肝心なものが見えていないんだから
婚約に向けた準備は、水面下で着々と進んでいた。
オスカー王とベルナール家当主の間で、すでに大筋の合意は成されているらしい。
あとは時期を見て正式に発表し、しかるべき儀礼を踏むだけ——そういう段階に入っていた。
俺にとっては、願ってもない展開だ。
ロンゲールとアンリの婚約。それは原作のバッドエンドを回避し、二人の幸せな未来を確定させる、最も重要な一手である。
心中などという馬鹿げた結末は、これでもう起こらない。
俺がこの世界に転生してから積み重ねてきた努力が、ようやく実を結ぼうとしている。
だからこそ、俺は気を抜かなかった。
婚約が成るまでが正念場だ。ここで何か不和の種が生まれれば、全てが水泡に帰す。
二人の関係をより強固なものにするため、俺はできる限りの手を尽くすことにした。
「リンタロウ、また何か企んでるな」
「企むとは人聞きの悪い。私はただ、お二人のために尽くしているだけです」
朝、執務室でその日の予定を確認しながら、俺はロンゲールに告げた。
「本日はアンリ様を東屋の茶席にお招きしております。庭の紅葉が見頃ですので、景色を楽しみながらお過ごしいただけるかと」
「ほう、紅葉か」
「ええ。それと楽団を手配しました。穏やかな調べがあれば、会話も弾みましょう」
「……そういうところは抜かりない男だな」
「恐れ入ります」
ロンゲールは感心とも呆れともつかない顔で俺を見た。
「なあ、リンタロウ」
「はい」
「お前、俺の婚約のことはどう思ってる?」
「素晴らしいことだと思います。お二人はお似合いです」
「即答だな」
「事実ですので」
俺はきっぱりと言い切った。
これは本心だ。アンリは聡明で、ロンゲールにふさわしい。
二人が結ばれれば、きっと良い夫婦になる。
原作で見られなかった幸せな未来が現実になる。
それ以上に喜ばしいことがあるだろうか。
ロンゲールは何か言いかけて、いつものように途中で口を閉ざした。
最近、本当にこれが多い。
言いたいことがあるなら言えばいいのに、彼はいつも寸前で飲み込んでしまう。
「……どうかされましたか」
「いや。お前がそう言うなら、そうなんだろうな」
ロンゲールはそう言って、窓の外へ視線を移した。
その横顔に、ほんの一瞬、寂しさのようなものがよぎった気がした。
だが、俺がもう一度見た時には、いつもの飄々とした表情に戻っていて、気のせいだったかと思い直す。
・
東屋での茶席は滞りなく進んだ。
燃えるような紅葉を背景に、ロンゲールとアンリが向かい合って座る。
楽団の奏でる弦の音が、秋の澄んだ空気に溶けていく。
絵に描いたように美しい光景だった。
(最高だ……!)
俺は少し離れた場所に控え、二人の様子を見守っていた。
「見事な紅葉ですね」
アンリが頬を緩めて言う。
「あぁ、この時期の庭は悪くない。リンタロウが気を利かせてな」
「リンタロウ殿は、本当によく気がつかれるのですね」
アンリの視線が、ちらりと俺の方へ向いた。
俺は恭しく頭を下げる。
「殿下とアンリ様に、心地よくお過ごしいただきたい一心です」
我ながら、模範的な臣下の受け答えだ。
二人の時間を演出し、自分は黒子に徹する。
これでいい。これが俺の役目だ。
しばらく歓談が続いた後、ロンゲールが席を立った。「少し外す。すぐ戻る」と言って、東屋を離れていく。
手洗いか、あるいは俺に気を遣わせまいとした配慮か。
残されたのはアンリと俺だけになった。
「リンタロウ殿」
アンリが、不意に俺へ声をかけた。
「はい、何でしょうか」
「少し……こちらへ来ていただけますか」
俺は怪訝に思いながらも彼女の傍へ歩み寄った。
アンリは紅葉を眺めたまま、穏やかな声で続ける。
「殿下は、良い方ですね」
「はい。自慢の主君です」
「貴方から見ても、そうですか?」
「もちろんです。私が誰よりも存じておりますから」
迷いなく答えた俺を、アンリはゆっくりと振り返って見た。
その瞳には、何か優しく、それでいて見透かすような光が宿っていた。
令嬢としての完璧な微笑みの奥に、別の表情が覗いている気がする。
「貴方は、殿下のことが本当にお好きなのですね」
「もちろんです。臣下として、敬愛しております」
俺は当然のように答えた。
するとアンリは、ふっと小さく笑った。
何かを面白がるような、それでいて少しだけ切ないような、不思議な笑い方だった。
「……臣下として、ですか」
「はい」
「そうですか」
ロンゲールが戻ってくるまでの間、アンリは紅葉を眺めながら、ぽつりぽつりと言葉を落とした。
「リンタロウ殿は、ベルナールの領地をご存知ですか」
「いえ、恥ずかしながら、足を運んだことはございません」
実際はゲームで知っている。
緑の深い静かな土地で、秋になると山がこの庭のように色づいて、それはもう見事なのだ。
「緑の深い、静かな土地です。秋になると、山がこの庭のように色づいて……それはもう、見事なのですよ」
知らぬうちに完コピさせてしまった。
そう思っていると返事のタイミングを逃してしまい、しばしの静寂が広がった。
「……私もね、ずっとそうでした。自分が何を望むかより、周りが私に何を望むかを、先に考えて生きてきました」
ふいに、声の温度が変わった。
茶席を彩るための社交辞令ではない。もっと内側から滲み出した素の響き。
私「も」というのは、もしかして俺と重ね合わせているのか?
「ベルナールの娘として、恥ずかしくないように。家のためになるように。いつも、そう振る舞うことが当たり前で。……自分が本当はどうしたいのか、考える隙すらありませんでした」
「アンリ様……」
「ごめんなさい、湿っぽい話を」
アンリは小さく首を振り、また微笑みを取り繕った。
だが、一度覗いた本音は簡単には引っ込まなかったらしい。
彼女は俯きがちに、独り言のように続ける。
「望むことを許されてきた人が羨ましいのです。自分の心のままに、これが欲しいと言える人が」
その言葉の奥に、何か触れてはいけないものがある気がして、俺は黙っていた。
後で思えば……これはアンリの精一杯の吐露だったのだ。
家の意向で婚約が進む。けれど本当に心が向いている相手は、別にいる。それを口に出すことすら許されない立場で、彼女は誰かに分かってほしかったのかもしれない。
だが、その時の俺は、見当違いの受け取り方をしていた。
(……アンリは、婚約に不安を感じているのか)
俺はそう解釈した。
家同士で決められた縁談に、令嬢として漠然とした心細さを抱いている。
だとすれば、ロンゲールという人物がいかに信頼に足る男かを伝え、安心してもらうのが筋だろう、と。
彼女が「望む相手」と言った時、その相手がロンゲールではないなどとは夢にも思わなかった。
俺の中では、アンリが向かうべき先はロンゲール以外にあり得なかったからだ。
「アンリ様」
俺は、できる限り誠実に聞こえるよう言葉を選んだ。
「僭越ながら、ご安心ください。ロンゲール様は、相手を立場や家柄で測る方ではありません。アンリ様のお心を、必ずや大切にしてくださいます」
アンリは、ゆっくりと顔を上げて俺を見た。
その瞳に一瞬、戸惑いのような色がよぎる。
それから彼女は、ふっと力を抜いたように笑った。
何かを諦めたような、それでいて俺を憐れむような、複雑な笑みだった。
「……貴方は本当に、まっすぐな方ですね」
「恐れ……入ります?」
「えぇ、恐れ入ってほしい。まっすぐすぎて、肝心なものが見えていないんだから」
その言い回しに引っかかりを覚えたが、意味を問う前に、アンリは話を変えた。
「ねえ、リンタロウ殿。もう一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「はい」
「貴方は、本当にこのままで……いえ」
言いかけて、彼女は口を噤んだ。
代わりに、静かな声でこう言った。
「……やはり似た者同士なのかもしれませんね、私たちは」
「と、申しますと?」
アンリは穏やかに首を振った。
その横顔が何を意味していたのか、俺には分からなかった。
自分の心を後回しにして、誰かのために本心を押し殺している。彼女はそう言いたかったのかもしれない。
あるいは、俺もまた彼女と同じように、何か大事なものから目を逸らしていると、見抜いていたのかもしれない。
だが、鈍い俺はそこまで思い至らなかった。
ただ「令嬢にしては、ずいぶん物思いに耽る方だな」と、的外れな感想を抱いただけだった。
「待たせたな」
そこへロンゲールが戻ってきた。
俺はさっと一歩下がり、再び黒子の位置に戻る。
アンリの顔には、いつもの完璧な令嬢の微笑みが戻っていた。
「いいえ、リンタロウ殿と楽しくお話ししておりましたわ」
「ほう。こいつと何を話してたんだ?」
「ふふっ、秘密です」
アンリが悪戯っぽく言うと、ロンゲールは「なんだそれは」と笑った。
和やかな空気が戻る。茶席は何事もなかったように再開され、紅葉の下でまた穏やかな時間が流れ始めた。
・
その日の夜。俺は一日を振り返りながら、明日以降の段取りを書き留めていた。
(茶席は成功だったな……!)
ロンゲールとアンリの仲は順調に深まっている。
あとはこの調子で婚約発表まで漕ぎ着ければ、俺の目標は達成される。
ただ、昼間のアンリの様子が、少しだけ心に残っていた。
婚約に不安を抱いているのなら、それを和らげるのも俺の役目だ。
今後はアンリが安心できるような場づくりも意識しよう、と俺は筆を走らせる。
ふと、彼女の言葉が蘇った。
『まっすぐすぎて、肝心なものが見えていないんだから』
どういう意味だったのだろう。
深窓の令嬢の言うことは、時に詩的すぎて凡人の俺には理解が及ばない。
俺はあくまで黒子だ。二人の幸せを陰から支える、それだけの存在。
自分の心がどうとか、似た者同士がどうとか、そんなことを考えている暇があったら、明日の段取りを一つでも詰める方が建設的だ。
筆を置き、書き上げた予定表を眺める。
明日も、明後日も、その先も。ロンゲールとアンリが結ばれるその日まで、俺のやることは決まっている。
迷いはなかった。
俺は満足げに頷くと、灯りを消して床についた。




