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それは、些細なことの積み重ね。
たとえば、あの雪の日の窈。今の千歳は、あれが彼女の《獏》としての正装だと知っている。雪と、凍るような冷たさの中、コートも羽織らず迎えに来た相手はただの未来の助手では、あまりに過分ではないだろうか。
それはまだ、窈の性格で説明がつく。しかし、ただの助手を《紡屋》の後継たる佐橋当麻のところへあいさつに行かせるものだろうか。彼女は世間知らずかもしれないが、決して礼儀知らずではない。付き合いと結びつきが深いだけに選ばなければならないはずだが、リヤンも当麻も、千歳で適切だと判断したのだ。
糸を編ませたのも、今考えれば違和感が残る。使い捨てのものとはいえ、商売道具だ。来たばかりの、何の知識も無い人間に易々と触らせるものではない。
仙波いりなの件にしても、布引兄妹の件にしても、いくら慣れてきていたとはいえ、ほとんど千歳に依頼人を任せたようなものだった。客商売であるはずの《獏》にしては、少々おかしい。
そんな諸々のことは、それでも本当に自然で、きっと若狭夏野に答えた言葉への“第六感”が異を唱えなければ気付かなかったはずだった。
「……ごめんね」
訪れた千歳の顔を見て、椅子に掛け直した窈は、ただただ静かに謝った。
カーテンの隙間から差し込む冬の陽光が、彼女のビスクドールのような肌を滑る。
淡い陰影が作り出す少女の像は、目を逸らしたいほどに、綺麗だった。
「窈は、謝る必要なんて無い。――掟、でしょう?」
絶対的に門外不出の、《獏》の最終たる掟。
夢の幻獣が少しでも遠くまで生きてゆく為の手段を、彼女は破れないのだから。
けれど、少女はゆっくりと頭を振った。
「こんなのは、ただの搦め手。卑怯な罠なんだよ」
「でも」
「君はそれでも否定してくれるのね。…………でもね、わたしはやっぱり、謝らないと。幸せを感じてしまっていたんだから」
そして、彼女は立ち上がり――儚くも綺麗に、微笑した。
「さあ、この“夢”を終わらせよう、千歳くん。……そのために、来てくれたんでしょう?」
唇を噛んで、千歳は“師”に頷いた。
――昔語りをいたしましょう。
独りぼっちになった少女は、優しい養父に引き取られ、愛されて慈しまれて、成長しました。
幸せな少女は、養父と姉のような世話係が、本当に大好きでした。だから、養父の“お仕事”のお手伝いも全く苦になりませんでした。
出会うべくして出会った血のつながらない父娘は、それでも別れるべくして別れなければなりませんでした。
ある日、養父は少女の前から消えました。養父の身体は、既に“お仕事”を続けていくには限界でした。
少女は“お仕事”を託されました。
“技術”と“記憶”と抱いた、異端の夢喰いの始まりでした。
嬉しかったの、と窈は呟いた。
「代償は決して安くは無かったけれど、それでもその時は本当に喜んだ」
「代償…」
「リヤンから聞いてない? ……《獏》の平均“寿命”は二十年から三十年なの」
「……時間」
鬼無里窈は、未だ少女とも評される年齢だ。
彼女は穏やかな仕草で目を伏せた。
“寿命”という概念だけは、聞いていた。《獏》となった人間は、しかし終生《獏》では居られないのだと。いつか、他の技術者でも起こりうるような体の限界がやってくる、その前に技を伝えなければならないのだと。
「私が《獏》として在れたのは、精々が七年。私は異端ですらなく、ただの欠陥品だった」
その口調に自嘲の色がなかったから、千歳は口を開き損ねた。
「それでも、その時は嬉しかったの。……忘れないで、済んだから」
「窈」
何処か縋るように呼ぶ千歳に、窈は机の引き出しを開けて、三本の紐を取り出した。
『門前の小僧習わぬ経を読む、と申しますが、どうも“食事”を目の前で何度も見ているうちに、何となくコツが掴めるようです』
『それだけで、ですか?』
ミラー越しに、リヤンは紅みがかった瞳を千歳に合わせた後、首を振った。
『経文を覚えたからといって、その意味が分からなければ単なる独り言にすぎません。正しく継承されるには、正しい手法を体感する必要が生じます』
『…………っ、それっ、て』
作ったように平坦だったリヤンの言葉の意味が、直感的に分かった。分かってしまった。
『ええ。《獏》の継承は、次代が記憶を食らわれることを以て仕上げとします。《獏》を忘れて、人は《獏》になるのです』
「窈―――僕は、君を忘れなければ、いけないの?」
殆ど悲鳴のような声音になってしまった。
窈は其処で初めて悔しげに唇を噛んだが、すぐに千歳へと視線を戻す。
「続けるのも終えるのも、もう私には選べない話だから。……千歳くんにしか、残ってないの」
もう奪うことはできないから、と彼女は呟く。
時計を止めるか、再び螺子巻くか。
終わるか続けるか、とは、その意味。《獏》の命を続けさせるも終わらせるも、確かに、千歳にしか選べない。
それでも、そのために忘れなければならないことは、あまりに温かいもので。
「……もし、僕が気づかなかったら」
「掟では“緊急事態”とされるから……奪うことに、なったよ」
未練のように口に出した“もしものこと”は、悲しげな言葉で遮られた。
「後継者が気づけば選択できるけれど、気づかなければ強制……やっぱり、ただの罠なんだよ、これは」
「窈の、所為じゃない」
ありがとう、と微笑んだ少女は、それが千歳の本心だと理解してくれているはずだった。
居た堪れない思いを、少しでも、軽く感じて欲しかった。
「それでも――私は、君に望むから。その分は負わなくちゃ」
「……どうして、僕だったの?」
窈は答えを返せないと知っていて、それでも零さないではいられなかった。
特殊と言えば真偽が分かるだけの、ただの子どもでしかない自分が、何故後継と据えられたか、納得できなかった。探せば、きっともっとほかに誰かが居たのではないかと言う思いが、どうしても拭えない。
「私は、千歳くん以外は選ばないよ。いつでも、いつまでも」
心得ているように、彼女は言う。
「君を知った日、そう決めたの」
窈は立ち上がり、千歳の前に立った。
「……掟があろうと、きっと探せばいくらでも、伝える術はあったはずなの。でも、出来なかった」
窈は手を伸ばし、遠慮がちに千歳のそれに重ねる。
千歳は、拒まなかった。
「私の滅びを受け入れることはできた。でも、君を失うことは怖かった。だから君に真実を伝えることが怖かった」
凛と、立っていた少女。
養父を失くして、今まさに拠り所たる“力”を失おうとしている少女。
違うように見えるはずなのに――それでも、彼女は重なって見えていた。
《獏》としてあろうとした強さと、孤独への涙と、二つとも彼女のものなのだろうから。
「嘘をつけないから傷つけずにすむと思ってた。だけど、結局、言わないことで悲しませたね」
「……窈」
「傷つかせたいんじゃなかった。私は――ううん、もう、言い訳は止めにしよう。こんな願い、星にしかならなかったんだから」
彼女は頭を振った。そして、千歳を見る。いつものように、透き通った瞳で、静かに、最後通牒を突きつける。
「千歳くん。――次代の《獏》になってくれる?」
千歳はその瞳を見返した。
「勿論拒んでも良い。私にはもう時間が無いけれど、それでも誰も君を責めない。――幻が、記憶から夢に還るだけ。君は現に戻るだけ」
その言葉で、分かった。
彼の記憶を封じようともそうでなくとも、窈は千歳の前から姿を消すのだろう。
窈の最後の《食事》を拒めば、数ヶ月間の思い出は残る。受け容れれば、夢幻の獣は生き残る。
「窈、は」
「千歳くんが終わらせるなら、それで良いの。ただ、《獏》は君が継いでくれることを望むだけ」
紐を持たない彼女の白い左手が、千歳の肩に触れる。
「私は《獏》だから。そういう風に、できているから。そう望むの。――たとえ、鬼無里窈としては望まなくても」
姉のような仕種で、彼女は彼の髪を撫でる。
拒めたらどんなに良いだろう、と思ってしまう。
「気づかないで欲しかった。それなら迷わずに済むから、ただの『私』を殺していられる。……でも、気づいてくれてよかった。千歳くんから、少なくとも奪わずに済むから」
「……僕、だって」
気づきたくなかった。こんなに苦しい選択肢は、欲しくなかった。
それでも、気づいていて良かったとも思う。何も知らないまま、また奪われるということだけは少なくとも免れたのだから。
「ねえ、窈……何処からが、『夢』だった?」
「全部」
「『現実』は?」
「それも全部だよ、千歳くん」
ゆっくりと、千歳は頷いた。
窈はずっと《獏》だったけれど、いつも鬼無里窈だった。
今なら、分かる。
「だから、忘れて欲しいけれど、忘れてほしくないの」
彼女は常に『師』であったけれど、いつでも『家族』になろうとしてくれた。
「……良かった」
呟きの意味を刹那で飲み込んだのだろう、窈は泣きたいような笑みを見せた。
「ありがとう、千歳くん」
「……本当は、忘れたくない」
「うん」
「《獏》に執着もないけど」
「そうだよね」
「……それでも、選ぶよ」
「ありがとう」
うん、と千歳は頷いた。
温かい時間を得るには、きっとこの道しかなかったから。
此処に居た意味を、受け容れたかった。
彼女が鬼無里窈として笑ってくれたからではなく、ただ存在を選び取るために。
「君を忘れて、僕は《獏》になる」
『夢』はこれで終わり。
「だけど、だから」
一つ願うと、窈は驚いたような顔をした後、微笑んだ。
ありがとう、と何度目かを呟いて、一筋だけ、涙を零した。
目の前に居る筈なのに、彼女の顔が徐々に見えなくなっていく。数ヶ月の記憶から、彼女だけが零れ落ちていく。
覚悟はしていたつもりだった。それでも、心が全体で軋みを上げた。
少女は、千歳の頬を撫でた。その頬に、雫が落ちる。
霞がかった世界の中で、彼女が微笑したようだとわかった。
「どうか、君の刻む時計が少しでも幸せであるように。百年といわず、君の名通り、千年を刻みつけるように」
水面を揺らす風のような涼やかな、しかし僅かに湿った声は、最早異物のようにすら感じる頭にも、苦悶を植えつけることは無かった。
「約束するわ。君の願いを叶え続けるよ。ずっとずっと、遠くまで」
泣かないで、と言いたかった。けれど、言葉にならない。
「ねえ、千歳くん。卑怯だって分かってるけど、私はね――」
続くのが、頷きを返したい言葉だったことのみを飲み込んで、千歳は、ついに意識を手放した。
花曇も間近な日、千歳はもう一度繰り返した。
埋もれたと思っていた、痛みと共に。
「おやすみなさい、どうか良い夢を。…………泡沫に、変わるまで」




