第四百八十一話「菖蒲先生の家」
夏休みも残り少なくなってきた。家族旅行や近衛家のパーティーを挟んで蕾萌会の夏期講習も後半となり、今日は久しぶりに蕾萌会へとやってきた。まぁ久しぶりといっても二日ほどしか空いてないけど、本当ならあったはずの二日を空けてとなると何だか随分と久しぶりのように感じてしまう。
鬼灯達が勉強会で来ることになってから一日を空けたのは事前に調整出来たから良いけど、昨日に関しては当日のドタキャンだった。菖蒲先生も俺の講習のために用意してくれていたのにドタキャンしてしまったのは申し訳ない。
ドタキャンしたとしてもうちから蕾萌会に支払う料金や、菖蒲先生に払われる給料には変わりはない。実際に授業をしようがどうしようが一コマいくらでやっている家庭教師のような個別指導塾だ。菖蒲先生が授業のために来ていて予定を取ってくれていたのに、ドタキャンしたから何の意味もありませんでしたということはない。
だけどお金を払ってるんだからドタキャンしてもいいでしょ、とはならないだろう。事前に言っておけば菖蒲先生だって別の予定を入れたり、他の子の講習に使うことも出来た。お金を払っているんだから何をしても良いというわけじゃなくて、予定を変えるなら変えるで事前に伝えておくのが社会人として最低限守らなければならない一線だろう。
そりゃ塾の講師なんて生徒達の都合でドタキャンされたりなんて日常茶飯事なのかもしれないけど、だからって俺までそうしてもいいとはならないし、そんなことを繰り返していれば菖蒲先生の心証も悪くなってしまうよな。
「あっ、御機嫌よう、菖蒲先生。昨日は突然お休みにしてしまい申し訳ありませんでした」
「咲耶ちゃん……、ちょっといいかしら?」
「はい……」
蕾萌会のロビーで菖蒲先生が待っていたようなので声をかける。だけどすぐに引っ張って連れて行かれてしまった。これはやっぱり相当お怒りということだろう。さすがに表で怒鳴り散らすわけにもいかないから、裏でちょっと『お話し』しましょうということだと解釈した。
「…………」
「…………」
「……あの」
「どうしたの?咲耶ちゃん」
「どちらまで行かれるのでしょうか?」
ちょっと裏でOHANASHIなのかと思ったけど、菖蒲先生は俺の手を引いたまま蕾萌会が入っているビルを出てさらにスタスタと歩いている。一体どこまで行くつもりなのか……。
「まぁいいからいいから。ついてきて」
「はぁ……?」
まぁ俺は偉そうに言える立場じゃないから黙ってついて行くしかないんだけど、それにしても菖蒲先生がどこまで行くつもりなのかさっぱりわからない。
「さっ、そっちに乗って」
「……え?あの……?」
菖蒲先生がやってきたのは蕾萌会の近くにある駐車場だった。そこに停めてあった一台の車の前にくるとピッとドアを開けた。菖蒲先生が運転席に乗り込みつつ再び俺に乗るように促したので止むを得ず助手席に乗り込む。
「えっと……?」
「シートベルトは締めた?それじゃ出すわね」
「はい……」
負い目があるこちらとしては強く出られない。菖蒲先生に言われるがまま従って車が走り出した。特別高級車ということもない普通のよく売れている大衆車だ。菖蒲先生は塾の講師をしているけど高辻家のご令嬢のはずだけど、恐らくこの車は菖蒲先生が自分のお給料で自力で買った車なんだろう。
菖蒲先生とはよく塾をサボって……、じゃなくて、課外授業でマスターの喫茶店に行ったりするけど、こうして車に乗り込んでどこかへ行くのは珍しい。一体どこへ向かっているのか。菖蒲先生は何をしようとしているのか。とても気になるしとても怖い。それほど菖蒲先生は俺に対して怒っているということだろうか?
「さぁ、着いたわよ」
「……はい」
マンションの駐車場に車を停めると菖蒲先生はそう言って車を降りた。そう言われたら俺も降りるしかない。まさかここが菖蒲先生の住んでいるマンションか?
何も説明することなく菖蒲先生はスタスタと歩いていきエレベーターに乗り込んだ。慌ててついていくとある部屋の前まで行って鍵を開けた。どうやらここが菖蒲先生の部屋らしい。
「入って」
「……はい」
何かバクバクと変な鼓動が止まらない。菖蒲先生は怒っているんだよな?それで俺はこれからこの部屋で怒られるのか?そう思うと申し訳ない気持ちで一杯になる。だけどそのはずなのに綺麗な大人の女性の部屋に上がりこむのかと思うと男子中学生のようにガチガチに緊張してしまって体が思うように動かない。
「飲み物を入れるわね。好きな所に座ってて。コーヒーでいい?それとも紅茶の方が良いかしら?」
「あっ……、え~……、紅茶……、いえ、コーヒーでお願いします」
紅茶というのは本格的に入れようと思ったら結構手間がかかる。ティーバッグにお湯を注ぐだけなら簡単だけど、菖蒲先生がどの程度の紅茶を入れようとしてくれているのかわからない。もちろんコーヒーだって本格的に入れようと思ったらいくらでも手間はかけられるんだけど、まさか今から豆を挽いて入れるわけでもないだろう。
「はい、どうぞ。安物でごめんなさいね」
「いえ、ありがとうございます」
菖蒲先生が淹れてくれたのはインスタントコーヒーだった。お湯を注ぐだけだから簡単だ。これなら紅茶でもティーバッグにお湯を注ぐだけだったかもしれない。菖蒲先生も自分にコーヒーを淹れているから二種類になるより同じのでよかった……。いや、待てよ?俺がコーヒーと言ったから同じ物を淹れただけで、俺が紅茶と言っていたら紅茶が二杯だったのかもしれない。
俺が頼んだものと同じものを自分にも淹れたのかもしれないけどそれは菖蒲先生のみぞ知ることだ。それよりも今はとても重要なことがある。大人の女性である菖蒲先生の部屋に入って二人っきり!これで緊張するなという方が無理だろう。
何かフワッと良い匂いがする。芳香剤に混ざって……、こう……、大人の女性のフェロモンのような?
いや……、俺は別にフェロモンを嗅ぎ分けられるとかそんな特技は持ってないんだけど、何か何となくそういうものを感じる。そもそもいつも菖蒲先生が生活している私生活の場にいるということ自体が興奮してしまう。
「ふふっ。別に咲耶ちゃんから見て珍しいものなんてないでしょう?」
「あっ!すみません……」
女性の部屋をキョロキョロ見すぎたらしい……。何か滅茶苦茶恥ずかしいぞ。本当に男子中学生になったような気分だ。大人の女性を相手にどぎまぎしている男子中学生はきっとこんな感じなんだろう。
「あっ……、あの……、それで本日は何故……」
「うん。あのね?」
「はい……」
ようやく菖蒲先生が本題に入るらしい。ゴクリと唾を飲み込んでから俺も真剣な気持ちになって頷く。
「咲耶ちゃんはこの国で一番、いいえ、世界で一番、ううん!宇宙で一番可愛いんです」
「ん?」
「その咲耶ちゃんがですね」
「うん」
「皆にチヤホヤされてですね」
「うん」
「咲耶ちゃんかわいい、かっこいいって言われるのはわかるんです」
「うん?」
「私はただの塾講師ですから」
「うん」
「そんな咲耶ちゃんを遠くから見ていることしか出来ないわけです」
「うん」
「でもそんな身分違いの二人の禁断の恋というのも素晴らしい。ね?そう思いませんか?咲耶ちゃん」
「…………わかる」
「ヤッター!」
……あれ?今何が起こったんだ?俺はまるで何かの意思に操られるように菖蒲先生に合いの手を入れていた。よくよく考えたら何かとても変なことを言っていたような気がするけど、何か勢いで押し切られたというか、ノリに流されたというか……。
「ゴホンッ!え~……、つまりですね」
「あっ、はい」
先ほどまでの変なキャラになっていた菖蒲先生がいつもの菖蒲先生に戻っていた。こちらも姿勢を正してもう一度真剣な気持ちになって菖蒲先生と向かい合う。
「アラサーのしがない塾講師の私が、若くてピチピチでこれから前途有望な咲耶ちゃんと釣り合うとは思っていません。でも私も少しくらい咲耶ちゃんとイチャイチャしたいんです!」
「あっ、はい……。えっ!?」
今無意識に定型文で答えてしまったけど、よくよく考えたら何か凄いことを言ってなかったか?そう思ったのも束の間。菖蒲先生は目を星型に光らせたかと思うとテーブルを挟んで床に座っていた俺の方に回ってきた。そして……。
「あっ、菖蒲先生……」
「ちょっとだけ!ちょっとだけだから!ね?今だけだから!」
俺の頭は菖蒲先生の大人の胸に抱き締められていた。ちょっと下着やスーツの金具やボタンが当たって硬いけど、それでも大人の女性の大きな胸に抱き締められているかと思うとドキドキが止まらない。
「別に無理に咲耶ちゃんの操を奪ってやるぜー!とかそんなつもりはないの。ただこうして……、少しでもいいから咲耶ちゃんと二人っきりの甘い時間が欲しいの」
「菖蒲先生……」
菖蒲先生に足りないのは、求めているのは、きっと温もりなんだろう。
菖蒲先生の部屋は何だか少し無機質にも感じられる。それなりに生活感のある部屋だけど、何ていうか……、あまり人がいない冷たい部屋という印象だ。
高辻家のご令嬢だった菖蒲先生が、家を離れてここで一人暮らししている理由を俺は知らない。ただ実家とあまりうまくいっていないようだという噂は外から聞いたことがある。菖蒲先生は家のことはあまり話してくれないけど、社交界からも身を引いていたことも考えて実家とは絶縁状態くらいにあるのかもしれない。
そんな菖蒲先生は日ごろ働いている塾にばかり詰めて、あまり家にも帰らず、家に帰っても一人で寝るだけの場所になっているんじゃないだろうか。それを思うと菖蒲先生が温もりに飢えているというのは想像に難くない。
うちの母も昔は厳しかったし、上流階級らしい家庭で家族同士も前世ほど気安い家ではなかった。それでも今の菖蒲先生のように一人ということはなかったし、椛達も居てくれたお陰で俺は温もりに飢えるということはなかったけど……。菖蒲先生は今ここでずっと一人暮らしをしていて寂しいのではないか?温もりに飢えているのではないか?
本人がそれを望んでそうしているんだから俺の知ったことじゃないというのは簡単だ。だけどそう言うほど俺と菖蒲先生は遠い関係じゃない。恩師であり、友人であり、悪友である菖蒲先生が、今まで誰にも言えなかった寂しさを俺に打ち明けてくれているのなら、俺はそれに応えたい。
何より……、もしこのまま寂しい思いをしている菖蒲先生を放っておいたら、きっと碌でもないことになるに違いない。ホストに嵌るとか、変な男に騙されるとか、そういうのはこういう状態の時だ。
気持ちが弱っている時、寂しい時にちょっと優しくしてくれる男が現れたら簡単に騙されてしまう。そうしてホストに嵌ったり、碌でもない男に散々貢がされて、借金漬けにされて、ソープに沈められてしまうんだ。だからここで菖蒲先生を止めてその寂しさを埋めてあげないと、きっと変な男に騙されてしまうに違いない。
「菖蒲先生……、私が少しでも菖蒲先生の寂しさを埋められるのなら……、その寂しさを一緒に埋めましょう」
ただ抱き締められていた俺はそっと菖蒲先生を抱き締め返した。ただ流されるだけじゃなくて、こちらからもはっきりした意思を持って菖蒲先生を抱き締め返す。
「さっ、咲耶ちゃん!あぁ!いいのね!お姉さんに委ねてくれるのね!やったわ!椛も茅も出し抜いてやったわ!私の勝ちよ!」
よほど寂しかったのか菖蒲先生は俺をさらにギュッと抱き締めてきた。悪い男に騙される前でよかった。もし菖蒲先生が変な男に騙されて大変な目に遭っていたらと思うとぞっとしない。そう思って俺達が抱き締めあっていると玄関の扉がドンドンドンッ!と物凄く乱暴に叩かれた。
その乱暴さからもしかしてもう菖蒲先生は変な男に騙されていて、借金取りが来たりしているのかと身構えたけどどうやら違ったようだ。
「あ~や~め~っ!あけろー!ごら゛ーーーっ!」
「この声は……」
とても聞き覚えのある声だ。ずっと昔から俺の傍に居たある人物の顔が浮かぶ。巻き舌であんな低い声を出していてもはっきりわかる。
「さっ、無視して続きをしましょう?」
「いや……、あの……、良いのですか?」
菖蒲先生は何事もなかったかのようにまた俺を抱き締めてきたけど、今でも扉がドンドンと叩かれている。恐らく近所でも相当騒ぎになるに違いない。
「いいのよ。どうせロックがかかってるから入ってこれないわ」
「いや……、えっと……、何か怖い音がしてるのですが?」
扉の外からチュイーーーンと何かが高速回転している音が聞こえてきている。これはやばいんじゃないのか?
「……ちょっ!馬鹿椛!何をする気!私の家を壊さないで!」
「うるせー!さっさと開けろごら゛ー!咲耶様がいるこたぁわかってんだよこの野郎!さっさと開けねぇと扉ぶっ壊すぞぉ!」
「わっ、わかったから!今開けるから待ちなさい!」
「はぁ……」
菖蒲先生は温もりに飢えているのかと思ったけど、こうして心配して来てくれる楽しい友人もいるんじゃないか。そういえば茅さんとも仲が良かったっけ。三人とも俺よりも大人な女性でとても素敵だし、仲も良いみたいだし三人衆ってところかな。
ちゃんと菖蒲先生にも良いお友達がいるみたいだけど、俺も少しくらいは菖蒲先生に温もりを届けることが出来るなら、これからはもうちょっとくらいは菖蒲先生と踏み込んだ関係を作っていこうか。




