第四百十二話「配り終えた?」
喫茶店を出て蕾萌会に戻った俺は菖蒲先生とも別れて次なる目的地へと移動する。次の相手は今までの相手と違って一筋縄ではいかない相手だ。しかも家族以外で唯一チョコレートを渡す男性だから緊張してしまう。緊張してあれこれ考えているうちに車は目的地へと到着した。早速降りていつも通りの行動から入る。
「おおっ、咲耶、今日は少し早いな。どうした?」
「あの……、師匠……」
着替える前に先にバレンタインチョコを渡してしまうということも考えたけど、どうしても踏ん切りがつかずに先に着替えてしまった。着替えている間も色々と考えていたんだけど、なかなか考えも纏まらず、踏ん切りもつかないまま時間だけが過ぎ、包みを持ったまま道場へと入った。
師匠はいつも通り上座に座ってじっとしていたけど、いつもより早い時間に来た俺に優しい笑みを向けてくれていた。まるで本当のおじいちゃんが孫の訪問を喜んでくれているかのようだ。
「えっと……、師匠!いつもありがとうございます!これは日ごろの感謝の気持ちです!ハッピーバレンタイン!」
「…………」
色々口上やスピーチを考えていたけど結局纏まらず、良い言葉も浮かばなかった。だから……、九条家のご令嬢、九条咲耶としてではなく、ただ師匠の弟子、九条咲耶として、ありのままの俺の言葉を、何も飾らず素直に口にした。
本当ならこういう所も百地流の作法に含まれている。今の俺は百地流の門下生としてはきっと出来が悪いだろう。表の百地流古舞踏の門下生ならばこういう時にもきちんとした言葉遣いで、優雅に振舞うべきだ。でも今の俺にはそんな余裕もない。
師匠には怒られるかもしれないけど、これが俺の精一杯であり、そしてまた本心だ。気取った言葉で飾るよりも、無骨な言葉でも思ったままに伝えたい。
「ふむ……。そうか……。うむ……」
師匠は言葉少なに包みを受け取った。もしかして俺が百地流の門下生として相応しくないと思われたかもしれない。そう思って恐る恐る片目を開けて師匠の方を見てみれば……、めっちゃくちゃ笑ってる!?
えっ!?何これ?こんな笑顔の師匠を見たことがない!何だこれ?何なんだ?
「むっ?二つ入っておるようだが?」
「えっ……、あっ!えっとですね……。師匠の好みがわかりませんでしたので、片方はあんころ餅です。もう一つの方はチョコレートです」
受け取った師匠は包みの中に二種類の箱が入っていることに気付いたらしい。何かお年寄りがチョコレートを食べるというのがどうにもイメージに合わなかった。だからあんころ餅も用意した。師匠があんころ餅を食べるのは知っていたからな。
師匠だけ特別にあんころ餅とチョコレートの二種類になっている。チョコレートは溶かして型に流して固めただけだし、あんころ餅も完全手作りというよりは、簡単に手作り出来るセットを買ってきて作っただけだけど……。
「うむ……。うむ……。そうか……。さぁ、咲耶はもう先に始めておきなさい。わしはこれを仕舞ってくる」
「はい……」
そう言って立ち上がってクルリと後ろを向いて道場を出て行った師匠の目元は……、今まで見たことがないほどに垂れ下がっていた。何かこの前の腰痛の一件から師匠が随分甘くなった気がする。前までは厳格な師匠という感じだったけど、最近はまるで孫と遊んでいるおじいちゃんのように思える時がある。
いや……、まさかな……。
俺は会ったことがないけど、師匠にはお子さんもお孫さんもいる。百地流の正統後継者も別にいる。その後継者は恐らく百地流の全てを修めているはずだ。俺のように今後も百地流を続けるけど、全てを修める可能性は極めて低い弟子と違って、全てを修めた正統後継者や、各分野のみを伝承した分派の後継者がちゃんといる。
俺が最後の弟子だからと厳しくも優しく育ててくれているんだろうけど、それで勘違いしてはいけない。師匠の跡を継いでいる者はもういるし、本当のお子さんもお孫さんもいる。俺はあくまで師匠の最後の弟子だ。そんな俺が出来る師匠孝行は、せめて俺が出来る範囲だけでもきちんと百地流を修めることだけだろう。
それを思い出した俺は、腰痛の一件以来心に誓った通り一生懸命修行に打ち込んだのだった。
~~~~~~~
百地流の修行を終えて家へと帰ってきた。残るチョコレートは四つ。ここからはさらに気合を入れていかなければならない。
「ただいま戻りました」
「おかえり咲耶」
「おお、咲耶。戻ったか」
今日はすぐに自室へ向かわずに居間へと向かった。すると兄と父が居間で寛いでいた。兄はいつもと変わらない様子だけど父は明らかにソワソワしている。そして俺が持っている包みをチラチラ見ていた。とてもわかりやすい。
「お兄様、ハッピーバレンタイン」
「ありがとう咲耶」
兄が座っているソファの前に回って膝をついて目線を下げてから兄にチョコレートを渡す。兄は特にいつもと変わった様子もなく爽やかなイケメンスマイルで軽く受け取った。モテまくっている兄からすれば妹からのバレンタインチョコなんて大してうれしくもないものなんだろう。
俺は前世でそんなにモテたわけじゃないから兄の気持ちはさっぱりわからないけど、少なくとも今生のように何百個も何千個もチョコを渡されていたら、身内からの一個や二個が増えても大して気にも留めないんだろうとは思う。
「……」
「……」
そして次に……、父の方を向いたら父はニッコニコでこちらを見て待っていた。これは自分も貰えると思って待っている。父は実にわかりやすい。兄は何を考えているかわからない節があるけど一体誰に似たんだろう?母かな?父はこの通りわかりやすすぎて、こんな調子で九条グループの総帥が務まるのかと心配になる。
「お父様にはありませんよ?」
「………………えっ!?なっ、何故だ?咲耶!?私が何かしたか?そうか……。お小遣いが欲しいのか?何かプレゼントが欲しいのか?咲耶、私はどうすればいいんだい?」
うわぁ……。これって完全に駄目親父の典型ですね……。
別に酒に溺れるとか、博打に嵌るとか、仕事もせず家にお金を入れないとか、そういう駄目親父じゃない。でもこれも一種の駄目親父だ。子供は甘やかせば良いというものじゃない。でも父親は娘に甘くて、とにかく甘やかしたり、何かしてあげれば良いと思いがちというか、とにかくお金や贈り物で気を引こうとしてしまう。そんな環境で育てられた子供がまともに育つはずがないだろう。
「お父様、そうやってすぐに人の心をお金や物で釣って歓心を買おうとするのは間違いです。それは子育てで一番してはいけないことですよ」
「うぅ……」
何か情けない顔になっている父……。これが世界に名を馳せる九条グループの総帥なのか……。
「お父様にないと言ったのは嘘です。ちゃんとありますよ」
「おっ!おおっ!ありがとう咲耶!お返しに何でも買ってあげるよ!」
だからお前そういうとこやぞ。
「ですからそういう所が駄目だと言っているのです。お父様……、もっとしっかりしてください。お父様は九条家のみならず、九条グループの全ての関係者に対して責任あるお立場でしょう?」
「すみません……。申し訳ない……」
何でこの父は俺のような小娘に叱られて小さくなっているのか……。近衛家の面々は我が強すぎるけど父は父で経営者としてどうなんだ?
「まぁまぁ咲耶。そのくらいで許してあげなよ。父さんは咲耶に対してはこうだけど、世間では『鬼九条』とまで呼ばれてるんだよ。これ以上厳しくなっちゃったら世間の人達が困ってしまうよ」
「こっ、こらっ!良実!咲耶に何てことを言うんだ!?パパはそんな鬼なんかじゃないんだぞ~?な?」
えぇ~~~っ!?何だその微妙に格好良い異名は?ちょっとお腹のでっぷりしている狸親父が『鬼九条』?イメージにまったく合わない……。
「はぁ……。えっと……、お父様、ハッピーバレンタイン」
ちょっと父に意地悪というか、あまりに期待した顔で見ているから少しからかったら変なことになってしまった。興が削がれたのでもう正直に父にチョコを渡す。
「おおおおおおおおっ!!!!ありがとう!ありがとう咲耶!パパは感激したぞ!」
「え~……、まぁ……、喜んでいただけたならよかったです……」
本当に無邪気に満面の笑みを浮かべている。しかも大はしゃぎでドンドン跳ねている。子供かと言いたいけどそのはしゃぎように何かこれ以上言う気にもなれず、兄と父にチョコレートを渡して居間を出た。
母は居間に居なかったので家人に母の居場所を聞いてからサロンへと向かった。サロンで母は一人静かにお茶を楽しんでいたようだ。灯りもほとんど落とし、窓から差し込む月明かりだけの少し暗いサロンで、母は窓際に座っていた。…………とてもミスマッチだ。
上位の家は美男美女が多い。それは一種の定向進化とも呼べるかもしれない。もちろん学説として定向進化が正しいかどうかとか、俺が使っている意味が学説の通りという意味ではなく、一種の掛け合わせの問題だ。
人間が足の速い馬同士を掛け合わせていくことで、馬の走る速度というのは歴史から見ればほんの僅かな間にとんでもなく速くなった。これは人間にも当てはまる。
美醜の基準が何であるかはともかく、仮に不細工とその時代で認識されている顔や体型の人間同士を交配させていけば、どんどんその不細工と認識されている人間が生まれてくるだろう。逆に美男美女と認識されている人間同士を掛け合わせ続ければ、当然その家系では美男美女と認識されている者が生まれる可能性が高くなる。
ただこの美醜の基準は時代によっても、地域によっても変わるものであり、何か一つの絶対的な基準があるわけではない。今美人と言われている顔も昔は不細工だと思われていたかもしれないし、これから先、未来では不細工と思われるようになるかもしれない。逆に昔に美人だと言われていた顔も、現代に連れてくれば現代の価値観や美意識にはそぐわないかもしれない。
母は美人ではあるけどそれは所謂和風美人だ。西洋風の美人とは違う。歴史ある和風の屋敷なのに、サロンは洋風であり、洋風のおしゃれな高い椅子とテーブルに和服を着た和風美人が、物憂げにティーカップでお茶を飲みながら外を見ていたら……、どう考えてもミスマッチだと思うだろう。
「何か用ですか?」
「あっ……、いえ……、はい……」
サロンを覗き込んだまま止まっていた俺に向かって、母はこちらを向くこともなく外へ視線を向けたまま話しかけてきた。サロンの先は全面ガラス張りのテラスになっており、光りや風が取り入れられるようになっている。だからサロンも開け放たれていることが多く、今日も俺が開けたわけではなく最初からサロンの出入り口は開放されていた。
開いていたサロンを入り口から覗いていると母に声をかけられたわけで、確かにノックもせず勝手に開けたわけではないけど、お行儀としては悪かっただろう。人がいる部屋を黙って覗いていたわけだからな。
「えっと……、こちらを……。日ごろお世話になっているお母様に……。ハッピーバレンタイン」
「…………そうですか。それではお茶請けとしていただきましょう」
俺がサロンに入って母にチョコレートの包みを差し出すと、ふっと笑って受け取ってくれた。何かその表情がいつもより妙に丸く見えた気がする。それはほとんど月明かりのみのサロンの雰囲気のせいか。それとも母に何かしらの心境の変化があったからなのか。
いつも厳しくも俺を真っ当な道に導いてくれる母が、今日は何やら優しく微笑んでいて……。
「咲耶も一緒に飲んでいきなさい」
「はい。それではご一緒させていただきます」
特に何か話すわけでもなく、母と並んで窓際の席に座って外を眺める。たまに母の方を見ても、母はいつもの厳しい表情らしくなく少し微笑んでいるかのような表情で、ただ静かに庭を、そして月を眺めているだけだった。
だから俺も何も言わず、ただ母の前に座って一緒に外を眺めていたのだった。
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これで二十四個のバレンタインチョコを配り終わった。残るは一個……。最後の一個だ……。
食事も入浴も終わって、自室に下がって心を落ち着ける。何か緊張してしまうな……。
「椛……」
「はい、咲耶様」
俺が呼びかけると扉の前にずっと立っていた椛がすぐに返事をしてくれた。それだけではなくすぐに俺の前まで来てくれる。俺が日ごろのお礼をするためにチョコレートを用意したのに、その相手を呼びつけるような形になってしまった。
椛は普段は扉の前やベッドの足元に待機しているけど、俺が呼んだらすぐに傍まで来てくれる。本来なら贈り物をする俺の方から出向くべきなんだろうけど……、うっかりいつものように椛を呼んでしまった……。
「椛……、いつもありがとう。これは感謝の気持ちです。受け取ってください」
「………………」
チョコレートの包みを椛に向かって差し出す。でも何の反応もない。もしかして受け取ってもらえないんだろうか?そう思ってちょっとだけ目を開けて椛の方を見てみれば……。
「……あれ?えっ?まっ、まさか……」
「………………」
「こっ、こいつ……、死んでいる……!」
椛は立って目を開けたまま、その活動を完全に停止させていた。




