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手渡された包みに少女はぱちぱちと目を瞬かせた。
「この間の、お返し」
言い添えると表情から困惑が消え、代わりに好奇心が覗く。
「ありがと。ね、開けていい?」
どうぞ、と手を広げて示すと、いりなは包装紙を丁寧に剥がしていく。きらりとガラスが蛍光灯の光を反射した。
「あ、キレイ、飴だよね?」
頷く。色とりどりの飴玉がガラスの小瓶に入っている様子が賑やかで綺麗だったので、散々迷った末これにした。
いりなは瓶をくるくる回して矯めつ眇めつしていたが、振り返ると千歳に向かって弾けるような笑顔を見せた。
「本当にありがと!」
首を振りながらも微笑する。気に入ってもらえたなら何よりだった。
「ホントはねー、チトセのことだからまた忘れてるんじゃないかと思ってた」
「……それは、流石に」
「えー、でもチトセって誕生日も忘れてそう」
「………………えっ、と」
「…………え、チトセ? これ、冗談だったよ?」
思わず言葉に詰まってしまった千歳に、少女は信じられないとでも言いたげに目を瞬かせた。
「まだ、忘れてなかった、よ。来てないし」
一応、今年の誕生日までは日にちが残っているのだから忘れていなかった、と主張するのは苦し紛れだと分かっている。いくらなんでもうっかりしていた。
「あれ、チトセって誕生日遅いんだ」
「うん、三月の二十四日」
「あと十日しかないじゃない!」
もー、と唇を尖らせる反応の意味が良く分からずに首を傾げていても、いりなは眉間に小さな皺を寄せて考え込んでいるようだった。
「仙波さん?」
「うー…もっと早く分かってればなあ」
「……ごめん」
何事か分からないし、彼女の口調には千歳への非難は混じっていないようだったが、とりあえず呟くと、いりなは顔を上げて首を振った。
「いいの。わたしが勝手に悩んでるだけ」
「……何を?」
「チトセの誕生日、お祝いしたいの」
きょとんとした。少女はもう一度黙考の姿勢に入っている。
そういえば、誕生日は祝うものだった。
――生まれてくれてありがとう、って、そう言ってもらうための日なのよ。
昔は、そういってくれる人が居た。
「……いい加減、区切りをつけないと」
「…………へ? 何か言った、チトセ?」
首を振って、小さく微笑む。
「ありがとう」
一瞬虚を衝かれたような表情になってから、いりなははにかんだ。
「もー、まだ何にもやってないよー」
「いや、単に嬉しい、から。‥‥だけど、無理はしないで」
「リョーカイ!」
少女はにっこりと笑って親指を立てた。微笑を返しながら、思う。
進むにしろ目を瞑るにしろ、この縛りだけは解かなくてはならない。
千歳にとっての、最初の鎖だけは。
千歳は高校生であり、故に学ぶのは権利でありかつ義務である。
けれど、きっとリヤンの言う通り、残り時間は酷薄なまでに少ないのだろう。休日を、ましてや春休みを待ってなど、いられなかった。
「窈、明日から、出掛けたいんだけど」
夕食の時間、おずおずと向かい側の少女に告げると、彼女は面食らったように目を瞬かせた。
「突然だね。どうしたの、急に」
「……母さんの、墓参りに行こうかと思って」
少女の柳眉が、僅かに寄った。流石に、窈も彼女のことは知っているのだろう。
「……千歳くん」
「命日が近いはずだし…ずっと、行ってなかったから」
「大丈夫?」
こくりと頷いても、黒絹のような髪に包まれた頭はまだ気遣わしげに傾いでいた。
――何一つ偽りのない優しさは、こうしていつも支えてくれる。
「大丈夫」
声に出して、もう一度保証する。
「今は、窈たちが居るから」
きっと、断ち切れる。
微笑すると、窈は「仕方ないなあ」と、柔らかい笑みを返してくれた。
固辞したのだが、結局リヤンが運転手になってくれることとなり、その日遅く出発した。
“ラプンツェル”を探しに行ったいつかと、そして異能者のことを調べに行ったいつかと重なる。大した時間は経っていないはずなのに、どちらも遠いように感じて――唐突に、気付く。
本当に遠くまで来てしまったのだ、と。
不意の確信が連れてきたやわらかな痛みを、千歳は唇を噛むことでこらえた。
千歳の母――更科千月の墓は、千歳が生まれた町の郊外、小さな高台にある霊園の片隅にある。
菊の花束を抱えた千歳は、不思議にも殆ど迷うことなく、その前に立っていた。
駐車後、無言のまま彼の後に着いてきていたリヤンが手桶から柄杓を抜いて、薄く埃をかぶっていた墓石を清める。千歳は花を差し込んでから、砂利の間から生えた雑草を一つ一つ抜いていった。
どうして自分が誕生日に贈り物が貰えるのか、不思議がったことがある。
確か近所に大きなお腹をした小母さんが居て、子どもを生む時に大騒ぎだという話を聞いたからだったはずだ。
自分が生まれる時、頑張ったのは母なのに。
そう言うと、彼女はあどけなさを残した微笑と共に、千歳の髪を梳きながら囁いた。
『お誕生日はね、あなたが、生まれてくれてありがとうって、そう言ってもらうための日なのよ』
細い、夢見るような手を持つ女性だった。
『お誕生日おめでとう、千歳。私とあの人の間に生まれてくれて、ありがとう』
事実、彼女は優しい悪夢の中でしか生きられなくなっていた。
たとえそれが狂気と紙一重でも、偽りでしかなくても、彼女はきっと幸せだった。
『あの人があなたのお父さんよ』
あの日、その言葉を否定してしまったことは、痺れた心にずっと突き刺さっていた。
「……千歳様。不躾を承知で申し上げます」
墓を綺麗にし終えた後はじっと見つめて動かずに物思いに沈んでいる彼に、リヤンが声を投げた。
「たとえ偽りが幸せだったとしても、真実を詰るのは筋違いと言うものです。……ご母堂は、決してあなたを責めて良い立場には折られなかったと思います」
「……そう、なのかもしれません」
「窈様もおっしゃっていました。あなたはご母堂のことを憎んではいない、特別に執着も無い、それなのに彼女に囚われているように見える、と」
「……敵いません、ね」
ずっと、親類縁者に関心は無いと思ってきた。そうでもないと、たらい回しに慣れることなど出来なかった。
けれど、母だけは――やはり、千歳を離してくれなかった。
「ずっと、僕は母が怖かったんです」
「罪悪感、ですか?」
「それもありますけど……あの時の母は、泣いていました」
苦しさにもがいている間に、知覚した涙は母のもので。
「苦しいのは僕なのに、苦しませているのは母なのに、どうして泣くんだろう、と。その理不尽さが、怖くて」
許してくれないだろう事と同等に、理解できなかったことが怖かった。
優しさを覚えていたから、尚更に。
「だから、きっと窈に向き合うことも怖かったんだと思います。…………窈は、優しいですから」
窈には心から、感謝していた。けれど反面、包み込むような柔らかな優しさが、怖かった。
「……窈様は、違います」
「はい、だからこそ、何とかしなければ、いけないんです」
千歳は屈み込む。リヤンが点けた線香の煙がくゆる。
――許されないことには、覚悟を決めた。今なら、少しだけでも母の行動の意味が分かる。だから。
「……生んでくれて、育ててくれて、ありがとう――母さん」
呟いて、一瞬だけ瞑目する。
「また、来るから」
風が、線香の煙を流す。
鎖の代わりの約束は、ひどく穏やかな自然さで、口をついて出た。
不規則な揺れに、そっと目を閉ざす。
母の鎖を断つことは、同時に窈と向き合うことだと、本当は予感していた。
目を瞑ろうとしていたことに掛かっていた霧が、晴れる。
「……リヤンさん」
「何でしょうか」
幸せなまま失うなら、盲目でも構わないと思っていた。
けれど、きっといつか“筋違い”に辿り着いてしまうのなら。
リヤンの言う通り、もう千歳にしか選べないのなら。
窈がもうこれ以上苦しまないように、悩まないように。
「僕は――《獏》の何なのですか」
家族なのに、恩人なのに。いつも優しく、支えてくれたのに。
せめて千歳が出来ることといえば、これしかないのが申し訳なかった。
「ただの助手じゃ、なかったんでしょう?」
バックミラー越しの視線を少し逸らして、リヤンは刹那ためらったが、やがて小さく頷いた。




