本当の障害
「リンタロウ殿。少し、お時間をいただけませんか?」
城の回廊でオズワルドに声をかけられた時、俺は反射的に身構えた。
オズワルド。俺がひそかに「最大の障害」と位置づけている男だ。
火事の前、城に滞在していた折にすっかり懐かれてしまったが、警戒を解いたわけではない。
「私にですか。何用でしょう」
「込み入った話、というほどでもないのですが……少し、相談に乗っていただきたくて」
オズワルドは、なんとも言いにくそうに視線を泳がせている。
頬がほんのり赤い。普段の落ち着いた様子とは違って、どこか落ち着きがなかった。
(俺に相談を……?)
嫌な予感がした。この手の、口ごもりながらの「相談」というのは大抵ロクな話ではない。経験則だ。
とはいえ、突っぱねるのも角が立つ。聞かざるを得ない。
俺たちは人気のない中庭の一角へ移動した。
秋の陽だまりの中、石のベンチに並んで腰掛ける。
オズワルドはしばらくもじもじとしていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「リンタロウ殿は……その、恋の経験は、おありですか」
俺は危うく咽せそうになった。
「こ、恋……ですか?」
「はい。実は私、生まれて初めて、その……人を、好きになってしまったようで」
俺の頭の中で警鐘が打ち鳴らされた。
好きになった。オズワルドが、生まれて初めて。
待て待て待て。この男が好きになる相手など、一人しか思い当たらない。アンリだ。間違いなくアンリだ。
広場で見た二人の親密な様子。あれが全てを物語っている。
(こいつ、よりによって、俺にアンリへの恋を相談する気か……!?)
控えめに言って最悪の展開だ。
俺の使命はアンリをロンゲールとくっつけること。
なのに、その障害たるオズワルドから、よりによってアンリへの恋路を相談される。これほど困る話はない。
「あの、リンタロウ殿? 顔色が——」
「いえ、大丈夫です。お続けください」
俺は引きつった笑みを浮かべて先を促した。
まずは相手の出方を見るしかない。下手に動けば藪蛇だ。
「その方は、とても美しくて、聡明で……でも、私とは身分が違いすぎるのです。私のような者が、想いを寄せていいような相手では、決してなくて……」
オズワルドは、膝の上で両手を握りしめながら訥々と語る。
身分が違いすぎる。聡明で美しい。やはりアンリのことだ。
確定的だ。俺は内心で頭を抱えた。
「それで……私は、この想いを、どうすべきなのかと。胸に秘めたまま生涯を終えるべきなのか。それとも——」
「お、お待ちください」
俺は思わず遮った。これ以上聞いてはまずい。
予想以上にマジだ。このまま話を聞いてしまえば、結果的にアンリとオズワルドの仲を後押しすることになりかねない。
それは俺の計画と真っ向から対立する。
「その、オズワルド殿。お相手のことですが……まさか、とは思いますが……」
「……察しがよろしいのですね」
オズワルドは観念したように苦笑した。
「えぇ、リンタロウ殿にならお分かりでしょう。私が想っているのは——」
「言わないでください!」
俺は、ほとんど叫ぶように遮った。
オズワルドがびくりと肩を震わせる。
「り、リンタロウ殿……?」
「あー、そのですね。お名前は、伏せておきましょう。ええ。言葉にしてしまうと、その想いが、こう……軽くなってしまう気がしますので」
苦し紛れにもほどがある理屈だった。
だが、ここで「アンリ」と明言されてしまえば、俺はもう逃げ場を失う。
婚約者の従兄弟が、その婚約者に横恋慕している。
それを知ってしまった臣下が知らんぷりで婚約を進める。
さすがに寝覚めが悪すぎる。
オズワルドは、俺の必死の形相に気圧されたのか、こくりと頷いた。
「……分かりました。では、名は伏せます。ただ……聞いていただけますか。この胸の内を、誰かに話したかったのです」
その声があまりに切実で、俺は言葉に詰まった。
断ることができない。オズワルドの目は、ずっと張り詰めていた何かを、ようやく吐き出す場所を見つけた、そういう目だった。
ここで突き放すのはあまりに薄情だ。
たとえ相手が「障害」であっても、人として、それはできそうにない。
「……分かりました。お聞きします」
俺がそう言うと、オズワルドは小さく息を吐き、ぽつりぽつりと語り始めた。
「あの人とは、幼い頃から、ずっと一緒でした」
幼い頃から。やはりアンリだ。
俺は内心で思ったが口には出さない。
「身分の壁はありましたが、子供の頃は、そんなもの関係なかった。一緒に野山を駆けて、川で遊んで……あの人が転べば手を貸して、泣けば、泣き止むまで傍にいました」
オズワルドの口元が、懐かしむように緩む。
その表情には嘘や誇張がない。心からのものだった。
「大きくなるにつれて、立場の違いを嫌でも思い知らされるようになりました。あの人は、家のために生きることを定められた人。私は、その傍に控えることしかできない者」
彼は、膝の上で組んだ手に視線を落とした。
「それでも、傍にいられるだけでよかったのです。あの人が笑っていてくれるなら、それで。……欲を出すなんて許されないと、ずっと自分に言い聞かせてきました」
その言葉が、なぜか俺の胸の奥に小さく刺さった。
「ですが」
オズワルドの声が、わずかに揺れた。
「最近になって……あの人が、家の決めた相手と、結ばれることになりそうだと、聞きました」
家の決めた相手。それは——ロンゲールのことだ。
「その相手が、立派な方であることは知っています。あの人を大切にしてくれる方だとも。だから……喜ぶべきなのだと、思います。あの人が幸せになるなら、それが一番なのだと」
オズワルドは、無理に微笑もうとして失敗していた。
口角は上がっているのに、目がまるで笑っていない。
むしろ、今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「でも……どうしても、心が追いつかないのです」
絞り出すような声だった。
「あの人が、他の誰かの隣で笑う。それを想像すると……胸が引き裂かれそうになる。こんな浅ましい気持ちを抱く自分が、嫌で嫌でたまらない」
俺は何も言えなかった。
目の前のオズワルドは、もはや「障害」でも「邪魔者」でもなかった。
ただ、報われぬ恋に苦しむ一人の青年だ。
好きな相手の幸せを願いながら、それでも諦めきれず、自分を責めている。
その姿は滑稽でも卑しくもない。痛々しいほどに、誠実なのだ。
(……こいつは)
俺は、これまでオズワルドを計画の障害物としか見ていなかった。
アンリから遠ざけるべき存在。排除すべき邪魔者。
それ以上でも以下でもなかった。
だが……この男は誰よりも深く、長く、アンリを想ってきた。
子供の頃からずっと。身分の壁に阻まれ、諦めることを強いられながら、それでも想いを捨てられずにいる。
その重みを、俺は、何一つ分かっていなかった。
「リンタロウ殿……すみません、こんな湿っぽい話ばかり」
オズワルドがはっとしたように顔を上げた。
「困らせてしまいましたね。忘れてください。ただ、誰かに聞いてほしかっただけなのです。あなたは……不思議と話しやすいので」
彼はぎこちなく笑った。
「……いえ」
俺はようやく口を開いた。
何を言うべきか自分でも分からないまま。
「オズワルド殿、その想いは……決して、浅ましいものではありません」
オズワルドが驚いたように俺を見る。
「好きな人の幸せを願いながら、それでも諦めきれない。それは、あなたが本気だという証です。恥じることではない」
言いながら、俺は、自分でも不思議な気持ちになっていた。
オズワルドを慰めている。アンリから遠ざけるべき相手を。突き放すべき相手のはずなのに。
でも止められない。この男の誠実さを、ただの障害として切り捨てることが、どうしてもできなかった。
「……ありがとう、ございます」
オズワルドは目元を拭いながら、深く頭を下げた。
「リンタロウ殿は、やはりお優しい方ですね。あなたのような方が、あの人の嫁ぎ先にいてくれるなら……少しは、安心できる気がします」
その言葉に、俺は曖昧に頷くことしかできなかった。
安心できる。アンリの嫁ぎ先に、俺がいるから。
——本当にそうだろうか。
俺がやろうとしていることは、本当にアンリの幸せに繋がるのだろうか。
ふと、そんな疑問が胸をかすめた。俺はすぐにそれを打ち消した。何を馬鹿な。
アンリはロンゲールと結ばれる。それが正しい結末だろう。
オズワルドには気の毒だが、それとこれとは話が別だ。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、別れ際に見たオズワルドの背中が、しばらく頭から離れなかった。
うなだれて去っていくその姿は、俺がよく知るもう一人の人間の背中と、どこか重なって見えたからだ。
誰の背中だったか。俺はまだ思い出せずにいた。




