岐路
婚約の話がいよいよ表に出てきた。
ある朝、俺がロンゲールの執務室に向かうと、廊下の途中でイツヤに呼び止められた。
「おうリンタロウ。聞いたか?」
「イツヤ殿がトイレで足を滑らせたことですか?」
「違うわ! 殿下とベルナールの令嬢の縁談、正式に話が進むらしいぞ。近々、両家で顔合わせの場が設けられるとか」
来た。ついに来たぞ、と俺は内心で快哉を叫んだ。
(よし……! ここまで漕ぎ着けた……!)
原作では、この縁談が二人を結びつける最初の確かな一歩になる。
もっとも原作のロンゲールルートは、その先で盛大に拗れて心中エンドへ突き進むわけだが、それは攻略対象から手を出させない奥手主人公と、紳士すぎる攻略対象が招いた悲劇だ。
今回は違う。俺がついている。二人の間に立ち、すれ違いの芽を片端から摘み取ってきた。同じ轍は踏ませない。
「ずいぶん嬉しそうだな」
「滅相もない。臣下として、主君の慶事を喜んでいるだけです」
「まぁお前は前から殿下と令嬢をくっつけたがってたもんなぁ」
イツヤが顎髭を撫でながら、にやりとする。
「俺ぁ長いこと殿下にお仕えしてるが、お前みたいに熱心な世話役は見たことねえよ。実の親でもそこまでしないってくらいだ」
「恐れ入ります」
「褒めてんのか呆れてんのか、自分でも分からんがな!」
イツヤは豪快に笑って、俺の背をバンと叩いた。
相変わらず手加減を知らない人だ。細い俺の背骨が軋む。
・
執務室に入ると、ロンゲールは書類の束を前に、珍しく難しい顔をしていた。
「失礼します。顔合わせの件、伺いました」
「あぁ、その話か」
ロンゲールは書類から顔を上げる。
「父上が乗り気でな。ベルナール家も異存はないらしい。とんとん拍子だよ」
「おめでとうございます。願ってもないお話かと」
「お前は本当にそう思ってるよな」
「思っております。何度も申し上げている通り、お二人はお似合いです」
俺は胸を張って答えた。
ここで揺らいではいけない。婚約成立まで俺は全力でこの縁談を後押しする。それが俺の使命であり、存在意義だ。
ところが、ロンゲールの反応は芳しくなかった。
彼は「そうか」とだけ呟いて、また書類に視線を落とす。
その横顔には、慶事を控えた男にはおよそ似つかわしくない重たい影が差していた。
(……あれ?)
俺は首を傾げた。
おかしい。婚約が前進したというのにロンゲールはちっとも嬉しそうじゃない。
むしろ、何か気がかりでもあるかのように沈んでいる。
ゲームのロンゲールなら、この段階ではもっと前向きだったはずだ。
アンリへの好意も芽生え始めて、未来に希望を抱いて——いや待て。
原作のこの時期、ロンゲールはどんな様子だっただろうか。
記憶を手繰ってみるがはっきりしない。
そもそも原作はアンリ視点で進むから、ロンゲールの内面なんて断片的にしか描かれていない。
攻略対象の心情なんて、好感度が上がった時のイベントでちょろっと匂わされる程度だ。
(……考えても仕方ないか)
俺は深く追及しないことにした。
男だって、人生の一大事を前にすれば気が重くなることもある。
結婚という大きな決断だ。多少のナーバスさは、むしろ自然だろう。
結婚の経験がない俺には分からないだけで。
そう自分を納得させた。
「殿下、もしご不安があるようでしたら——」
「不安?」
ロンゲールが、ふと顔を上げた。
「俺が……不安そうに見えるのか」
「いえ、その……少々、お元気がないように」
「……そうかもな」
ロンゲールは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
長い沈黙が落ちる。何かを言おうとしているのか、言うべきか迷っているのか。彼の喉が小さく上下した。
「なあ、リンタロウ」
「はい」
「お前は、これでいいと思うか」
その問いは、いつもの「アンリ嬢をどう思う」とは少し違って聞こえた。
もっと漠然として、もっと根本的な何かを問うているような。
「これで、と申しますと?」
「……いや」
ロンゲールはそこで言葉を切った。
また、いつもの「いや、いい」が出るのかと思った。
だが今回、彼は少しだけ続けた。
「全部上手くいっている。父上もベルナール家も、周りはみんな祝福してる。順調すぎるくらいだ」
「はい」
「なのに、なんでだろうな。心の底から喜べないんだよ、俺は」
ぽつりと漏らされたその言葉に、俺は返す言葉を失いかける。
「殿下。それはきっと、心構えの問題かと——」
言いかけて、俺は口を噤んだ。
なんだか、自分でも薄っぺらいことを言おうとしている気がしたからだ。心構えがどうの、誠実さの裏返しがどうの。そんな上滑りな励ましを、この人が求めているとは思えなかった。
ロンゲールは俺の言葉の続きを待つでもなく、ふっと息を吐いて姿勢を戻した。
「考えても始まらん話だ」
彼は自分で勝手に切り上げてしまった。
らしくないと言えばらしくないが、無理に吐き出させるのも違う気がして、俺もそれ以上は踏み込まなかった。
「それよりリンタロウ。お前に頼みがある」
「はい、何なりと」
「顔合わせの前に、一度ベルナール領との境にある町まで足を運ぼうと思う。場所の下見だ」
俺は少し意外に思った。
「下見、でございますか。先方のお屋敷ではなく?」
「いきなり屋敷に乗り込むのも仰々しいだろ。中間の町に手頃な邸がある。両家が顔を合わせるなら、そのあたりが角が立たん。下見がてら町の様子も見ておきたいしな」
なるほど、と俺は得心した。
さすがロンゲールだ。婚約には乗り気でないようなことを言っておきながら、こういう実務的な配慮はきっちりしている。
両家のどちらにも負担をかけない中立の場を選ぶあたり根が誠実なのだ。
「承知いたしました。供は最小限がよろしいですか」
「お前と、護衛を数人。大げさにすると町が騒ぐからな」
「では、手配しておきます」
話が決まると、ロンゲールはようやく少しだけ表情を緩めた。
先ほどまでの重たい影は、相変わらず尾を引いているようだったが、それでも実務の話をしている時の彼は、いつもの彼に近かった。
(やはり、動いている方が性に合う人なんだろうな)
俺はそう思いながら、頭の中で道中の段取りを組み始めた。
・
数日後、俺たちはその町へ向かった。
ベルナール領との境に位置するその町は、城下とはまた違った趣があった。
石畳の道に、こぢんまりとした商店が軒を連ね、行き交う人々の表情にも、どこかのんびりとした空気が漂っている。
秋も深まり、軒先には収穫を終えたばかりの果実や穀物が積まれていた。
ロンゲールは目立たぬよう地味な外套を羽織り、護衛もまた旅商人を装っている。
俺も同じく、従者らしさを消した格好だ。こういう忍びの外出は夜の湯屋の一件以来だな、と少しだけ懐かしくなる。
「悪くない町だな」
ロンゲールが通りを見渡しながら言った。
「えぇ、落ち着いた良い町かと。顔合わせの場には申し分ないでしょう」
「だろ。あとは件の邸を見て——」
その時だった。
ロンゲールの言葉が、ふと途切れた。
彼の視線を追って、俺も通りの先へ目を向ける。
息を呑んだ。
通りの向こう、小さな広場のほとり。
そこに、見覚えのある二人連れがいた。
アンリとオズワルドだ。
(なっ……なんでここに!?)
俺は危うく声を上げそうになった。
いや、考えてみれば不思議はない。
ここはベルナール領との境だ。
アンリが領地から城へ向かう道中、あるいは何かの用で立ち寄っていてもおかしくない。
むしろ、彼女の生活圏に近いのはこちらの方なのだ。
問題は二人の様子だった。
アンリは城で見せるあの完璧な令嬢の微笑みではなかった。
もっと自然な、心底くつろいだ表情で、オズワルドと何か言葉を交わしている。
果実を扱う露店の前で、どれにしようかと二人で覗き込み、オズワルドが何かを言うと、アンリが声を立てて笑った。
城では決して見せない笑い方だった。
オズワルドが一つの果実を手に取り、アンリへ差し出す。
アンリがそれを両手で受け取る。
ただそれだけの、なんてことのないやり取りだが、二人の間には長い歳月をかけて育まれた言葉にならない親密さが滲んでいた。
誰がどう見ても——そこにいるのは相思相愛の二人だった。
俺は固まったまま動けなかった。
(……いや、待て。落ち着け)
頭の中で必死に状況を整理する。
幼馴染なのだから仲が良いのは当然だ。
従兄妹なら気安く買い物くらいするだろう。
あの笑顔だって、家族に向ける気の置けないものかもしれない。
そうだ、きっとそうに違いない。
俺は自分にそう言い聞かせた。
言い聞かせなければ、認めたくない可能性が、すぐそこまで顔を出しそうだったからだ。
隣を見ると、ロンゲールもまた、じっと二人を見つめていた。
その横顔からは、何を考えているのか読み取れない。
怒っているのでも傷ついているのでもない。
ただ静かに何かを確かめるような目で、婚約者とその従兄を眺めている。
「殿下……」
俺がそっと声をかけると、ロンゲールは視線を二人に向けたまま、ぽつりと言った。
「行こう。邸はあっちだ」
「で、ですが、アンリ様が——」
「声をかける必要はない。向こうも気づいてないだろ」
ロンゲールは踵を返し、広場とは反対の方向へ歩き出した。
その足取りは、いつもより少しだけ速かった。
俺は最後にもう一度、広場の二人を振り返る。
アンリとオズワルドはこちらにまるで気づかず、穏やかな時間の中にいた。
秋の陽が二人の輪郭を柔らかく縁取っている。
その光景が、ひどく目に焼きついて離れなかった。
俺はそれを振り払うように、ロンゲールの背を追って歩き出す。
まだ何も認めていない。認めるわけにはいかなかった。




