ロンゲールの心の棘
第二王子ロンゲール・グレイフォードは、自分が他人に関心を持たない質だと自覚していた。
幼い頃からそうだった。
城には人が溢れている。臣下、侍女、客人、兄の取り巻き。
誰もが彼に頭を垂れ、笑みを向け、立派だ、勇敢だ、さすがは王家の血筋だと褒めそやす。
だが、その言葉の宛先が自分自身でないことを、ロンゲールは早くに見抜いていた。
彼らが見ているのは「第二王子」という肩書きだ。
ロンゲールという一人の人間ではない。
だから彼も、相手を肩書きで見るようになった。
兄のエドガーは「次期国王」、父のオスカーは「現国王」、近づいてくる貴族は「何かを欲している者」。
そうやって人を役割で切り分けておけば、いちいち心を動かされずに済む。
期待もしない代わりに裏切られもしない。楽な生き方だった。
その方が、孤独を孤独と感じずに済んだ。
ロンゲールは執務室の窓辺に立ち、暮れかけた空を眺めていた。
今日は珍しく、リンタロウが別件で席を外している。
城下への買い出しだとか、何かそんな用事だった。
たったそれだけのことで、部屋がやけに広く感じられる。
「……静かだな」
誰にともなく呟いて、彼は自分の声に少し驚いた。
静けさを、わざわざ口に出して確かめるなんて。
以前の自分なら、こんなことはしなかった。
一人の時間は当たり前で、むしろ気楽なものだったはずだ。
いつからだろう。
一人でいると、何かが足りないように感じるようになったのは。
ロンゲールは窓枠に肘をつき、ここしばらくのことを思い返した。
いや、もっと前からだ。あの金髪の男が城に来た、あの日からずっと。
・
最初は、ただの物好きだと思っていた。
半ば死んだも同然の登用制度を使って、貧相な体つきの田舎者が城に現れた。
父のオスカーですら持て余すような自分の本質を、その男は「王の器」だと言い切ったという。胡散臭いにも程がある。
どうせ、楽な臣下の地位に潜り込んで甘い汁を吸おうという魂胆だろう。ロンゲールはそう値踏みしていた。
だから試してみることにした。
日が暮れるまで全身をマッサージしろ、と無茶を言った。
普通ならそこで尻尾を出す。
面倒な仕事だと顔をしかめるか、適当に切り上げようとするか。
そうすれば「やはりこの程度か」と切り捨てられる。
ところがあの男は——リンタロウは、本当に二時間、黙々と凝りをほぐし続けた。
不思議な手だった。
鉄板のように硬かった肩が、いつの間にか軽くなっている。
長年こびりついていた疲れが指の下から溶けていく。
それは肉体の話だけではなかった。
他人を部屋に入れることすら稀だった自分が、気づけば無防備に身を委ねていた。
あの時、ロンゲールは妙に腹が立った。
金目当てだと決めつけていた相手が、ただ一つの信念で自分に尽くしているのだと気づいてしまったからだ。
見誤っていたのは自分の方だった。
その事実が、なぜだか無性に悔しかった。
・
鷹狩りの日のことも、よく覚えている。
慣れない狩りで落馬したリンタロウに、猪が牙を剥いて突進した。
あの瞬間、ロンゲールの身体は考えるより先に動いていた。
弓を引き、矢を放ち、獣の眉間を撃ち抜いた。
間に合ったのは僥倖だった。一拍遅れていれば、あの細い身体は無惨に引き裂かれていただろう。
駆け寄った時、リンタロウは血の滲んだ手を地面につき、それでも気丈に「軽い打撲程度かと」と答えた。
助けられた直後だというのに、その目に怯えはなかった。代わりにあったのは、純粋な賞賛だった。
『私のような付き合いの浅い者も本気で救おうとしてくださるロンゲール様。やはり懐の大きな方です』
あの言葉が、妙に胸に残った。
褒め言葉なら、それこそ浴びるほど聞いてきた。
立派だ、強い、さすがだ。そのどれもが、空疎に響くばかりだった。
肩書きに向けられた言葉は、いくら積み重なっても自分には届かない。
なのに、リンタロウの言葉は違った。
あいつは「第二王子」を褒めたのではない。
落馬した臣下を助けた、ロンゲールという一人の男の行いを見て、まっすぐに賞賛した。
その違いが、どうしようもなく嬉しかった。
照れ隠しに「お前は褒めすぎだ」と返すのが精一杯だった。
あの時、自分の心臓が柄にもなく跳ねたことを、ロンゲールは誰にも言っていない。
「……あいつは、いつもそうだ」
窓の外はすっかり暗くなっていた。
ロンゲールは小さく息を吐き、長椅子へ身を移す。
リンタロウは、いつも自分を見ている。
王子としてではなく、一人の人間として。
覗き犯を捕まえた夜も、城中に噂が渦巻いた時も、あの男だけは肩書きの向こうにいる自分の姿を正確に捉えていた。
『みんなの褒め言葉は、だいたい王子だからだ』
『でも、お前のは違う』
あの夜、自分はそう言った。
言ってしまってから、少し気恥ずかしくなった。
だがリンタロウは、それを茶化すでも持ち上げるでもなく、ただ静かに受け止めた。
あいつの前では取り繕う必要がない。強くあろうと気を張らなくてもいい。
そういう相手は生まれて初めてだった。
・
ふと、昼間のことを思い出した。
オズワルドを遠ざけようと画策しては、ことごとく裏目に出ているあの男の姿を。
頼りない男だと吹き込んだそばから、当のオズワルドが棘の茂みに飛び込んで子供を救い、評価を真逆にひっくり返してしまった。
あの時のリンタロウの、苦虫を噛み潰したような顔ときたら。
「……ふっ」
思い出すだけで笑いがこみ上げる。
あいつは自分では切れ者のつもりでいる。
実際、頭は回る。登用試験での弁舌、噂を逆手に取った立ち回り、人の心の機微を読む目。どれも一級品だ。
なのに、こと自分の感情が絡むと途端に空回りする。
何をそんなに必死になっているのか本人だけが分かっていないようだ。
リンタロウは、やたらとアンリの周りを気にする。
誰が近づいたか、どこで誰と会ったか。
最初は、アンリを嫌っているのかと思った。
だがそうではない。リンタロウはアンリを認めているし、敬意すら抱いている。
では、どうしてあんなにも躍起になってオズワルドを遠ざけようとするのか。
ロンゲールには、その答えが薄々見えていた。
見えていたが、口にはしなかった。
リンタロウは、自分とアンリを結びつけようとしている。
まるでそれが、自分に課せられた使命であるかのように。
好みであるという木の実の菓子を調べ上げ、会話の段取りを整え、二人きりの時間を作り出す。媒酌人のように、甲斐甲斐しく。
なぜ、そこまでするのか。
なぜ、あいつはそんなにも、自分の幸せを願うのか。
その問いに行き当たるたび、ロンゲールの胸の奥で、奇妙な感覚が首をもたげた。
嬉しさとも違う。くすぐったさとも違う。もっと落ち着かない、座りの悪い何かだ。
あいつが自分の幸せのために走り回っている。
それは喜ばしいことのはずなのに、なぜか素直に喜べない。
・
ロンゲールは天井を見上げた。
——アンリ・ベルナール。
賢く、芯があり、美しい令嬢。
家のために生き、それでいて自分の頭で物事を考える。
一緒にいて退屈しない。
妻として、これ以上望むべくもない相手だろう。
婚約は順調に進んでいる。
父も、ベルナール家も乗り気だ。
あとは形式を整えれば二人は夫婦になる。
何の問題もない。誰もが祝福する申し分のない縁談だ。
なのに——どうしてだろう。
その未来を思い描こうとすると、いつも輪郭がぼやける。
アンリと並んで立つ自分。
城の主として、彼女と歳月を重ねていく自分。
想像しようとするのに、その絵はどこか他人事のように遠い。
まるで、よくできた肖像画を眺めているような、美しいが、自分のものという実感が湧かない。
代わりとでもいうふうに、別の光景が浮かんでくる。
他愛のない軽口を叩き合う夜。
木の皿を不器用に運ぶ自分を見て吹き出すあいつの顔。
鷹狩りの帰り道、馬上で背に感じた、頼りなくも確かな重み。
「……なんでだ」
ロンゲールは眉根を寄せた。
アンリのことを考えようとすると、いつの間にかリンタロウの顔が割り込んでくる。
婚約相手との未来より、臣下と過ごす日常の方が、ずっと鮮明に思い描けてしまう。これはどういうことだ。
答えは出なかった。
いや、答えに近づくのが、なぜか怖かったのかもしれない。
その正体を見極めてしまえば、何かが決定的に変わってしまう。
今の心地よい関係も、順調に進んでいる婚約も、全てが違う色に塗り替えられてしまう気がする。
だからロンゲールは、その問いの手前で足を止めた。
いつものように、心を動かさずにやり過ごそうとした。
だが、どうにも。あの男に出会ってから、心を動かさずにいることが下手になってしまった。
・
扉が軽く叩かれたのは、その時だった。
「ロンゲール様、戻りました。遅くなり申し訳ありません」
リンタロウの声だ。
その声を聞いた瞬間、ロンゲールは自分の口元が、ひとりでに緩むのを感じた。
さっきまでの重い思考が、嘘のように軽くなる。
「入れ」
扉が開き、リンタロウが入ってきた。
手には包みをいくつか抱えている。買い出しの品だろう。
秋の夜気を纏った頬が、わずかに赤い。
「筆と紙、それから頼まれていた品を買ってまいりました。市場が混んでいたもので」
「ご苦労。……お前がいないと、どうも調子が出なくてな」
言ってから、ロンゲールは内心で舌打ちした。
らしくないことを口走った。
だが、リンタロウは深く考える様子もなく、
「私がいなくとも、殿下はご立派にやっていけますよ」
「そういう話じゃねえんだよ」
「……ロンゲール様?」
きょとんとするリンタロウを見て、ロンゲールは苦笑した。
本当に、肝心なことには気づかない男だ。
人の心はあれほど鋭く読むくせに、自分に向けられたものには、まるで気づかない。あるいは——
「殿下、顔色が優れない……わけではないですね。お疲れでしたら、肩でもお揉みしましょうか。出会った頃に比べて、かなり上達した自負がありますよ」
「……それは、遠慮しておく」
今あの手で触れられたら、自分がどんな顔をするか分からない。
ロンゲールはそんな本音を飲み込んで、何でもないふうを装った。
リンタロウは「左様ですか」と包みを机に置き、いつものように甲斐甲斐しく整理を始める。
その横顔を、ロンゲールはぼんやりと眺めた。
この感情に名前をつけるのは、まだ早い。
そう自分に言い聞かせてはいるが、それでも目が離せない。
あいつが笑えば嬉しく、あいつがいなければ物足りない。
こんな感覚は生まれて初めてだった。
窓の外で、夜風が梢を揺らしていた。




