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Night-night  作者: スガリ
終朝
29/32

千年時計の獏

 カーテンの隙間から差し込んでいるのが朝の光だと分かって、更科千歳はゆるりと重い瞼を持ち上げた。鈍痛を訴える頭で、意識を失う前のことを思い出そうとした。

 頬が冷たく濡れている。泣いているのだと気づくまでに、それほど時間は掛からなかった。

 目の奥がじんと痛む。きっと、今は酷い顔をしているのだろうと思った。

 不思議と、悪夢を見た気分ではない。

 ただ、涙が後から後から頬を伝う。熱かったはずのそれが、空気に触れるうち冷えていくのが少し辛い。

 この涙の理由を、彼はきちんと実感していた。

「……やっぱり、さよなら、なんだ」

 自分が、正真正銘の《獏》になったこと。そしてその代償に、充足しない欠落を得たこと。

 数ヶ月のうちに学んだことは覚えている。紅を帯びた女性のことも覚えている。けれど、其処からは先代の影だけが消えている。

 存在は覚えているのに、姿も、声も、名前も、何もかもが溶けている。性別や年齢ですらも、墨で塗りつぶされたように。

 掛けられた言葉は思い出せるのに、《先代》の名を呼ぶ自分の声は忘れてしまった。

 淡い夢と消えた“かつての獏”は、一体何処へ行くのだろうか。

 姿も声も思い出せない。夢に還ってしまった幻の獣に、新しく生きる名があれば良いのだけれど。

「……っ」

 シーツを握り締めて、眦の熱を抑えようとする。そうでもないと、喪失感に砕かれてしまいそうだった。

 選んだことは悔やまないけれど、それでも、どうしようもなく苦しかった。

 名を、呼びたかった。


 ノックの音が数回控えめに響いた後、「失礼します」と慣れた女性の声がして、思わず千歳は掴んでいたシーツを放した。

 女性は彼が起きているのを認めると、すっと一礼して中へ入ってきた。

「お早うございます、千歳様」

「リヤン、さん……どうして? あの……《先代》は?」

 てっきり彼女は《先代》と行くものだと思っていた。それだけの忠誠を見ていたから、当たり前のように、また一人になるのだと予想していた。

「…………《先代》様は発たれました。何処へ、とは申し上げられませんが」

「リヤンさんは」

 もう一度問うと、彼女はカーテンを開けようとしていた手を止め、紅みがかった瞳で千歳を見据えた。

「私は、《獏》に仕える者ですから」

 そしてカーテンを一気に開ける。白い澄んだ光が、腫れ気味の目に痛い。

「……それで、良いんですか?」

「私に選択肢というものは存在しません。《獏》と共に生き、共に滅ぶ者なのですから」

 きっぱりと言い切った女性は、振り返って眉を寄せた。

「……《先代》様のことは」

「思い、出せません」

 そうですか、と呟いた彼女は、心なしか悲しげだった。

「歓迎すべき、なのでしょうが」

 首を振る。リヤンの感情の複雑さが一部共有できるからこそ、彼女の珍しい煮え切らなさが少しだけ、嬉しかった。

「……千歳様」

 彼女を振り仰ぐと、リヤンはほんの僅かに微笑んだ。

「これまでの非礼、お許しいただけますか?」

 その理由への仮説は“第六感”が肯定してくれた。だから慌てて頷く。

 リヤンが何者かは知らないけれど、きっと普通のヒトではないのだろうけれど、それでも彼女の『人情』はあまりに人間らしい。だから、許せるも許せないも、本当はない。

 リヤンは表情をもう少し緩めて、深々と頭を下げた。


 腫れた目は気になったが、程なく頭痛も治まったので、数日かぶりに登校した。

 何人かに短く声を掛けられながら席に着く。陽光が温かくなってきている所為か、春休みが近づいているためか、低い気温の中でも徐々に冬が遠ざかっているのが、教室内の雰囲気にも滲んでいる。

 窓の外では、朝から広がっていた雲から、とうとう雨が降り出していた。

 冷たい冬の雨では最早無い、雪を拭い春を近づける足音たる雨。

 程無く、桜の季節が来る。

 冬が、終わってしまう。

 『夢』の主と共に過ごした唯一の季節を置き去りにしたまま、千歳は十六歳になる。

 今は未来の春も、そしてまた廻るだろう。


 けれど、忘れることは無くなることではない、とかつて告げられた言葉を思い出す。

 置いていってしまうけれど、大切にすることは出来る。

 たとえ、一歩ずつ遠くなっても。もう二度と、辿り着けなくても。

 痛みを埋もれさせるのではなく、いたわっていけるように、きっとなれる。


 だから。

――おやすみなさい、どうか良い夢を。

 この雨の帳の、何処かに居る温かい人へ、確かに祈る。

――優しい糧に、変わるまで。


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