55
迷宮都市ザドゥを見下ろす、白亜の塔の頂上付近。
冷たい強風が吹き荒れる高高度の空域に、その場所はあった。
円筒形の壁面からは、巨大な木の枝のように真っ白なテラスが突き出している。
大理石の手すりの上に危うげなバランスで立っているのは、水色の長い髪を風に靡かせる、豊満な肉体を持つ女性だった。
頭には、聖職者が被るような純白の布を乗せている。
だが、彼女はそれ以外に一切の衣服を身につけていなかった。
豊潤な胸、滑らかにくびれた腰、そして柔らかな曲線を描く双丘。
年齢は二十代前半ほどに見える。
透き通るような白い肌を、冷酷な空の風の中に惜しみなく晒していた。
水色髪の全裸のシスターは、静かに目を閉じ、手すりの上で一心に祈りを捧げている。
「おお……星よ……どうか無力なワタクシめをお許しください……」
閉じた瞼から、ひと筋の涙が頬を伝い落ちる。
「ワタクシが無力だから、地上に羽虫どもを、星の上にのさばらせてしまっております……いいえ、星よ……お許しください……」
静謐な祈りの空気を切り裂くように、軽快な足音が背後から近づいてきた。
「わっはっは! 【ヴィーナス】おねえちゃーん!」
背後に現れたのは、小柄な少女だった。彼女は祈るシスターをヴィーナスと呼んだ。
桃色の髪を鮮やかなツインテールに結い上げている。
パンクロッカーが好むような、金属飾りのついた革のジャケットと短いスカートという出で立ちだ。
動くたびに、革の擦れる鈍い音が鳴る。
「めるめるが遊びにきたのだー!」
「メルクリウス。今は、御星様に祈りを捧げている途中ですわよ」
「ヴィーナスお姉ちゃんはアホなのだ? 空の上に神がいるとでも思っているのだ? 毎日毎日アホのように空を見ながら祈りを捧げているけど、めるめるたちを産んだ星は、この地上にあるのだ」
やれやれと、メルクリウスが呆れたように首を振る。
ヴィーナスは目を閉じたまま、美しい顔を天へ向け、祈りの言葉を紡ぎ続けた。
「おお、星よ。この愚かで不信心な愚妹に、罰を与えたまえ」
瞬間。
ボッ、と空気が爆ぜる音と共に、メルクリウスの身体が紅蓮の炎に包まれた。
「ぎゃぁああああああああああああああああ!」
全身を焼く猛火に包まれたメルクリウスは、テラスの床に倒れ込み、悲鳴を上げながら激しく転げ回る。
肉が焦げるような異臭が、冷たい風に混じって鼻を突いた。
彼女はそのままテラスの縁から下空へと落下していく。
吹きすさぶ突風に晒されても、彼女の身体を焼く炎が消えることはなかった。
「うわぁああ! ごめんごめんなのだ! ごめんなさいなのだ、ヴィーナスおねえちゃーん!」
メルクリウスはヴィーナスを姉と呼び、ヴィーナスは彼女を愚妹と呼ぶ。
姉妹という関係なのだろう。
だが、肉親が業火に焼かれて苦しんでいるというのに、ヴィーナスは眼下の光景を見下ろそうとすらしない。
「おお、星よ……汚らしい愚妹の悲鳴を、この美しい星の体に響き渡らせることを、どうかお許しくださいませ」
ゴォッ、と下から強烈な突風が吹き上げた。
ヴィーナスの頭上のベールが大きく舞い上がり、ふわりと元の位置へ収まる。
「ごめんなさいって言ってるのだぁ……!」
下空に落ちたはずのメルクリウスが、ヴィーナスの頭上、何もない虚空に立っていた。
足場など存在しない空中に、まるで平地であるかのように留まっている。
「では、祈りなさい」
「はいはいなのだ……」
渋々と、メルクリウスは胸の前で両手を合わせる。
「えー……神様すみません」
ヴィーナスが満足げに一つ頷く。
すると、メルクリウスを包んでいた炎が嘘のように鎮火した。
彼女は虚空にぺたんと座り込み、大きく息を吐く。
「はぁ〜……おねえちゃんは相変わらず怖いのだ……」
目を閉じているはずのヴィーナスから、恐ろしいほどの威圧感が放たれた。
肌を刺すような鋭いプレッシャーに、メルクリウスがブルルと背筋を震わせ、空中で少し距離を取る。
「それで、メルクリウス。一体何の用ですか? ワタクシの、神聖なる祈りの時間を邪魔するなんて」
「ああ、そうなのだ。下の下品貴族から、下僕どもの作業効率を上げてほしいって要望が来てるのだ」
下品貴族とは、塔の下層でふんぞり返るゲーヒィンのことだ。
彼が塔の神と呼んで崇めていた存在は、このヴィーナスとメルクリウスだったのである。
「信者の願い、星に代わって、このヴィーナスが聞き届けましょう」
ヴィーナスが大理石の手すりの上で、大きく両手を広げた。
冷たい風が彼女の水色の髪と純白のベールを激しく揺さぶる。
『thqjk4kbwp4ypt、hbんw4p@rkth4w6jhpj@うぉ46@wl@「4w6@5yjんw「@@5r6yjんwp6rtyhんf』
それは、到底人間には理解できない言語だった。
鼓膜を通り越し、直接脳髄をかき回すような冒涜的なテンポの歌声。
目に見えない毒の波動が、塔の頂上から眼下の街へと滝のように降り注いでいく。
地上を力なく歩いていたザドゥの民たちの動きが、ピタリと止まる。
次の瞬間、彼らの目の色が不気味な濁りへと変わった。
「おお! 星よぉ!」
「星のために、一生懸命働きます!」
「二十四時間働きますかぁ……!」
血走った目を大きく見開きながら、ザドゥの民たちは狂ったようにキビキビと作業を再開した。
悲鳴や呻き声は消え、無機質な労働の音だけが街を包み込む。
「これで良し」
「相変わらずヴィーナスおねえちゃんの歌は、強烈なのだぁ」
メルクリウスが自身の腕を擦りながら、青ざめた顔で呟いた。
ヴィーナス、そしてメルクリウス。
彼女たちもまた、人知を絶する超自然的な力を持つ存在。
魔人なのだった。
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