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Night-night  作者: スガリ
第5話 プレシオスの鎖を解いて
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3

 それは、些細なことの積み重ね。

 たとえば、あの雪の日の窈。今の千歳は、あれが彼女の《獏》としての正装だと知っている。雪と、凍るような冷たさの中、コートも羽織らず迎えに来た相手はただの未来の助手では、あまりに過分ではないだろうか。

 それはまだ、窈の性格で説明がつく。しかし、ただの助手を《紡屋》の後継たる佐橋当麻のところへあいさつに行かせるものだろうか。彼女は世間知らずかもしれないが、決して礼儀知らずではない。付き合いと結びつきが深いだけに選ばなければならないはずだが、リヤンも当麻も、千歳で適切だと判断したのだ。

 糸を編ませたのも、今考えれば違和感が残る。使い捨てのものとはいえ、商売道具だ。来たばかりの、何の知識も無い人間に易々と触らせるものではない。

 仙波いりなの件にしても、布引兄妹の件にしても、いくら慣れてきていたとはいえ、ほとんど千歳に依頼人を任せたようなものだった。客商売であるはずの《獏》にしては、少々おかしい。

 そんな諸々のことは、それでも本当に自然で、きっと若狭夏野に答えた言葉への“第六感”が異を唱えなければ気付かなかったはずだった。


「……ごめんね」

 訪れた千歳の顔を見て、椅子に掛け直した窈は、ただただ静かに謝った。

 カーテンの隙間から差し込む冬の陽光が、彼女のビスクドールのような肌を滑る。

 淡い陰影が作り出す少女の像は、目を逸らしたいほどに、綺麗だった。

「窈は、謝る必要なんて無い。――掟、でしょう?」

 絶対的に門外不出の、《獏》の最終たる掟。

 夢の幻獣が少しでも遠くまで生きてゆく為の手段を、彼女は破れないのだから。

 けれど、少女はゆっくりと頭を振った。

「こんなのは、ただの搦め手。卑怯な罠なんだよ」

「でも」

「君はそれでも否定してくれるのね。…………でもね、わたしはやっぱり、謝らないと。幸せを感じてしまっていたんだから」

 そして、彼女は立ち上がり――儚くも綺麗に、微笑した。

「さあ、この“夢”を終わらせよう、千歳くん。……そのために、来てくれたんでしょう?」

 唇を噛んで、千歳は“師”に頷いた。


 ――昔語りをいたしましょう。

 独りぼっちになった少女は、優しい養父に引き取られ、愛されて慈しまれて、成長しました。 

 幸せな少女は、養父と姉のような世話係が、本当に大好きでした。だから、養父の“お仕事”のお手伝いも全く苦になりませんでした。

 出会うべくして出会った血のつながらない父娘は、それでも別れるべくして別れなければなりませんでした。

 ある日、養父は少女の前から消えました。養父の身体は、既に“お仕事”を続けていくには限界でした。

 少女は“お仕事”を託されました。

 “技術”と“記憶”と抱いた、異端の夢喰いの始まりでした。


 嬉しかったの、と窈は呟いた。

「代償は決して安くは無かったけれど、それでもその時は本当に喜んだ」

「代償…」

「リヤンから聞いてない? ……《獏》の平均“寿命”は二十年から三十年なの」

「……時間」

 鬼無里窈は、未だ少女とも評される年齢だ。

 彼女は穏やかな仕草で目を伏せた。

 “寿命”という概念だけは、聞いていた。《獏》となった人間は、しかし終生《獏》では居られないのだと。いつか、他の技術者でも起こりうるような体の限界がやってくる、その前に技を伝えなければならないのだと。

「私が《獏》として在れたのは、精々が七年。私は異端ですらなく、ただの欠陥品だった」

 その口調に自嘲の色がなかったから、千歳は口を開き損ねた。

「それでも、その時は嬉しかったの。……忘れないで、済んだから」

「窈」

 何処か縋るように呼ぶ千歳に、窈は机の引き出しを開けて、三本の紐を取り出した。


『門前の小僧習わぬ経を読む、と申しますが、どうも“食事”を目の前で何度も見ているうちに、何となくコツが掴めるようです』

『それだけで、ですか?』

 ミラー越しに、リヤンは紅みがかった瞳を千歳に合わせた後、首を振った。

『経文を覚えたからといって、その意味が分からなければ単なる独り言にすぎません。正しく継承されるには、正しい手法を体感する必要が生じます』

『…………っ、それっ、て』

 作ったように平坦だったリヤンの言葉の意味が、直感的に分かった。分かってしまった。

『ええ。《獏》の継承は、次代が記憶を食らわれることを以て仕上げとします。《獏》を忘れて、人は《獏》になるのです』


「窈―――僕は、君を忘れなければ、いけないの?」

 殆ど悲鳴のような声音になってしまった。

 窈は其処で初めて悔しげに唇を噛んだが、すぐに千歳へと視線を戻す。

「続けるのも終えるのも、もう私には選べない話だから。……千歳くんにしか、残ってないの」

 もう奪うことはできないから、と彼女は呟く。

 時計を止めるか、再び螺子巻くか。

 終わるか続けるか、とは、その意味。《獏》の命を続けさせるも終わらせるも、確かに、千歳にしか選べない。

 それでも、そのために忘れなければならないことは、あまりに温かいもので。

「……もし、僕が気づかなかったら」

「掟では“緊急事態”とされるから……奪うことに、なったよ」

 未練のように口に出した“もしものこと”は、悲しげな言葉で遮られた。

「後継者が気づけば選択できるけれど、気づかなければ強制……やっぱり、ただの罠なんだよ、これは」

「窈の、所為じゃない」

 ありがとう、と微笑んだ少女は、それが千歳の本心だと理解してくれているはずだった。

 居た堪れない思いを、少しでも、軽く感じて欲しかった。

「それでも――私は、君に望むから。その分は負わなくちゃ」

「……どうして、僕だったの?」

 窈は答えを返せないと知っていて、それでも零さないではいられなかった。

 特殊と言えば真偽が分かるだけの、ただの子どもでしかない自分が、何故後継と据えられたか、納得できなかった。探せば、きっともっとほかに誰かが居たのではないかと言う思いが、どうしても拭えない。

「私は、千歳くん以外は選ばないよ。いつでも、いつまでも」

 心得ているように、彼女は言う。

「君を知った日、そう決めたの」

 窈は立ち上がり、千歳の前に立った。

「……掟があろうと、きっと探せばいくらでも、伝える術はあったはずなの。でも、出来なかった」

 窈は手を伸ばし、遠慮がちに千歳のそれに重ねる。

 千歳は、拒まなかった。

「私の滅びを受け入れることはできた。でも、君を失うことは怖かった。だから君に真実を伝えることが怖かった」

 凛と、立っていた少女。

 養父を失くして、今まさに拠り所たる“力”を失おうとしている少女。

 違うように見えるはずなのに――それでも、彼女は重なって見えていた。

《獏》としてあろうとした強さと、孤独への涙と、二つとも彼女のものなのだろうから。

「嘘をつけないから傷つけずにすむと思ってた。だけど、結局、言わないことで悲しませたね」

「……窈」

「傷つかせたいんじゃなかった。私は――ううん、もう、言い訳は止めにしよう。こんな願い、星にしかならなかったんだから」

 彼女は頭を振った。そして、千歳を見る。いつものように、透き通った瞳で、静かに、最後通牒を突きつける。

「千歳くん。――次代の《獏》になってくれる?」

 千歳はその瞳を見返した。

「勿論拒んでも良い。私にはもう時間が無いけれど、それでも誰も君を責めない。――幻が、記憶から夢に還るだけ。君は現に戻るだけ」

 その言葉で、分かった。

 彼の記憶を封じようともそうでなくとも、窈は千歳の前から姿を消すのだろう。

 窈の最後の《食事》を拒めば、数ヶ月間の思い出は残る。受け容れれば、夢幻の獣は生き残る。

「窈、は」

「千歳くんが終わらせるなら、それで良いの。ただ、《獏》は君が継いでくれることを望むだけ」

 紐を持たない彼女の白い左手が、千歳の肩に触れる。

「私は《獏》だから。そういう風に、できているから。そう望むの。――たとえ、鬼無里窈としては望まなくても」

 姉のような仕種で、彼女は彼の髪を撫でる。

 拒めたらどんなに良いだろう、と思ってしまう。

「気づかないで欲しかった。それなら迷わずに済むから、ただの『私』を殺していられる。……でも、気づいてくれてよかった。千歳くんから、少なくとも奪わずに済むから」

「……僕、だって」

 気づきたくなかった。こんなに苦しい選択肢は、欲しくなかった。

 それでも、気づいていて良かったとも思う。何も知らないまま、また奪われるということだけは少なくとも免れたのだから。

「ねえ、窈……何処からが、『夢』だった?」

「全部」

「『現実』は?」

「それも全部だよ、千歳くん」

 ゆっくりと、千歳は頷いた。

 窈はずっと《獏》だったけれど、いつも鬼無里窈だった。

 今なら、分かる。

「だから、忘れて欲しいけれど、忘れてほしくないの」

 彼女は常に『師』であったけれど、いつでも『家族』になろうとしてくれた。

「……良かった」

 呟きの意味を刹那で飲み込んだのだろう、窈は泣きたいような笑みを見せた。

「ありがとう、千歳くん」

「……本当は、忘れたくない」

「うん」

「《獏》に執着もないけど」

「そうだよね」

「……それでも、選ぶよ」

「ありがとう」

 うん、と千歳は頷いた。

 温かい時間を得るには、きっとこの道しかなかったから。

 此処に居た意味を、受け容れたかった。

 彼女が鬼無里窈として笑ってくれたからではなく、ただ存在を選び取るために。

「君を忘れて、僕は《獏》になる」

 『夢』はこれで終わり。

「だけど、だから」

 一つ願うと、窈は驚いたような顔をした後、微笑んだ。

 ありがとう、と何度目かを呟いて、一筋だけ、涙を零した。


 目の前に居る筈なのに、彼女の顔が徐々に見えなくなっていく。数ヶ月の記憶から、彼女だけが零れ落ちていく。

 覚悟はしていたつもりだった。それでも、心が全体で軋みを上げた。

 少女は、千歳の頬を撫でた。その頬に、雫が落ちる。

 霞がかった世界の中で、彼女が微笑したようだとわかった。

「どうか、君の刻む時計が少しでも幸せであるように。百年といわず、君の名通り、千年を刻みつけるように」

 水面を揺らす風のような涼やかな、しかし僅かに湿った声は、最早異物のようにすら感じる頭にも、苦悶を植えつけることは無かった。

「約束するわ。君の願いを叶え続けるよ。ずっとずっと、遠くまで」

 泣かないで、と言いたかった。けれど、言葉にならない。

「ねえ、千歳くん。卑怯だって分かってるけど、私はね――」

 続くのが、頷きを返したい言葉だったことのみを飲み込んで、千歳は、ついに意識を手放した。


 花曇も間近な日、千歳はもう一度繰り返した。

 埋もれたと思っていた、痛みと共に。


「おやすみなさい、どうか良い夢を。…………泡沫に、変わるまで」


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