千年時計の獏
カーテンの隙間から差し込んでいるのが朝の光だと分かって、更科千歳はゆるりと重い瞼を持ち上げた。鈍痛を訴える頭で、意識を失う前のことを思い出そうとした。
頬が冷たく濡れている。泣いているのだと気づくまでに、それほど時間は掛からなかった。
目の奥がじんと痛む。きっと、今は酷い顔をしているのだろうと思った。
不思議と、悪夢を見た気分ではない。
ただ、涙が後から後から頬を伝う。熱かったはずのそれが、空気に触れるうち冷えていくのが少し辛い。
この涙の理由を、彼はきちんと実感していた。
「……やっぱり、さよなら、なんだ」
自分が、正真正銘の《獏》になったこと。そしてその代償に、充足しない欠落を得たこと。
数ヶ月のうちに学んだことは覚えている。紅を帯びた女性のことも覚えている。けれど、其処からは先代の影だけが消えている。
存在は覚えているのに、姿も、声も、名前も、何もかもが溶けている。性別や年齢ですらも、墨で塗りつぶされたように。
掛けられた言葉は思い出せるのに、《先代》の名を呼ぶ自分の声は忘れてしまった。
淡い夢と消えた“かつての獏”は、一体何処へ行くのだろうか。
姿も声も思い出せない。夢に還ってしまった幻の獣に、新しく生きる名があれば良いのだけれど。
「……っ」
シーツを握り締めて、眦の熱を抑えようとする。そうでもないと、喪失感に砕かれてしまいそうだった。
選んだことは悔やまないけれど、それでも、どうしようもなく苦しかった。
名を、呼びたかった。
ノックの音が数回控えめに響いた後、「失礼します」と慣れた女性の声がして、思わず千歳は掴んでいたシーツを放した。
女性は彼が起きているのを認めると、すっと一礼して中へ入ってきた。
「お早うございます、千歳様」
「リヤン、さん……どうして? あの……《先代》は?」
てっきり彼女は《先代》と行くものだと思っていた。それだけの忠誠を見ていたから、当たり前のように、また一人になるのだと予想していた。
「…………《先代》様は発たれました。何処へ、とは申し上げられませんが」
「リヤンさんは」
もう一度問うと、彼女はカーテンを開けようとしていた手を止め、紅みがかった瞳で千歳を見据えた。
「私は、《獏》に仕える者ですから」
そしてカーテンを一気に開ける。白い澄んだ光が、腫れ気味の目に痛い。
「……それで、良いんですか?」
「私に選択肢というものは存在しません。《獏》と共に生き、共に滅ぶ者なのですから」
きっぱりと言い切った女性は、振り返って眉を寄せた。
「……《先代》様のことは」
「思い、出せません」
そうですか、と呟いた彼女は、心なしか悲しげだった。
「歓迎すべき、なのでしょうが」
首を振る。リヤンの感情の複雑さが一部共有できるからこそ、彼女の珍しい煮え切らなさが少しだけ、嬉しかった。
「……千歳様」
彼女を振り仰ぐと、リヤンはほんの僅かに微笑んだ。
「これまでの非礼、お許しいただけますか?」
その理由への仮説は“第六感”が肯定してくれた。だから慌てて頷く。
リヤンが何者かは知らないけれど、きっと普通のヒトではないのだろうけれど、それでも彼女の『人情』はあまりに人間らしい。だから、許せるも許せないも、本当はない。
リヤンは表情をもう少し緩めて、深々と頭を下げた。
腫れた目は気になったが、程なく頭痛も治まったので、数日かぶりに登校した。
何人かに短く声を掛けられながら席に着く。陽光が温かくなってきている所為か、春休みが近づいているためか、低い気温の中でも徐々に冬が遠ざかっているのが、教室内の雰囲気にも滲んでいる。
窓の外では、朝から広がっていた雲から、とうとう雨が降り出していた。
冷たい冬の雨では最早無い、雪を拭い春を近づける足音たる雨。
程無く、桜の季節が来る。
冬が、終わってしまう。
『夢』の主と共に過ごした唯一の季節を置き去りにしたまま、千歳は十六歳になる。
今は未来の春も、そしてまた廻るだろう。
けれど、忘れることは無くなることではない、とかつて告げられた言葉を思い出す。
置いていってしまうけれど、大切にすることは出来る。
たとえ、一歩ずつ遠くなっても。もう二度と、辿り着けなくても。
痛みを埋もれさせるのではなく、いたわっていけるように、きっとなれる。
だから。
――おやすみなさい、どうか良い夢を。
この雨の帳の、何処かに居る温かい人へ、確かに祈る。
――優しい糧に、変わるまで。




