第四百十八話「私のご主人様」
長谷川柚は九条家のメイドとして働き始めて一年目の新人メイドだった。九条家諸大夫である長谷川家は代々九条家に仕えて今風に言えばメイドや執事を多く輩出してきた。かつての長谷川家は一度絶家しており、九条家の遠縁によって再興された現在の長谷川家とは別物とも言える。
ただ公家にとっては絶家や再興はよく行われることであり、実質他人とも言えるほどの遠縁から再興されたり、絶家から相当の年数が経ってから再興されることもままある話だった。
また長谷川家が九条家の縁者が再興したと言っても、公家は全て藤原家に繋がっている、と言うような遠い縁の話であり、さらに長い年月も経っていることから長谷川家は九条家の一門としても扱われていない。柚も九条家でメイドとして働いているが、九条家の親戚や一門として見られることもなければ、本人もそんな風には思っていなかった。
藤花学園には堂上家から地下家、一般の家まで様々な出自の生徒が通っている。初等科、中等科、高等科まではほとんど区別もなく一緒に通っているが、大学になると色々と話が変わってくる。柚が卒業したのは藤花女子短大、メイド養成科であり、各諸大夫の子女がよく通っている科だった。
メイドに学歴は必要ないと言えばそうかもしれないが、メイドにも高度な学が必要になる。音楽鑑賞や観劇において説明やアドバイスを行ったり、主人が他の家の方と話す内容をフォローしたりしなければならない。あるいはスピーチや演説の原稿を考えることもある。最新のファッションをチェックし、主人の好みに合わせつつ流行も取り入れるなどのフォローもしなければならない。
真のメイドや執事の仕事は主人の生活全てのフォローであり、ただ掃除や洗濯をすれば良いだけの簡単な仕事ではないのだ。そんな要人のメイドを養成するための科が藤花女子短大メイド養成科である。
柚も九条家に仕えるためにメイド養成科を卒業し、晴れて九条家にメイドとして出仕することが出来るようになった。それから一年近くが過ぎ、基本的な仕事には慣れてきた頃に柚にとって大きな転機が訪れた。それは九条家のご令嬢、九条咲耶様付きメイドに大抜擢されたことである。
普通に考えてその家の子息子女付きのメイドや執事になるということは相当な大出世となる。もし嫡男のメイドや執事になれれば、次代のその家の中心、メイド長や執事長になれる可能性が格段に高まる。
ご令嬢の場合は結婚して出て行ってしまうので、ご令嬢付きになっても安泰とは言い難いが、それでも子女付きというのは他の普通のメイド達よりも一段も二段も上に見られる役職だ。主人からの信頼が厚い者でなければ令嬢付きになど選ばれるはずもなく、令嬢が結婚して出て行った後も主人から重用されることも多い。
地下家出身の一年目の新人メイドが、五北家である九条家のご令嬢付きになるなど本来はあり得ないレベルのことであり、選ばれた瞬間柚にはそれが理解出来なかった。
柚が初めて九条咲耶様を見たのは、咲耶お嬢様が初等科一年になられる頃、社交界デビューのお披露目の時だった。当時は柚もまだ高等科の学生であり、九条派閥のみが集まった内々のパーティーの席でのことだった。
九条家のご令嬢は何かしら問題がある。だから社交界デビューも遅く滅多に人前に現れない。そんな噂が一人歩きしていた。代々九条家に仕えている長谷川家である柚は幼少の頃から九条家に仕えるメイドになるために育てられてきた。主人がどのような人物であろうとも、自分はただメイドとしてお仕えするだけだと思っていた。その時までは……。
咲耶お嬢様がようやく遅い社交界デビューを果たされ、各地のパーティーでお披露目されていた時、柚は初めてそのお姿をお見かけした。そしてそのあまりの美しさに圧倒されたのだ。
初等科一年生の子供とは思えないほどにしっかりした作法、受け答え……。所作の一つ一つまで洗練されて美しく、誰かが書いた台本を読んでいるわけでもないのに大人顔負けのしっかりした受け答えをしていた。
もちろん作法がしっかりしていると言っても『子供にしては』という枕詞が付く。しかしそこらの大人以上にしっかりしているのもまた事実だった。何年も作法を習っている高弟のお手本かと思うほどにはよく出来ていた。初等科一年生の子供がこのレベルに達しているなど尋常ではない。
意思の強そうなキリッとした顔立ちに、はっきりと物を言う精神的な強さもある。ともすれば見方によっては気が強く勝気でわがままなお嬢様にも見える。むしろ大半の評価はそちらに流れていた。
ただ……、柚は将来九条家にお仕えすることはほぼ決まっている。その自らが仕えるかもしれない将来の主人の勇姿を見て別の感情を抱いていた。いつかまるであの『お嬢様の中のお嬢様』のような九条咲耶様にお仕えすることになるかもしれない。その時に自分はきちんとお仕え出来るようにしっかり勉強に励まなくてはならない。
長谷川家の娘としてだけではなく、柚個人としても、いつかあのようなお嬢様にお仕えしたいと強い憧れを抱くようになっていた。
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晴れてメイド養成科を卒業し九条家にメイドとしてお仕えするようになって……、柚の咲耶お嬢様を見る目はほぼ正反対というほどに変わってしまった。
社交界デビュー以来、九条派閥のパーティーなどで何度かお見かけしたことがある。その時は凛々しい表情に年々完璧になっていく洗練された所作で、まさにご令嬢の中のご令嬢だと憧れを抱いていた。
世間の評価では気が強いとか、わがままだとか、他人に容赦がないだとか、敵対者を徹底的に葬り去るなどと言われていたが、柚にとってはご令嬢などそれで当たり前ではないかと思っていたのだ。だが……、実際に九条家に出仕するようになってから見た咲耶お嬢様はそういった世間のイメージとはまったくかけ離れた人物だった。
パーティーで見せる意思が強く気の強そうな顔は家ではぽややんと緩み、いつもふわふわぽやぽやとされている。家人達に対しても礼儀正しく、理不尽な要求をされるどころかこちらがミスをしても笑って許されてしまう。
作法は家でも一切隙がなく完璧にその身に染み付いていることはよくわかるが、隙がないのは所作だけであり本人は少し、いや、かなりの天然で突拍子もないことを言い出したり行ったりすることもままある。
外から見ていた時は冷静、冷徹、冷酷な完璧女帝と思われていた咲耶お嬢様は、中に入って見てみれば、とても親しみやすくしかも心優しい。その上少しおっちょこちょいで、天然で可愛いことをしてこちらを悶えさせてくるという庇護欲を掻き立ててくる。
家人達も皆咲耶お嬢様を温かく見守っており、あの方のためならばどのようなことも躊躇うことなく全力でフォローする。外から見える完璧なカリスマ性とは違い、内から見るとこの可愛い天使は果てしなく人を誑し込んでしまう究極の人誑しだ。
柚にとっては昔に憧れていた完璧なるお嬢様とは別人のように見えたが、しかし一歩外に出られたならばその完璧なるお嬢様の仮面も見事に纏っておられる。ただ親しい人間にだけはその天然な本性を曝け出し、ますます人を虜にしてしまうだけだ。
だから柚の咲耶お嬢様への評価が下がったとか、思ったのと違うと失望したりはしていない。むしろ九条家にお仕え出来て、咲耶お嬢様のお傍に居られて幸せだとすら感じている。
そんな生活を続けているうちに、柚はさらなる秘密に気付いてしまった。いや、この家に仕えている者は全員知っているが見て見ぬフリをしているだけだが……。
ある時、柚が脱衣所の洗濯物を回収しに行った際……、咲耶お嬢様が入浴しているはずの浴場を脱衣所から覗いている者の姿を見かけた。それは先輩メイドの一条椛だ。年齢も年上で短大も行かず高等科卒業後すぐにメイドになった椛は柚よりもかなり先輩だ。その椛が脱衣所から浴場を覗いていた。
しかも出てきた咲耶お嬢様の身の回りの世話をして体を拭いていたが……、必要以上に胸、腰、お尻などを撫で回している。明らかにあれは拭いているのではなく撫で回している。その時の椛の表情は目じりがいやらしく垂れ下がったエロおやじそのものだった。
さらに洗い物を回収しても咲耶の下着などだけしょっちゅうなくなっている。それを不審に思って様子を探っていると椛が盗んでいった場面を何度も目撃した。
咲耶お嬢様の部屋の様子もこっそり覗いてみれば……、椛はベッドの足元へと移動して下から完全に咲耶お嬢様のことを盗み見ていたのだ。むしろ堂々と覗いているとすら言える。それなのに咲耶お嬢様は特に気にされた様子もなく一条椛のやりたいようにやらせている。
決定的だったのが椛が咲耶お嬢様を押し倒して圧し掛かっていたことだ。そういうことを何度もしているのを柚は目撃してしまっていた。つまりあの二人は『そういう関係』だったのだ。
何故一条家のご令嬢が九条家のご令嬢のメイドなどしているのか。九条家と一条家の立場の違いを示すためにそのようにされているなどと噂されていたが、実際は二人は禁断のにゃんにゃんだったということを柚は知ってしまった。だから咲耶お嬢様は椛に対してあれほど無防備だったのだ。
それから柚は椛と咲耶お嬢様の禁断のにゃんにゃんを何度も目撃して悶々とした日々を過ごしていた。そんなある日突然柚に咲耶お嬢様付きになるように指示があった。
いくら長谷川家が九条家の遠縁といっても、自分のような新人メイドが九条家のご令嬢付きのメイドに選ばれるなどあり得ない。それに咲耶お嬢様は椛と禁断のにゃんにゃんだ。そんな場所に自分が割って入っても針の筵で居た堪れない。
恐らくもうすぐ中等科に上がられる咲耶お嬢様はこれから何かと大変になるだろう。そのために椛一人ではフォローし切れないからこその人員補強であると思われる。新学年、新学期からいきなり始めたら何かと失敗もあるであろうことから、中等科に上がる前に慣らせる意味も含めてこの時期にお嬢様付きにされたのだろう。
それはわかる。わかるがわかりたくない。禁断のにゃんにゃんの二人の間に挟まるというのは地獄だろう。遠くから二人の禁断のにゃんにゃんを見ている分には良いが、自分がそこにお邪魔虫として挟まるのは最悪に決まっている。そしてお嬢様付きに任命されたその日にすぐに問題が起こった。
その日いきなり咲耶お嬢様の帰りの予定が変更され、待機していると椛が送迎の車を奪って正親町三条家へと乗り込み、大きな騒ぎを起こして滅茶苦茶にしてしまった。遠くから見ている分には良いが自分がこんな事件の当事者になるなどお断りしたい。
だが……、柚の本当の転機はここからだった。
「しゃっ、しゃくやお嬢しゃま……」
「柚っ!?しっかりして!」
正親町三条家で見た咲耶お嬢様はいつも以上にキラキラと魅力的で、激しい動悸が収まらず……、柚は気を失ってしまった。
大失態を演じた自分はすぐにお嬢様付きを外されるだろう。そう思っていたのに簡単な事情聴取をされただけでお嬢様付きを外されることもなく、そのままずっとそのお役目をいただいたまま半月ほどが過ぎた。
三月に入り、もう少しすれば初等科卒業、中等科入学を控えた頃、柚は自分のこの妙な気持ちが何なのかわからず一人悶々としていた。
お役目で咲耶お嬢様のお傍に行けば……、何故かいつもこの胸の動悸が激しくなる。椛と親しくしているのを見ると胸がギュッと苦しくなる。これは一体何なのか。似たものを知ってはいるがそれがそうだとは自分の中では認めていなかった。
柚も短大まで卒業した年頃の娘だ。当然これまで恋をしたことくらいはある。もちろん恋といっても遠くから見て憧れるくらいで男性とお付き合いしたこともない。地下家とはいえ貴族の端くれだ。自由恋愛で勝手に結婚することなど許されず、ぼんやり遠くから憧れる男性に子供のような恋をしたことはあっても、本気で誰かとお付き合いしたことすらない。
柚が今感じているコレは……、未だかつてないほどに本気の……、恋ではないのか。
自分でも薄々それはわかっているが、仕えるべき主に、それも同性で、まだ中等科にも上がっていない子供にそのような感情を抱きつつあるなど認めたくなくて、気付いていながら気付かないフリを続けていた。しかしそれも限界に達する。
「咲耶お嬢様……。あぁ!咲耶お嬢様ぁぁぁ~~~っ!」
咲耶のベッドメイキングにきた柚はとうとう堪りかねて、そのベッドに入り、布団や枕を抱き締めてゴロゴロしていた。
「…………」
「…………」
そしてゴロゴロしていた柚と、ベッドの下から這い出してきた椛の目がばっちり合ってしまった。
「いっ、いいい、一条先輩!?ちがっ!これは違うんです!」
「…………」
何が違うというのか。言っている自分でも何を言っているのか理解出来ない。主人である咲耶お嬢様のベッドに潜り込み、その布団と枕を抱き締めて転げまわる。完璧に変態だ。何の言い訳のしようもない。
「いいのですよ長谷川。いいのです……。それが全ての人間のあるべき姿なのです。全ての女性は咲耶様の虜になる運命なのですよ」
「はぁ……?」
何か生温かい目で見られながらそんなことを言われても柚も首を傾げることしか出来ない。
「私の部屋へ来なさい長谷川。貴女がこれからすべきこと、進むべき道を教えてあげましょう」
「えっと……」
しかし柚に断る術はなかった。このような場面を見られてしまったのだ。言い訳のしようもない。椛に連れられて向かった部屋で柚は言葉を失った。
「なっ!?こっ、これは……」
部屋には咲耶グッズが溢れていた。咲耶ポスター、咲耶Tシャツ、咲耶ボールペン。そしてよくなくなっていた咲耶お嬢様の下着などの衣類や、使用済みのタオルなど……。ありとあらゆる咲耶グッズがそこには置かれていた。
「長谷川……、貴女も咲耶様に全てを捧げなさい。主人が望むのならば……、身も心も全て差し出すのが真のメイドの務めでしょう?」
「それは……」
主人によっては自分好みのメイドを囲み、お手つきにしてしまう者もいる。それは決して珍しいことではなく、近年では減ってきたとはいっても今でもそういう関係の家もある。
「貴女が咲耶様に惹かれていることはわかっています。そしてそれは当然なのです。咲耶様のお傍にお仕えして、咲耶様の真の姿を知っても惹かれない者などいないのです。だから長谷川……、貴女は咲耶様に全てを捧げなさい」
「えっと……、ですが……、それでは一条先輩と咲耶お嬢様の関係に水を差してしまうのでは?」
柚はもう自分が咲耶お嬢様に惹かれていることを誤魔化す気はなくなっていた。こんな部屋を見せられて、それでもその気持ちがわかってしまうのだ。むしろ自分もこの部屋にあるグッズの数々が欲しい。それはつまり自分はもう咲耶お嬢様の虜にされてしまっているのだとはっきりと自覚させられた。
それは良い。それは良いが、恐らく禁断のにゃんにゃんであろう椛と咲耶お嬢様の間に、自分などが挟まって良いのだろうかと、それで二人の関係を壊してしまわないだろうかということが心配だった。
「良いのです。咲耶様は一人の相手で収まるお方ではありません。すでに何人も囲われている咲耶様に、新たに一人囲う愛人が増えたからといって何が変わるというのですか?ただ愛人同士の力関係は変わります。長谷川も先日見たでしょう?他の家の者も咲耶様を狙っているのです。そのような不埒な者から咲耶様を守ることこそが私達の使命ではありませんか?」
「私達の……、使命……」
少し事態についていけず揺れていた柚の瞳は、悪魔の囁きに誑かされて一つの方向へと誘導されていた。
「私達が咲耶様をお守りする。その対価に少しだけ私達のことも愛していただく。それだけのことなのですよ」
「咲耶お嬢様に……、愛していただく……」
柚の喉がゴクリと鳴った。堕ちた。椛の顔は悪魔のようにニヤリと歪んだ。しかし柚はそれに気付かない。
「これからは私達が協力して咲耶様をお守りしましょう」
「はい!一条先輩。いえ!一条師匠!」
柚は完全に椛の口車に乗せられた。
「一条師匠……。語呂が悪いですね。椛と呼んでください。私もこれからは長谷川ではなく柚と呼びます」
「はい!椛師匠!」
こうして……、新たな師弟関係が結ばれた。椛のお目付け役を期待された柚は早々に椛に取り込まれてしまった。だがそれは頼子よりも椛が優れていたというわけではない。柚がこんなにあっさり椛に取り込まれてしまったのは咲耶に心酔し、惚れ、愛してしまっていたからだ。
椛は柚の咲耶への想いを利用して取り込んだだけであり、椛そのものへの尊敬を勝ち取ったり、頼子を裏切らせたわけではない。柚はあくまで敬愛すべき主人、咲耶お嬢様のためと信じて椛の提案に乗ったのだ。その見返りとして少しだけ、ほんの少しで良いから咲耶お嬢様に愛されたいという想いだけに突き動かされていた。
これから中等科に向けて、九条家内でのほんの小さな変化、しかし確実な変化が起こっていた。




