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試験直前に二日連続で休んだのは流石に痛かった。
「あー…更科、大丈夫そうか?」
「……………あんまり」
範囲は親切な級友たちが教えてくれたが、授業を聞いているのといないのとでは差が大きい。それほど得意ではない理系科目のダメージは少なくない。また、文系科目のほとんどは、そもそも予習を前提として授業が行われるため、授業の進度が速い。つまり、穴が大きい。加えてテスト直前という時期では教師は捕まえにくい。色々な教科の教師に聞いて回ろうとすると、大半を待ち時間として放課後を過ごすことになってしまう。
自業自得だ、仕方ない。教師を訪ねるのは諦めよう。
「羽咋ー」
自習で頑張ろうという方向に思考が赴いたところで、眉を寄せている千歳を気遣ったのか那智が零を呼ぶ。彼も試験は大変だろうに、と慌てて顔を上げると、案の定渋い顔をしていた。
「……僕も理系科目以外はそこまで余裕ないよ」
「理系科目は余裕あるんだ…」
「わー、さすが理系っつーより、さすが羽咋だわー」
言葉面は冷やかしのようになってしまったが、感嘆のつもりである。そんな二人の内心を読み取ったのかそうでないのか、零はひとつ息を吐いた。
「というわけで、僕より適材がいると思うけど」
零の推薦により、苦肉の策として打診した相手は、ひどくあっさりと了解してくれた。
「教え役か。僕で良ければ務めさせていただくよ」
既に図書室登校と化している才媛は、にこりと笑って快諾してくれた。
意味はおそらく無いだろうと思いつつも、一応の礼儀として先輩の試験は大丈夫ですか、と問うたが、予想通り笑って流された。
四人用のテーブルに、二人ずつ向かい合うようにして腰掛ける。千歳の隣にその教授役の夕夜が座り、彼女の向かいに零、千歳の向かいに那智という具合である。
「ってかいつの間に俺参加状態に!」
「興味本位でついてくるからだよ」
羽咋零は既に第一図書室で勉強する心づもりを整えていたのだろう、言下に切り捨てながら現代社会の授業ノートを開く。
「…勉強しないの?」
「いやするつもりでしたけれども!」
「試験前でも、第一図書室は空いてるから。勉強スペースの確保を考えたら、お得じゃないかな」
「そらそーだけどさあ」
どれだけ人気ないんだよ第一図書室、という尤も過ぎる突っ込みをぼやきながら、支倉那智も英語構文の教科書とノートを取り出した。
奇しくも那智が言った通り、自習室やそれに準ずるものとして開放されている視聴覚室、それに第二図書室と第三図書室は既に人でいっぱいだ。その状態で第一図書室に居るのはこの四人のみである。第一図書室が知られていないのか、知られていても避けられているのか、転入して数か月の千歳には判別がつかない。
「まあまずは休んだ分の補いから行こうか。…教えるのは良いんだけど、その前にちょっと教科書見せてくれるかな。どういう考え方すべきか絞るから」
「さすが槐先輩、噂通り半端ねえ…!」
「絞れるならいつも予めやっときなよ。先生方泣かせてないで」
「教師は生徒のペストを評価するのが仕事。でも千歳君が復習したいときに教科書を当たれたほうが良いだろう?」
羽咋零といつものようなやり取りを交わしながら、彼女はルーズリーフを取り出した。
意外と、と表現するのは少々恩知らずだろうが、槐夕夜は教え手として優秀だった。時折飛躍するところは愛嬌だろうが、訊けばポイントを押さえて返してくれる。千歳の疑問点を的確に捉える瞳は、何処か黒い鏡のようだとぼんやりと思う。
これだけ鮮烈な人でありながら、他人を映すことができる。それは、今の千歳にとってはありがたいことだけれど、同時にひどく危ういような気がする。正確に読み取ろうとする聡さは、きっととても生きにくいはずだと、思ってしまう。
「……どうかしたかい?」
「いえ……」
取り留めのない思考を振り払う。今考えるべきことは、と考えて、何故か学習以外のことが浮かんできた。苦心して一度離れた集中を戻そうとしていると、素っ気ない声が飛んでくる。
「何かあるなら言えば? どうせ先輩は暇人だし、僕は気にしないし」
「でも、さすがに悪い気が……」
「構わないよ。それこそ暇だからね。君の疑問は考えなくては答えられないもの、失礼だけど面白い」
いつものように、そう言って微笑する。那智を窺ったのが分かったのだろう、彼も少しおどけて言ってくれた。
「俺も気にしないぜー。むしろ関係代名詞が倒せないから気分転換してーし」
ためらいはあるけれど結局甘えさせてもらった。
「どうして、ラプンツェルの涙で王子の目が治るんでしょう」
「ふむ、グリム童話か。……涙で盲目が治る話は、でも割と色々な所で出ているんだよね。確か仏教説話のような話にもあった気がする」
「あー…説法聞いて出た涙を集めて、それで目ェ洗うと治った、ってヤツどっかで見たような」
わお藪から棒だなあ、なんて唯一目を見開いていた那智がまず思い至ったようなので、少し驚く。夕夜も半ばは同感だったのか、ぱちりと目が瞬いた。
「おや、詳しいね支倉君」
「古文は俺の味方ッスから」
へへん、とちょっと得意げな顔になった彼に水を差したいわけでもないだろうが、零が口を開く。
「宗教説話なら方向性違うと思うけど。ラプンツェルには宗教的な要素はあまり絡まないようだし」
それには、頷けた。そうだね、と夕夜も同意した。
「なら一般的に解釈すれば、“愛の奇跡”なんだろうけど、だったら西洋なんだから、口付けとかになりそうなものだよね。『白雪姫』や『いばら姫』のごとく」
「というか、それって愛情なわけ?」
「人工呼吸ではないだろう以上、少なくとも広義での愛情は含んでいると思うんだ」
「いやでも…ちょい変態入ってるよーな気ィしません? 『いばら姫』は寝込み襲ってますし、『白雪姫』はネクロフィリアっぽいし」
それも同意できるな、と千歳は頷いた。夕夜もそれには同意したのか、小首を傾げた後に言い直した。
「では愛情または劣情とでも言っておこうか」
「可憐なお顔であっさり言ったー!」
「顔と発言内容は独立事象だろう?」
にこりと笑って、話を戻そうか、と少女は続ける。
「この場合、ラプンツェルの涙の成分が問題になると思う。悲しみだったのか、憐れみだったのか、喜びだったのか、そういうこと」
魔女の仕打ちと王子の姿への悲嘆か、狂気の王子に対する憐憫か、やっと会えたことへの歓喜か。
「個人的な見解を先に言っておくと、僕は、あの展開はラプンツェルへの救済ではないと思う」
「……悲しみでも、憐れみでも……喜びでも、ない?」
少女は頷いた。
「その色もあったとは思うけれど、一番強かったのは、決意だったと思う」
決意、と千歳は口の中で転がす。
「盲目の王子と、子供たちと生きていく決意。――それは畢竟、魔女との本当の決別だ」
「塔を追い出されたとき、じゃないんですか?」
「そう。辛さを知って、それでも彼女はもう一度王子を選んだ。それが、決別だと思う」
「じゃあ、目が治ったのは?」
「あれはむしろ……王子への救済と復権と取っている」
救済はそのままだろう。しかし復権とは。
考え込もうとしたのを、声が遮った。
「そういえば目が治ったから国に戻れたんだっけ」
「そう。……もう一つは、まあそれこそ童話の解釈としては異端でもないはずだけど、ジェンダーの問題」
「……あ」
「あー、そうっスよね。夫と子ども養ってかなきゃいけないわけですもんね」
ラプンツェルの詳細は覚えていないのか、内容にかかわる部分では黙っている那智だが、話の流れはつかんでいるらしい。盲目の王子が一家を支えていくのは厳しい以上、どうしても生活を担うのはラプンツェルになるはずだ。
「まあ、長いこと男女の役分けは社会秩序と同一視されていたようなものだから。……ジェンダーすら元に戻ってやっとハッピーエンド、とも取れるな、と」
「なるほど」
だから、ラプンツェルの涙は王子への救済だというのだろう。
「…もし、ラプンツェルが魔女を選んでいたら、どうなったんだろう」
「少なくとも、王子は盲目のままなんじゃない?」
何の気なしに呟いた疑問に、あっさりとした答えが返る。
「Goose-Egg君、それはあまりに率直かつ投げやりだと思うよ?」
「先輩だって『基本的に魔術的な存在の撤退がハッピーエンドの条件』みたいなことを言っていたじゃないか」
そうして、零は皮肉っぽく笑った。
「ラプンツェルがもう一度塔の中に戻るのを望んだとしても、それはそれで自然な流れだと思うよ」
目を瞬くと、零は静かに息を吐いた。
「楽じゃないか、そのほうが。衣食住も保障されてる。ただ、外に出られないだけ」
「あー、人によってはそっちのが良いって言うかもな。引きこもってて生活できちまうんだもんなあ」
「まあ、歴史上には『奴隷でいられる時代と奴隷でいられない時代がある』というぐらいだからね。自由に憧れつつ、自分以外の存在に己の道を決めてもらいたい――人には、そういう側面も、あるのかもしれないね」
自由に動くよりも、誰かに手を引かれて歩くほうが楽だから。
その呟きには理解が追いつくが、それは何より――欠片を見い出した、気がした。
宗像紗々が来訪したのは、千歳が全教科補習を免れたと判明してからのことだった。
千歳は既に馴染みとなったファミリーレストランで、西宮七重と向き合っていた。
レモンティーに掛けている指が、僅かに堅い。眼鏡の奥の目がそれでも真っ直ぐに彼を見ていたから、千歳も前置きせずに本題に入った。
「あなたのおっしゃっていた“ラプンツェル”さんに会うことができました」
「……彼女、は」
言いさして、七重は首を振って、続けた。
「彼女は、なんと言ったんですか?」
「若狭さんが忘れたがったのは、自分との思い出ではないか、と」
予想通り、彼女は若狭夏野と恋仲だった。彼の写真旅行の際に知り合い、互いに惹かれていったらしいが、夏野が《獏》を訪れる直前、彼女の方から別れ話を持ち出した。
「……それだけ、ですか?」
話を切った千歳に、中学生の少女は強い視線を向けた。
「夏野くんは、それだけでは忘れたいなんて願わないと思うんです。……夏野くんはきっとその人のことが好きだったと、思います。付き合ってたという時期を今から思い返すと、楽しそうでした。でも、だからこそ、楽しかったことまで全部全部忘れたいなんて、思わないと信じています」
教えてください、と真摯な光を放つ目に、千歳は考え込んだ。
紗々から口止めされたわけではない。広言されたくはないのだろうけれど、それを彼女は言わなかった。勝手な話だと自覚して、彼女もきっと苦しんでいる。
口を開くことは、両者にとってあまりに酷いのかもしれない。それでも――それでもきっと、七重の目をこちらの感想のみで踏みにじりたくなかった。
「後悔、するかもしれなくても?」
「はい。……あたしはこんな宙ぶらりんな状況、耐えられない」
千歳は瞑目して、すぐにその目を開いた。
「……彼女は、若狭さんに一つだけ、大きな嘘をついていたんです」
本来なら、許されないはずの嘘。けれど千歳には理解し得ないからこそ責められない。罪悪感と裏表の強い衝動を知らないということもある。それに。
紗々が踏みとどまった境界を、越えてしまった女性を知っているから。
「本当は、若狭さんと……いいえ、他の誰とも、彼女は恋仲になってはいけなかった」
言いながらも、分からないながらも、それでも思う。
紗々に泣く決意があれば、夏野に盲いる覚悟があれば、あるいは彼女は本当に“ラプンツェル”であれたのかもしれないと。
「若狭さんが泊まった離れの本来の主、その男性は彼女の父親でなく、夫でした」
父娘と称したのは何故だったのか、紗々は説明しなかった。年の差ゆえに間違えられたのが始まりだったと推測できる。人里を少し離れた場所で、それなりの大きい屋敷に住んでいる男女二人ならば、夫婦よりも親子の方が興味を引き付けにくいと判断したのだろう。
夫婦の間にどんな感情があるのか、紗々は分からないと言った。
憎悪ではなく、けれど愛情とも言いがたい関係は、只の契約から始まったらしい。
だからと言って、夏野に恋を求めたことは正当化されないと、彼女自身言っていた。
『本当に本当に、夏野さんのことは好きです。恋愛感情は免罪符にならないけれど、それでも好きで、それは今も変わらなくて』
それでも、愛情でない愛着を切り離すことは出来なかったのだ、と。
だから、紗々は全てを話して別れを告げた。
夏野は、それを受け入れることしかできなかった。愛していた女性に欺かれていて、それでも彼女を憎みきることもできず、許しきることもできず、忘れたいと願いながら、忘れたくないとも思ってしまったのだろう。
語り終えて七重を見る。勝気なままの強い瞳が僅かに潤んでいるのを認めて内心慌てるが、彼女は泣き出そうとはしなかった。ひどい、と動いた唇は噤まれて、沈黙が落ちる。
千歳には、彼女の痛みを慰めることは出来ない。慰める言葉はない。
――かつて千歳は、狂いかけた幸せな偽りを、壊してしまったから。
「…………分からなくなっちゃいました」
やがて七重は、ぽつりと自嘲するように呟いた。顔を上げると、彼女は目を物憂げに伏せていた。
「夏野くん、忘れたままで良いのかな……」
「え…?」
意外さに目を瞬くと、彼女は大人びた溜息を漏らした。
「あたし、そのひとに同情なんてしたくないですけど、もし目の前に居たら絶対責めちゃいますけど、それでも、お互い本当に好きだったなら、夏野くんは欺かれていたとしても騙されていたわけじゃなかった。……そういうの、忘れて良いのかな、って」
「……僕には、分かりません」
小さく呟く。
痛みとともに幸せの記憶を失ったほうが良いのか、幸せを忘れたとしても痛みがなくなるほうが良いのか。
本当に、分からなかった。
「ごめんなさい。あんなに強引な依頼して、走り回ってもらったのに、今更あたし、迷ってて」
首を振って応じると、漸く七重は、少しだけ笑った。
「……返せなくなっちゃったね」
窈は紺色の天鷲絨の箱を手に、ほろ苦く笑った。千歳も、小さく頷く。
紗々が言うには、それは彼女が夏野に贈ったものらしい。彼が意図的に置いていったとも考えられないけれど、結局、返せはしなかった。
「依頼もキャンセルになっちゃった、ね」
「それは結構いつものことだよ」
くすり、と今度は優しく、そして珍しく悪戯っぽく笑った少女に思わず顔の固さが僅かに緩む。一人だけ、リヤンは溜息を殺していたけれど、咎めることもなかった。
いつか夏野が思い出したら、と七重は呟いた。
『それで、やっぱりどうしても辛いなら、その時は。でも』
『今は、待ってみたいんですね?』
窈の声に力づいたように、彼女は決然と頷いた。七重は話した千歳のことも責めなかったし、結局一度として、“ラプンツェル”の正体を問い詰めもしなかった。
そして、最後まで涙を零さなかった。
「……ねえ、窈」
呼びかけると、少女は黒髪を翻して微笑んだ。
「どうしたの?」
「僕は、窈の助手、だよね」
一瞬目を瞠ってから、窈はもう一度柔和に笑う。
「そう、とっても助けてもらってるよ、私。それ以前に、リヤンと一緒、大事な家族だけれど」
その言葉に、何一つも嘘はない。
表情に混じる一抹のものに気づかなければ、そのまま笑い返せたはずだった。
「窈」
「どうしたの?」
――どうしてそんな顔をするの?
訊きたかった。訊くはずだった。そうすればこの違和感の正体も掴めたかもしれなかった。けれど。
「……ごめん、やっぱり何でも無い」
そう?と首を傾げる少女に、何とか曖昧に笑ってみせる。
この優しい幸せを脅かすかもしれない可能性に、どうしても踏み込めなかった。
もう二度と、壊したくなどなかった。




