嵐の前の静けさ
顔合わせの邸は、町の外れにあった。
手頃と聞いていたが、なかなかどうして立派な造りだ。
二階建ての石壁の館で、蔦の絡んだ門をくぐると、よく手入れされた庭が広がっている。
芝は短く刈り揃えられ、花壇には秋の花が控えめに咲いていた。
ベルナール家と王家、双方の体面を保つには、確かに申し分ない場所だった。
「ほぅ、思ったより悪くないじゃないか」
ロンゲールが館を見上げて言う。地味な外套を羽織った彼は、一見するとどこかの商家の主人のようだ。
本人は「こういうのは似合わん」とぼやいていたが、傍から見ればかなり様になっている。
当人にそれを言うと調子に乗るので、口にはしないが。
「えぇ、庭も広くて馬車の取り回しも楽そうです。当日はこちらの正面に両家の車を寄せて、客人は東の入口から——」
言いながら、俺の頭は勝手に動き始めていた。
客間はどこに取るか。控えの間は確保できるか。茶や料理はどの経路で運び込むのが効率的か。
アンリが一息つける部屋は要るだろう。ロンゲールとベルナール家当主が話す席の配置は、上座下座を間違えれば角が立つ。考えることは山ほどある。
「おいおい……リンタロウ」
「はい。なにか追加するべきことが——」
「完全に仕事の目になってるぞ。今日はただの下見だ。そう根を詰めるな」
「……失礼しました。性分でして」
俺が頭を下げると、ロンゲールは「お前らしいけどな」と苦笑した。
邸の主に案内され、館の中を一通り検分する。
日当たりの良い客間、磨き込まれた廊下、しっかりとした厨房に、来客用の落ち着いた一室。
どこを取っても申し分なかった。俺は当日の動線を一つ一つ頭に刻みながら要所を確かめていく。
「当日は、私が先に参って準備を整えます。殿下は刻限に合わせてお越しいただければ結構です」
「こんな仕事……俺が言うのもアレだが、頭がおかしくなりそうにならないのか?」
「なりません。段取りだけが取り柄ですので」
「いいや、お前はそんな男じゃない。魅力はそれだけじゃないさ」
そんなに自分を卑下するなと言いたいのだろう。
ロンゲールの軽口に、俺は曖昧に笑い返した。
最近の彼は、こういう何気ない言葉を不意に挟んでくる。
深い意味はないのだろうが、こちらとしては少しばかり調子が狂う。
臣下を持ち上げて何が楽しいのか。
機嫌が良いに越したことはないので、ありがたく受け取っておくが。
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検分を終えると、刻限まではまだ余裕があった。
「せっかくだ、少し町を見て回るか。流石にもう大丈夫だろうしな」
ロンゲールがそう言うので、俺たちは護衛と適度に距離を取り、町の通りへ繰り出すことにした。
目立たぬよう振る舞ってはいるが、ロンゲールの巨躯はどうしたって人目を引く。
それでも旅商人風の格好のおかげか、町の者たちは特に気に留める様子もない。
たまにすれ違う娘がちらりと振り返るのは、たぶん体格のせいだ。
顔のせいかもしれない。どちらにせよ厄介な男である。
町は収穫期の活気に満ちていた。
通りの両脇には、刈り取ったばかりの穀物が俵に詰められて山と積まれ、軒先には乾燥させた果実が紐に連なって吊るされている。
香ばしい穀物の匂いと、甘い果実の香りがそこかしこから漂ってきて、嗅いでいるだけで腹が鳴りそうだ。
荷車が行き交い、商人の威勢のいい声が飛び交う。豊かな町だった。
「賑やかだな」
「収穫の時期ですからね。一年で一番、町が活気づく頃合いでしょう」
広場の方では、女たちが大きな鍋を幾つも囲んで、何やら作業をしていた。
近づいてみると、収穫したばかりの果実を煮詰めて、保存食をこしらえているらしい。
とろりとした赤い液が鍋の中で静かに泡立ち、湯気と共に甘い香りを立ち上らせている。
「ありゃあ何を作ってるんだ?」
「冬越しの保存食かと。果実を砂糖と一緒に煮詰めて、長く保つようにするんです。パンに塗ったり、菓子にしたり」
「ほぉ〜、そういえば田舎の出だもんな。詳しいわけだ」
「この手の作業は見て育ちましたから」
俺がそう説明すると、作業をしていた一人の老婆が、こちらに気づいて顔を上げた。
「おや、旅の人かい? 良かったら味見していくかね」
「いいのか?」
「構いやしないよ。今年はたんと採れたからね、おすそ分けさ」
老婆は気前よく、煮詰めた果実を木の匙にひと匙すくって差し出した。
ロンゲールは遠慮なくそれを口に運び、ふと目を見開く。
「うまいな、これは!」
「だろう? この町の果実は、よそとは出来が違うんだよ。土がいいからねぇ」
老婆は誇らしげに胸を張った。
ロンゲールはすっかり気を良くして、老婆としばらく世間話に興じる。
こういう時の彼は、本当に身分の壁というものを感じさせない。
相手が王族だと知らない老婆も、気のいい旅人と喋っている気でいるのだろう。屈託なく笑い合っている。
俺はその様子を、少し離れて眺めていた。
ロンゲールという男は本当に不思議だ。
王族でありながら、こうして名もなき町の老婆と何の隔てもなく言葉を交わせる。
立場を笠に着ることもなければ、卑屈になることもない。
ただ目の前の相手を一人の人間として扱う。
だからこそ人が集まっていく。
原作でも、この気質は変わらなかった。
「あんたたち、どこから来たんだい」
「まぁ、あちこちだ。商売でな」
「そうかい。なら、火の元にだけは気をつけるんだよ」
老婆が、ふと声の調子を変えて言った。
「火の元?」
「今年はよう乾くからね。果実の出来はいいんだが、そのぶん火が怖いのさ。藁も穀物もカラカラに乾いてる。一度火がつきゃ、あっという間に燃え広がっちまう」
言われてみれば、空気は妙に乾いていた。
喉の奥がひりつくような、そんな乾き方だ。
雨がしばらく降っていないのだろう。
「去年は隣町でボヤ騒ぎがあってねえ。風の強い日でさ、家が三軒も焼けちまった。うちらも気をつけちゃいるが、こればっかりは運もあるからね」
乾いた風が通りを吹き抜けた。
軒先に吊るされた干し果実が、カラカラと乾いた音を立てて揺れる。積まれた藁の山が表面を波立たせた。
味見の礼を言い、俺たちは再び通りを歩き出した。
ロンゲールは上機嫌だった。煮詰めた果実の甘さがよほど気に入ったらしく、「あれは菓子に練り込んでも旨いだろうな」などと、らしくないことを言っている。
「甘い物がお好きでしたか?」
「嫌いじゃない。だが城で出てくるのは気取った菓子ばかりだろ? ああいう素朴なやつの方が俺は好きだ」
「意外ですね。もっと豪勢なものを好まれるかと」
「お前、俺をなんだと思ってるんだ」
「トレーニングと女性のことしか考えていない御方かと」
「そこそこ合ってるのが腹立つな」
軽口を叩き合いながら、俺たちは町の中をぶらついた。
露店をひやかし、職人の手仕事を眺め、子供らが駆け回るのを避けながら歩く。
なんてことのない時間だった。
だが、こういう時間が存外、悪くない。
城にいると、ロンゲールは常に「第二王子」として振る舞わねばならない。
けれど今この瞬間の彼は、ただの気のいい大男として町に溶け込んでいる。
そういう彼を見られるのは悪い気分ではなかった。
「リンタロウ」
「はい」
「お前、こういうのは好きか」
「こういうの、とは」
「町を歩くとか。何も決めずに、ただぶらぶらするとか」
唐突な問いだった。
俺は少し考えてから答える。
「……嫌いではありません。むしろ、好きな方かと」
「そうか」
「殿下とこうして歩くのは、なおさら」
深い意味はなかった。
ただ、本音がするりと口から滑り出ただけだ。
臣下としてではなく、一人の人間として、この時間を悪くないと思っている。それだけのことだった。
だが、ロンゲールは一瞬、虚を突かれたような顔をした。
それから、ふいと前を向いて、ぶっきらぼうに言う。
「……変な奴だな、お前は」
「よく言われます」
「だろうな」
その横顔が、なぜか少しだけ赤いような気がしたが、たぶん西日のせいだろう。
通りの一角に小さな広場があった。
古い井戸を囲むように石のベンチが並び、何人かの町人が腰掛けて休んでいる。
ロンゲールは「少し休むか」と言って、空いたベンチにどさりと腰を下ろした。
大きな身体が座ると石のベンチがいっぱいになる。
俺もその隣に、遠慮がちに腰を掛けた。
「……いい町だな」
ロンゲールが、井戸の方を眺めながら言った。
「アンリ嬢も、こういう町で育ったんだろうな。ベルナールの領は、ここからすぐだ」
「そうですね。先ほどの邸からも、領地は目と鼻の先かと」
「だからかもな。あの女が時々見せる素朴な感じ。城のお嬢様には似合わん、土の匂いのするやつだ」
その言い方には、棘がなかった。
むしろ、どこか好ましいものを語るような響きだった。
アンリの飾らない一面をロンゲールはちゃんと見ている。
婚約者として、彼女のことを少しずつ理解しようとしているのだろう。
(いいぞ……ロンゲールは受け入れ始めている)
俺は内心で頷いた。
ロンゲールがアンリの良さを認める。
これは婚約に向けての確かな前進だ。
下見のついでに思わぬ収穫があったな。
「殿下が、そうしてアンリ様を気にかけてくださるのは何よりです」
「気にかけているか? 俺が」
「えぇ。お二人がより深く理解し合えれば、これほど喜ばしいことはありません」
俺がそう言うと、ロンゲールはしばらく黙っていた。
しばしの沈黙があって、彼は小さく息を吐いて空を見上げる。
「……お前は、本当にそればっかりだな」
「そればかりとは?」
「いや、なんでもない」
ロンゲールは立ち上がり、軽く伸びをした。
「そろそろ戻るか。日が暮れる前に護衛と合流しないとな」
「そうですね。馬の支度もありますし」
俺も腰を上げ、外套の埃を払う。
西の空は、いつの間にか茜色に染まり始めていた。
乾いた風は、まだやまない。
軒先の干し果実が、相変わらずカラカラと揺れている。
充実した下見だった。
邸は申し分なく、町の様子も把握できた。
何より、ロンゲールがアンリへの理解を深めてくれた。
今日という日は、俺の計画にとって、間違いなく実りある一日だった。
そう思いながら俺たちは広場を出て、来た道を引き返そうとした——その時。
「——火事だッ!」
町の奥から、引き裂くような叫びが上がった。




