リンタロウは黙って耳を傾けている。

 なぜ自分にこんな話をするのか分からないという顔をしながらも、口を挟まずにいてくれた。


「いつからか、諦めるのが癖になっていました。欲しいものを欲しいと言わない。望みを口にしない。そうしていれば傷つかずに済むから」

「アンリ様……」

「でも——」


 アンリは、静かにリンタロウの方へ向き直った。

 その顔には、これまで決して人前で見せなかった晴れやかな表情が浮かんでいた。


「最近、ようやく気付いたんです。諦めることと、抗えないことは、違うのだと」


 リンタロウは、言葉の意味を掴みかねて瞬きをした。


「私はずっと、抗えないと思い込んでいました。でも、本当は抗う勇気がなかっただけ。自分の弱さを運命のせいにしていただけなんです」


 冷たい風が二人の間を吹き抜けた。

 枯れ葉が舞い、灰色の空へと吸い込まれていく。


「だから……決めました。もう、自分の心に嘘をつかないと」


 アンリの声は静かではあったが、並々ならぬ決意を秘めていた。

 長く凍りついていたものが、ようやく溶け出したような、そんな声だ。


 婚約を控えた令嬢の決意。

 それが何を意味するのか、鈍い彼には、まだ届かない。


「あの……アンリ様。それは、つまり……」

「ふふ、今はまだ、言いません」


 アンリは悪戯っぽく笑った。

 その笑顔は、令嬢の仮面の下から覗いた、素のアンリのものだった。


「覚えておいてほしいのです」


 彼女は、まっすぐに青年を見据えた。


「人は、自分を偽ったまま、誰かを幸せにすることはできません。本当の幸せは、自分の心に正直になった先にしかないんですよ」


 その言葉はアンリ自身に向けたものでもあり、同時に、目の前の鈍い青年に向けた餞でもあった。

 

 いつか、この人も気づくだろう。

 自分が本当に望むものに。

 その時、この言葉を思い出してくれればいい。


「は、はあ……なんだか、難しいお話ですね」


 リンタロウは、やはりぴんと来ていないようだった。


 アンリは思わず吹き出してしまった。


 本当に、どこまでも鈍い人だ。

 けれど、鈍さの奥にある温かい心をアンリは知っている。


 だからこそ、願わずにはいられなかった。

 この善良な青年が、いつか自分の想いに気付き、報われる日が来ることを。


「ええ、難しい話です。今は分からなくて構いません」


 アンリは柔らかく微笑んだ。


「いつか、分かる日が来ますから」


 雪がひとひら、彼女の頬に落ちた。

 今年の初雪だった。


 ・


 自室に戻ったアンリは文机の前に座っていた。


 手元には一枚の便箋。差出人はオズワルドだった。

 数日前に届いた、何気ない時候の挨拶だ。


 婚約を控えた自分を気遣い、当たり障りのない言葉だけが丁寧な筆致で綴られている。

 その行間に滲む想いを、アンリは知っていた。

 

 彼もまた、自分と同じだ。

 言いたいことを飲み込んで、ただ「お幸せに」と書くことしかできずにいる。

 その不器用な優しさが、たまらなく愛おしい。


 アンリは、便箋をそっと胸に当てた。


 もう、互いに偽るのはやめよう。

 たとえ家に背くことになっても、いばらの道が待っていても。

 一度きりの人生だ。自分の心に正直に生きてみたい。


 窓の外では、雪が静かに降り積もっていく。

 白い結晶が、夜のしじまを音もなく満たしていった。


 あと数日。数日後、すべてが動き出す。

 その時、自分も本当の想いに従って動くのだと、アンリは固く心に誓った。


 長く凍りついていた胸の奥に小さな火が灯っている。

 その火は誰にも消せない。


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