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窈の了解を得るとほぼ同時に入室した千歳は、思わず当惑した。窈の向かいのソファに座っている、依頼人らしき少女にはどこか見覚えがあった。少し考えて十四日の夕方若狭夏野と一緒に居た彼女だと思い至る。
一方の彼女も振り返った目を僅かに瞠った。少女の方も千歳に覚えがあるらしい。
「あなた……」
本気で驚いているような少女の首元のスカーフ留めに描かれた校章で、千歳はやっと思い出した。
「尼崎さんの……」
困惑気味だった窈も目を丸くした。
尼崎澪の友人として会ったことのある少女だった。
少女は、西宮七重と名乗った。制服らしい紺色のセーラー服の上から、それより僅かに青みの強い無地のセーターを着て、襟から白いスカーフを覗かせている。肩ほどまでの紙は下の方で2つに結われ、縁の無い眼鏡の向こうからしっかり者と評されそうな種類の光で見据えてくる。弱冠十一月の時より大人びただろうか。
「私の助手がお世話になりました」
微笑しながらの窈の言葉に、七重は改めて溜息を吐いた。
「やっぱり……澪のこと、は」
守秘義務のためか、にこりと笑ってはっきりとは答えなかった代わりに、けれど窈は根拠になる問いを持ち出す。
「澪さんはお元気でしょうか」
「ええ。……全部が全部順調なわけじゃありませんけど、少なくとも、事故前よりは」
答えに笑みを深めた窈は、本当に嬉しそうだった。
優しい《獏》の曇りない表情に、千歳にも温かさが伝染する。七重は少し居心地悪そうに眉を下げてから、「依頼したいんですが」と話を戻した。窈も呼応して澄みきった色はそのままに、表情を引き締める。
「依頼人はあたしですけど……対象となる人、その人が指定した記憶を、消して欲しいんです」
「………………こういうのを窈に言っちゃいけないんだろうけど」
「何、千歳くん」
「……凄く、反応に困った」
「うん……るつぼだったよね……」
《獏》は疲れたような乾いたような微笑で同意した。
まず対象に若狭夏野が指定されただけでインパクトは十分だったのだが、その上依頼内容が漠然としている。
夏野の忘れたかった記憶。きっと、未だ思い出せていないものを消して欲しいと七重は言った。
『無茶な依頼なのは分かってます。だけど』
「あんな風にお願いされると、断りにくいんだよね」
窈は自省を込めた苦笑を見せたが、千歳も思わず同意してしまう。
縋るようではなくて、しかしだからこそ切羽詰った表情。とりあえず遅くなるといけないので、請けるかどうかは保留にしたまま返したが、窈の言葉を予想し、かつ共感してしまった身としては、もはや動くかどうかは決まったも同然だ。しかし。
「《獏》って、そんな荒業まで出来るんだ」
「実はその辺複雑で、出来るとは限らないんだけど……大雑把に言ってしまえば、現実にあったことで、エピソード記憶で、ある程度の“辛さ”を本人が感じていれば、大体は何とかなる、かな」
「……辛くないと、駄目なの?」
ふと。
思いついただけの疑問を呈示すると、窈は目を伏せた。
「…………辛くなくても、出来るよ。だけど……それはぎりぎりのこと」
「……窈?」
何気ないもののつもりだったのに、何故そんな哀しみを宿すのだろう。
「《獏》は悪夢を防ぐ存在だから」
けれど安心させようとしてか、少女はすぐに顔を上げてそう微笑んだ。
「……変なこと訊いて、ごめんなさい。…………それから」
その弦のような微笑が苦しくて、千歳は彼女を呼ぶ。
《獏》というものを、本質的には何も知らないに等しい。だからこそ、窈を責めることも慰めることも出来ない。知らないままなのは、知ることを許されていないから。
色彩を識ったのは彼女のおかげだと考えると、それでも黙ってはいられなくて。
「我慢は、し過ぎると苦しいから。……気をつけて」
結局はいつも通り、歯痒いほどに拙い言葉になってしまったけれど――窈はやっと、微笑を深めた。
「夏野くんはあたしの従兄なんです。家が近いし母親たちが仲良いので、家族みたいなものなんですけど」
数日後、待ち合わせた駅前のファミリーレストランで詳細を話してくれるよう頼むと、七重は其処から始めた。
「明るくて気さく、というか人懐っこいところがあって、あたしにとっては話しやすい存在です。……それが、五ヶ月くらい前、だったと思います。急に沈んで。どうしたんだろって思ってたら記憶喪失になって」
「原因は」
「階段から落ちて。何か考え事してて踏み外したみたいです」
ところどころで声が濁るが、物言いはしっかりしており、嘘は無い。
「あたし、心配なんです。全部元通りになったら、また」
少女が肩を強張らせた。
「命に別状無かったから良かった。忘れたこともあるけど、今は支障なくて良かった。だけど、今度こそ本当に事故に遭ったらって思うと」
ああそうか、と千歳は彼女の不安の翳を見たような気がした。尼崎澪の件が七重に付き纏っているのだ。神経質なようでもあるが、笑うことは出来ないだろう。
「……とりあえず、夏野さんが思い出さないまま忘れるのがベスト、ということですね」
少女はためらいがちに頷いた。“無茶な依頼”と分かっているからこその逡巡のようだった。
「規定として、若狭さんの承諾が必要なんですが」
「あたしが説得します」
七重のレンズ越しの視線は、先ほどの迷いを振りほどくかのようにきっぱりしていた。
「では、こちらで若狭さんのことについて調べても?」
「その許可も何とかして取ってみます。消す云々はともかくとしても、夏野くんだって気になっているんですから大丈夫だと思います」
頷いてから、千歳は彼女と目を合わせた。
「……対象となる記憶について、何か心当たりは」
少女は一瞬だけ堪えるようにしかめた顔を見せたが、すぐに伏せた。
窓の外を、駅へ向かう車が横切る。二台が通り過ぎる音を聞いたところで、七重はぽつりと呟いた。
「ありません」
嘘、だった。
けれど若狭夏野の許可もまだ無い状態で詳しく聞くことでもないと判断し、千歳は口をつぐんだままだった。
若狭夏野は忘れたいのだろうか。
一度しか話をしたことの無い人間だから解決するはずも無いけれど、鉛筆を動かしながらもその疑問は渦を巻くことを止めなかった。
彼も《獏》の噂に惹かれた。それは間違いない。
けれど彼は留まった。引き止めたものは、単なる未練だったとはいえないだろう。辛いから忘れたいと、人間は容易く生きられるものでもない。
千歳はそこではっとした。ノートを押さえていたはずの左手がいつの間にかやんわりと顎の下の首を包んでいる。
なぞる感触。
置き去りにしたまま、辛いのか辛くないのか分からないで、それでも忘れないでいたのだと思い知る。
若狭夏野の行動を考えていたはずなのに。
理由も分からないまま連想していたのが何なのか、久々に発現した癖が教える。
困惑するだけで乱れていない心に拍子抜けしながらも、拭うように同じ場所を撫でる。
どうして此処で――母のことを、思ったのだろう。




