変わり始めた日々
目を覚ますと、見慣れない天井があった。
石造りではない。木目の浮いた素朴な板張りの天井だ。
城の自室でないことは、すぐに分かった。
「……ここは」
声を出そうとして、喉の奥がひどく引きつった。
焼けるような痛みに、思わず咳き込む。
その拍子に、肩にも鈍い痛みが走った。包帯が巻かれている。
煙にやられた喉と、火の粉で焼けた肩。
身体中が鉛のように重い。
「気がついたか」
声のした方へ目を向けると、寝台の脇に、見覚えのある古参の従者が座っていた。
イツヤだ。普段の豪快な笑みはなりを潜め、心底ほっとしたような顔をしている。
「イツヤ殿……私は、あれからどれくらい」
「あの後、丸一日眠ってたよ。お前さん、一度地面で目を覚まして散々喋った後、糸が切れたみたいにまた気を失ってな。医者が言うには、煙を吸いすぎたが命に別状はないとさ。肩の傷も、痕は残るかもしれんが、じきに塞がる」
「子供は……あの家の子は、無事ですか」
「ぴんぴんしてるよ。お前さんとロンゲール様のおかげでな。親御さんが何度も頭を下げに来た。火はその後、町総出で消し止めたぜ。死人は出てない」
その言葉に、俺は詰めていた息を、ようやく吐き出した。
「ロンゲール様は、ご無事なんですよね」
「あぁ、無事だ。かすり傷一つない。お前さんが庇ったからな」
イツヤはそう言って、しばらく俺の顔をじっと見た。
それから、何かを思い出したように、にやりと口角を上げる。
「そういや、お前さん。地面で目を覚ました時、ロンゲール様に向かって、随分と熱烈なこと言ってたらしいなぁ」
ぎくりとした。
「……聞いていたのですか」
「いんや、俺は後から聞いた。だが、その場にいた連中が言うには、そりゃあもう、聞いてるこっちが照れちまうような口説き文句だったとか」
「く、口説き文句……」
俺は思わず咳き込んだ。喉の痛みではなく、別の理由で。
「人聞きの悪い。あれは口説き文句などではありません。臣下として、ロンゲール様への忠誠を述べたまでです」
「忠誠なぁ」
「そうです。あなたのために尽くしたい、お傍にいたい、というのは、仕える者として当然の——」
「お傍にいたい、ねぇ」
イツヤが、なぜか生暖かい目で俺を見る。
その視線の意味が分からず、俺は居心地の悪さを覚えた。
「……何ですか、その目は」
「いや、なんでもねえよ。お前さんがそう言うなら、忠誠なんだろうさ。うん」
含みのある言い方だった。
この古株は、時々こうして俺をからかってくる。長年ロンゲールに仕えているだけあって、人をおちょくる呼吸を心得ているのだ。
俺はむっとしつつも、これ以上取り合わないことにした。
忠誠は忠誠だ。あの場で口にしたことは、一字一句、俺の本心である。
ロンゲールが生きていてくれるなら、それでいい。隣で支えたい。それの何が口説き文句なものか。まったく、心外だ。
・
それから数日、俺は町の医者の家で大人しく療養した。
喉の腫れが引き、声がまともに出るようになった頃、ようやく城へ戻る許可が下りた。
馬車に揺られて見慣れた城門をくぐると、なんだか随分と久しぶりに帰ってきた気分になる。十日にも満たない時間、離れていただけなのに。
ところがだ。城へ戻った俺を待っていたのは、なんとも勝手の違う日々だった。
「リンタロウ。お前、もう動いていいのか」
復帰の挨拶にとロンゲールの執務室を訪ねるなり、彼は書類から顔を上げて、開口一番そう言った。
声に、隠しきれない気遣いが滲んでいる。
「はい。医者からも、通常の職務であれば差し支えないと」
「無理してないか。喉は? 肩は?」
「おかげさまで、すっかり」
「……そうか」
ロンゲールはまだ何か言いたげに、俺の全身を上から下まで眺め回した。
どこかに見落とした傷でもないかと探すように。
その視線が妙にこそばゆい。
「あの、ロンゲール様。私はもう大丈夫ですので、どうかお気遣いなく」
「気遣うだろ、普通。お前、俺を庇って死にかけたんだぞ」
「結果として無事でしたから」
「結果としてって言うな」
ロンゲールは渋い顔をした。
なんというか、いつもの彼らしくない。普段ならここで「お前が無事でよかった」とからりと笑って、すぐに軽口の応酬になるところだ。なのに今日は、どうにも湿っぽい。
(よほど、責任を感じているんだな)
俺は内心で申し訳なく思った。
臣下が自分を庇って大怪我をした。
情に厚いこの人にとって、それがどれほど堪えたか。
きっと、眠れない夜もあっただろう。
早く普段通りに戻って、安心させなければ。
「ロンゲール様。火事の件は、私が勝手にしたことです。ロンゲール様が気に病まれることは何一つありません」
「気に病んでるわけじゃ……いや」
ロンゲールは言葉を切り、片手で口元を覆った。
それから、低く呟く。
「……そういうことにしとくか」
そういうことに……しとくか?
・
その日から、ロンゲールの様子はどうにも妙だった。
妙という言い方は正しくないかもしれない。
ただ、これまでとは何かが違う。
明確に言葉にできないのが、もどかしいのだが。
まず、やたらと俺を気にかけるようになった。
「リンタロウ、顔色が悪いぞ。少し休め」
「いえ、まだ昼前ですので。力は有り余っています」
「いいから休め。お前はすぐに無理をするからな」
こんな調子で、事あるごとに休憩を取らせようとする。
以前は俺がどれだけ働こうと「よくやる」と笑って任せていたのに。
火事以来、まるで腫れ物にでも触れるように俺の体調を気遣ってくる。
それだけではない。
二人で書類を検めている時、ふと視線を感じて顔を上げると、ロンゲールがこちらを見ていることが増えた。
仕事の話をしているわけでもないのに、じっと見つめている。
目が合うと、彼はさっと視線を逸らす。何でもないというふうに。
最初は、まだ俺の体調を心配しているのかと思った。
だが、どうもそれとは違う種類の視線のような気がする。
なんと言えばいいのか。
値踏みでも心配でもなく……落ち着かない、何かを探るような目だ。
「ロンゲール様、何か私の顔についていますか?」
「いや、何も。何かあったのか」
「先ほどから、よく私を見ておられるので」
「……気のせいだろ」
気のせいで済まされてしまう。
だが、明らかに気のせいではない。
この数日、俺はロンゲールの視線を嫌というほど背中に感じていた。
極めつけは、言葉の途切れ方だ。
ロンゲールは元々、何か言いかけて飲み込む癖があった。
火事の前から、それは時々あった。
だが、最近のそれは質が違う。
「なあ、リンタロウ。お前は——」
「はい?」
「……いや」
「え、なんですか?」
「なんでもない、忘れろ」
こういうやり取りが一日に何度もある。
以前の「いや、いい」は、どこか照れ隠しのような軽いものだった。
けれど今のそれは、もっと重い。
言うべきか言わざるべきか、本気で逡巡しているような、そんな途切れ方だ。
喉まで出かかった何かを、ぎりぎりで押し戻している。
一体、何を言いたいのだろう。
気にはなったが、こちらから問い詰めるのも違う気がして、俺はそのままにしておいた。
言いたくなれば、そのうち言うだろう。
ロンゲールはそういう男だからな。
・
ある夜のことだった。
遅くまで残った仕事を片付け、俺がそろそろ下がろうとした時。ロンゲールが、ぽつりと言った。
「リンタロウ。お前、好きな奴とかいるのか」
唐突すぎて、俺は持っていた書類を取り落としそうになった。
「藪から棒に、どうされました?」
「いや、ふと気になっただけだ。お前、城に来てもう結構経つが、そういう話を一度も聞かんからな」
ロンゲールは机に頬杖をつき、こちらを見ている。
その目は妙に真剣だった。世間話にしては視線の温度が高いというか。
(なぜ急にそんなことを……?)
俺は内心で首をひねった。
だが、すぐに思い至る。
これはきっと、以前ロンゲールが言っていた「お前を胸のでかい美人とくっつけてやる」という話の続きだ。
夜の町で覗きを捕まえた夜の。
ロンゲールは情に厚い男だから、火事で死にかけた臣下に、ささやかな幸せでも見繕ってやろうと思ったのかもしれない。
なるほど、ありがたい話ではある。
「好きな相手ですか。残念ながら、今のところは」
「いないのか」
「えぇ、なにせロンゲール様のお世話で手一杯ですので」
俺がそう答えると、ロンゲールは少し意外そうな顔をした。
「お前、好みとかはあるんだろ。どういうのがいいんだ」
「私の好みですか。そうですね……」
聞かれて、俺は正直に答えることにした。隠すことでもない。
「やはり、ふくよかで、その、女性らしい身体つきの方が好ましいかと。あと、よく笑う方がいいですね」
「……なるほど」
ロンゲールの相槌がなぜか低かった。
心なしか、機嫌が下がったような気がする。
「それは女に限った話か? それとも、男もそうなのか?」
彼の言う「そう」が何か分からないが、とりあえず答えておくことにする。
「男性ならやはり、鍛えられている方の方がいいんじゃないですか? ストイックさに憧れますよね」
「そうかそうか、そう思ってくれるか」
今度は機嫌が良くなった。
「まぁ、私の好みなどどうでもいいのです。それよりロンゲール様」
俺はここぞとばかりに、話を本筋へ引き戻すことにした。
こんな好機を逃す手はない。ロンゲールが恋愛の話に乗ってきている今こそ、肝心のことを確かめておくべきだ。
「ロンゲール様こそ、アンリ様のことはどう思われているのですか。お好みに合っておいででしょうか」
婚約者の話だ。ここで「アンリは好みだ」という言質さえ取れれば、俺の計画はまた一歩前進する。
我ながら見事な話の運びだ。
しかし、ロンゲールは頬杖をついたまま、長いため息をついた。
心底呆れたような。あるいは力が抜けたような。そんなため息だ。
「……お前さ」
「はい」
「今、俺がアンリ嬢の話をしてたか?」
「恋のお話をしておりましたので、てっきり」
「俺はお前の話をしてたんだよ」
ロンゲールはそう言って、片手で目元を覆った。
その仕草が何を意味するのか、俺にはやはり分からない。
「私の話ですか……私の恋愛遍歴など、面白くもないでしょうに」
「面白いかどうかじゃねえんだよ。……はぁ。もういい」
怒ってはいない。
どこか愛おしいものでも見るような目をしている。
「お前は本当に……どこまでも、俺の思い通りにならんな」
「申し訳ありません。気の利かない臣下で」
「そういう意味じゃねえよ。ったく」
ロンゲールは笑いながら、「もう下がっていいぞ」と手を振った。
俺はその意図を測りかねつつも、一礼して執務室を辞す。
廊下に出ると、夜気がひんやりと頬を撫でた。
なんとも、おかしな夜だった。
好きな奴はいるか、好みはどうだと聞いておきながら、いざ俺がアンリの話を振れば興味なさそうにため息をつく。
ロンゲールが何を考えているのか、さっぱり読めない。
(アンリとの仲は、また別の機会に探るとするか……)
俺はそう気持ちを切り替えて、自室への道を歩き出した。




