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やっと三月も第二週に入っても、まだ登下校時には防寒具を手放せない。
ただ、学年末の試験も終わり、更科千歳にとっては高校一年生も残すところ二十日余りとなった。修業式の前日には国語と英語と数学の三教科のテストがあるものの、何処とはなしに空気に開放感が漂っている。
「失礼します」
第一図書室の扉をそっと押し開ける。ふわりと温まった空気が頬を掠める中、「いらっしゃい」と柔らかなアルトが響いた。偶々同道していたクラスメートの眉が動いたのを、視線を向けなくてもなんとなく分かってしまった。勿論、声の主の正体も。
「槐先輩……どうして」
「香坂さんが留守だから代わりに」
微笑して槐夕夜は黒髪を流し、小首を傾げた。精々中学生くらいの容姿と相まってその仕種は稚い印象をもたらすが、それでも子どものようというよりは小鳥を思わせるのは不思議だ。
しかし、「そうじゃなくて」という頭の痛そうな級友の声には心底同意した。
「何で此処に居るのさ」
「何か問題があるのかい?」
「……確か数度目の奇跡を起こしたんじゃなかったの」
羽咋零の皮肉っぽい指摘に、ああ、と彼女はようやっと得心したように手を打った。
「そういえば今の僕は卒業生だったね」
弱冠才気が暴走している感のある不登校児殿は、どうやら卒業式も欠席なさったらしい。一切悪びれたところのない表情で呟いた。
「そうか、なら私服で来れば良かったな」
制服はスカートが寒いんだよね、という言葉は著しく論点がずれていた。
「……卒業しても此処に入りびたるつもりじゃないよね、まさか」
「卒業したからはいさようなら、にするには惜しい図書室なんだけど」
「確かに先輩ならあと五年くらいは生徒に混じってても違和感無さそうだけど、だったらおとなしく留年しときなよ」
「卒業させてくれるというものを拒むのは、やはり無粋かと思ったんだよ」
「先輩の通学姿勢の何処に粋があったのか教えてくれれば納得できるかもしれない言葉だね」
「そうだね、異端は粋ではないから」
形の良い眉がきりきりと吊り上がっていく零に対して、夕夜は何処までも飄々としていた。
「異端なんて何処にでも居るのに、どうして人はそれを疎外して安心するんだろうね」
心臓の奥が、つきりと冷えた。一瞬にして凍った零の瞳に気づいたからではない。
そのテーゼは、千歳にとってあまりに本質的に過ぎた。
「どうして一人で複数を探す試練を受ける人が“オニ”であり敗者なのだろうね」
「……先輩は、異端じゃなくて単なる異質だよ」
「羽咋くん」
流石に言葉が過ぎる気がして、思わず咎める声音になる。零も自覚したのか無表情を消して舌打ちしそうな顔になる。
けれど、少女は苦笑しただけだった。いつも通り裏表のない、ただの苦笑だった。
「やっぱり君は聡いよ、Goose-Egg君」
「……先輩」
「うん、それでも僕は居るんだ。僕自身それに感想はないし、誰かの感想も欲しない」
謝罪になりかけていたのかもしれない零の呼びかけを遮って、夕夜は屈託なく笑う。
「だから、君も居れば良いだろう?」
毒気を抜かれたように少女の顔を暫し見つめていた彼は、やがて溜息を吐いた。
「それが言いたいがための挑発だったわけ?」
「失礼な。君がおとなしく僕のてのひらで踊ってくれるわけがないだろう? 僕は単に疑問に思ったことを口にしただけさ」
「……嘘くさい」
零の呟きは、肯定できた。
それは千歳が聞いた最初で最後の、槐夕夜の嘘だった。
『君も居れば良いだろう?』
誰になんと言われようが、存在すれば良い。それはいつか聞いた零の言に似ているようで、けれど自分自身の感慨も排除してしまっている点は相違だった。
存在の肯定ではなく、選択。
それは、零だけに向けられたものでもなかったのかもしれなかった。
優しかったはずのひとを思い出す。喉元に手が伸びる。
千歳に選択肢すら許さなかった彼女の手の痕跡は、見つけられるはずもなかった。
もう増えない記憶だから、きっと母は許してくれない。
自分も、自分の異能も、本当は、許したことなどない。
己の引き取り手は、そんなことはないと言ってくれるだろうけれど。
けれど。
もしかしたら、本当はもっと自明の理として、存在を選ぶことは出来るのかもしれなかった。
帰宅してすぐ依頼を果たす場面に立ち会っていて、気づけば八時を回っていた。有能な使用人であるリヤンは彼女の主人と千歳の分の夕食を温めるだけの状態にしておいてくれたが、“食事”を終えたばかりの鬼無里窈はとにかく休息をしたかったらしく、食卓にはリヤンと千歳だけが残された。
こんなことは初めてではないけれど、何故かリヤンに邪険にされがちな千歳としてはいつも少しだけ気詰まりで、苦手な時間だった。和やかに会話しながらの夕食がすっかり身についてしまった所為で、間が持たない。ホワイトシチューの一口目を嚥下した後の「美味しいです」との呟きに、「ありがとうございます」と彼女が答えたきり、黙々と食事が続く。
「……窈、大丈夫でしょうか」
茶碗を半分ほど空にしたところで、ぽつりと呟く。沈黙を埋めるためでもあったけれど、案じているのは真実だ。元々、“食事”後に辛そうな表情を見せることは常であったが、最近の顔色の酷さは顕著で、蒼白を通り越して紙のように白い。
リヤンは柳眉を僅かに歪めた。その表情変化に、俄かに不安になる。
「窈は、何処か悪いんですか?」
いいえ、と彼女は首を振る。嘘でないと分かり少し安堵するが、続いた言葉は不可解だった。
「極めて、自然なことなのです」
「……どういう、ことですか?」
答えらしきものを返さないまま、リヤンはその紅みがかった硬質な瞳を千歳に据えた。
「今、螺子を巻きなおすだけの力はもう、窈様には」
螺子、という単語は、薄く埋もれた記憶のどこかにあるような気がして、けれど掘り起こせないでいるままの千歳から、リヤンは目を逸らさない。
「気づき始めて、おられるのでしょう?」
食事中だというのに、喉が貼りついてしまったようだった。
否定は嘘になると囁きが聞こえる。目を瞑っていたいという千歳の願いなど構わず、けれど責める口調でもなく、彼女は重ねる。
「時間がないのです。否応なく」
断じる口調と裏腹に、その瞳には深い悲しみの予感があった。
「止まってしまえば良い、と。考えていたこともありました。けれど、《獏》はそれを望まない。であれば、あとの分岐はただひとつ。貴方にかかっています。出過ぎたことを申し上げている自覚はあります。いいえ、これは私の、単なる願望でしかないのでしょうが――それでも、愚を犯します」
「リヤン、さん」
「向き合って、辿り着いてください。止まるか続くかを選べる場所まで、来てくださいませ、千歳様」
珍しい懇願のような声に、それでも、頷けない。
心境を分かってくれているのかもしれない彼女は、その時やっと目を伏せた。




