5
リノリウムの床が、スリッパ越しだというのに冷たく感じる。ゴムとこすれて静寂を破る音は、ペーパーナイフに似た類の鋭さを抱いては冬の空気に溶けてゆく。此処は不安がるべきところなのだろうか。なんとなく麻痺した思考が浮かぶ。
ふっと息を吐く。がらんとした廊下はやはり何処か気詰まりだ。だから第一図書室に入ると、温度ゆえのみではなく、安堵した。
「あれ、どうしたんだい、こんな時間に」
槐夕夜が壁時計をちらりと見てから声を掛けてきた。
「……ちょっと、面談が」
文系理系が分かれるのは2年生からなので、この時期は念押しの二者面談をするのである。幸い選択にも成績にもさしたる問題は無いのだが、千歳は半端な時期の転入生だったので、馴染めているかの確認もされて、思いがけず時間が掛かってしまった。
孤立はしていないようだと判断したのか、担任は晴れやかに帰してくれたが、千歳としては釈然としない。学校中で一番馴染んでいるのがこの第一図書室であるような気がするためだ。
結局千歳が悪いのだが。
薄い溜息を吐いた彼を余所に、史上最悪の不登校児のくせに『面談』の意味を正しく理解したらしい彼女は納得したように、ああ、と呟いた。
「そんな時期だね。千歳くんは文系かな?」
分かるものらしい。頷くと、少女は思案げに首をゆるく傾げた。
「Goose-Egg君は理系らしいから、クラスは分かれるのか。寂しいかい?」
「……あまり」
正直に言うが、彼女は薄情だとは思わなかったようで、笑った。
「此処があるから、かな?」
頷く。そもそも羽咋零と教室で話すことはあまりない。友人とも言えない、けれどただの級友というには少しだけ距離が近い、強いて言うなら千歳にとって彼は相談相手だ。
だから寂しいとはあまり感じないし、夕夜の言う通り此処に行けばほぼ会えるようなものなので、喪失感が迫らない。それよりも、つながりを失くすのは。
「先輩の卒業は、少し寂しいですけど」
流れのままに呟くと、槐夕夜はその虹彩までも漆黒の瞳を瞠ってから、にこりと笑って、千歳の肩に手を置いた。
「素直だね、君は、本当に」
「……言ってから、ちょっと気恥ずかしくなりました」
子どもでもあるまいし、と自分に溜息を吐きたくなるが、少女は快活だった。
「でも嬉しいな。皆この年頃だと言う前に照れちゃうし、Goose-Egg君なんか逆立ちしても思いつきそうに無い言葉だ。そもそも僕がかかわった学校関係の人って少ないから。……学校来ないで言うのも厚かましいけど、少しは寂しがってもらえたら、やっぱり嬉しいものだね」
「……そういう、ものですか?」
「人を寂しがらせておいて不謹慎なんだろうけど。……ねえ、千歳くんはそういうこと、苦手なのかな」
「寂しがってもらった覚えが……ないので」
友人らしい友人を今まで作ったことはないから、あの白い大地に置いてきたものは無いような気がする。
血縁にしても、今にして思えば――。
「実を言えば、置いていく側も寂しいんだけどね」
思考を遮った言葉を、少しの驚きと共に反芻する。少女は微笑んだ。
嘘は無いから戸惑って、それから呟いた。
「……苦手、みたいです」
素直なのは彼女の方であるような気がする。思考回路は読めないのに、感情は曝け出して怖じ気ない。
千歳の思考をどこまで汲み取ったのか、そっか、と少女は笑って応じた。
週末の昼ごろなので、いつものファミリーレストランは家族連れで混み合っているが、西宮七重が到着した頃には席が確保できていた。
「夏野くんの許可は取れました。改めて、調査をお願いします」
「分かりました、では早速、二、三、お訊きしても?」
「どうぞ。あたしに答えられることには限度がありますけど」
相変わらずはきはきとした口調で、受け答えする七重を見て、僅かにためらう。だが、そのまま彼女の目を見つめ、問い掛けた。
「まず、もう一度お訊きします。若狭さんが抱えていた記憶に、心当たりはありませんか?」
七重は、あの時と同じようにしかめた顔をすぐに俯かせた。
言いたくないのだろうと判断して退こうとしたとき、彼女は再び千歳の顔を見た。
「ごめんなさい。あの時言ったのは嘘なんです」
きつい眼差しは、何かを抑えようと懸命な証左だ。
「その人のことは容姿以外殆ど知らないから……仮に“ラプンツェル”と呼びます」
本棚を辿って見つけたのはアルファベットが羅列されたものだった。しかもざっと見てみると英語ではないらしく、再び本棚に納めた。
テーブルで本を広げている級友の邪魔をするのも気が引けたのだが、とりあえず声だけ掛けてみる。
「……羽咋くん、訊きたいことがあるんだけど」
「何」
「グリム童話の和訳本、此処にある?」
「……そういうのは香坂さんに訊きなよ」
司書の名を出して渋い顔をした零に、申し訳なく情けないと知りながら、理由を告げる。
「話し掛け辛くて」
呆れるかと思ったのだが、意外にも一瞬目を瞠った彼は「分からなくも無い」と納得のものらしき溜息を吐いて本を閉じ千歳のほうへ歩み寄って、彼がしまったばかりの本を開いて確かめ、眉をしかめた。
「ドイツ語読める高校生がどれだけいると思っているんだか。しかも初版……本物じゃなくて復刻版だろうけど、一般に読むには需要無さそうな代物を」
「……読める?」
「そんなわけ無いだろ。初版っていうのは前に槐先輩が面白がってたから」
「ドイツ語も?」
英語を読んでいるところは覚えがある。零は頷いた。
「読むだけなら七か国語くらいこなせるらしいよ、あの人」
「……そう、なんだ」
何とも言い難く、結局相槌めいたものしか呟けなかった千歳の横、零は本を戻して見回した。
「…………和訳本ね。此処に無いとすると文庫版か…」
すたすたと歩いていく零についていくと、文庫の置き場所に出る。小さな本はまとめて、背の低い本棚の上に置かれた、小ぶりな木製の棚に行儀よく並べられていた。彼の長くしなやかな指が棚を辿り、ある地点でぴたりと止まった。横からそっと覗き込むと、カバーを外され少し茶色くあせた背中に『グリム童話集』と書かれた本が5冊組で納まっていた。零は最終巻を取り出して解説のページへ目を通す。
「これは初版を訳したものじゃないけど、これで良いなら」
「……違い、あるの?」
「版を重ねると削除されたり書き換えたりされてるものもある。残酷すぎる描写とか、性的な要素が強い場面とか」
いわゆる『教育上よろしくない』場面ということか。
へえ、と言いながら目次をめくり、数冊目で目的の話に辿り着けた。
「もう良い?」
「ありがとう」
席に戻って行く彼の背に声を掛け、その場で本を広げた。
『ラプンツェル』
一言で言えば、魔女によって塔の上に幽閉されている少女の御伽噺だ。
千歳にはなじみが薄かったとはいえ、有名な話のようだ。西宮七重も、ラプンツェルが長い髪を持っていると覚えていたから名付けたのだろう。勿論彼女が勝手に名づけたあだ名である以上、今回の依頼のヒントになるとは思えないのだが、気になってしまった。
「『ラプンツェル、ラプンツェル、お前の髪を垂らしておくれ』――か」
長い髪の――おそらくは、若狭夏野の恋人。
「ラプンツェル?」
小さな呟きを拾ったらしく、羽咋零が怪訝そうに訊ねた。小さく頷く。
「……確かその話も、グリム兄弟の手が入っているんじゃなかったっけ」
「え?」
「更科、今読んでいた話で、魔女に塔から追い出される経緯は?」
思い起こす。魔女が塔に入る経緯を見ていた王子が、興味本位で同じ手順を踏んでラプンツェルと出会い、恋仲になって。
「魔女に王子のことがうっかりばれて…」
「其処。確か初版では妊娠が発覚して、だったから」
「……詳しい」
御伽噺に全く興味の無さそうな彼だけに意外だったが、精神分析関連の本で題材に扱われていたことがあるのだという。
そういうことなら、と思う。
姿を現さない、ラプンツェル。
「どうして魔女は、ラプンツェルを育てたんだろう」
「……何かに必要だったから、って言うのが妥当な考えなんだろうけど」
独り言に近かったのだが、意外なことに羽咋零は応じてくれた。机上の本が閉じられているのを見るに、中身が退屈になってきたのかもしれないが。
「ただ、欲しかったのかもね」
「…え?」
「受け売りだけど。村社会の時代はかなり排他的だったから、余所から来た女性は、その村の男性の妻としてさえ受け入れられにくかった。継子いじめの話が散見されるのは、後妻にとって前妻の子は自分の地位を確立するのに邪魔だったから、っていう側面もあるとか。…だとしたら、何らかの理由で“外”に住まわざるを得なかった女性が“魔女”と呼ばれるようになったというのはありえない話じゃない」
「……寂しかった、のかな」
たった一人でノヂシャを育てて暮らしていた女性。
「そうかもしれないし、自分を受け入れなかった連中への仕返しかもしれない」
「…………羽咋くん」
「何」
「やっぱり仲良いんじゃ」
「悪い冗談…どうしたの、更科」
千歳を見て、嫌そうだった声が一転し、秀眉が寄った。そんなに“受け売り”が槐夕夜からだと断じられた上仲良いのでは疑惑を言ったことが不快だったのだろうかと思っていたら、左手を示される。
首を包む、てのひら。
「……あ」
「喉痛いんなら帰ったら? 此処、空気悪いにも程があるから」
心配してくれているのか突き放されているのか分からない口調の彼に、首を横に振ってみせる。
やはり驚いただけで、喉は痛くない。
心でもとっくに、痛みは風化していた。
補足
・香坂さん
第一図書室の司書。
趣味に走って古書と奇書を蒐集している。公私混同、良い子は真似しちゃいけません。
ちなみに常にテンションは高い。何だかとっても人生楽しそうな人。




