第四百八話「槐も手遅れだった……」
鷹司家のパーティーの日、槐は少し複雑な気分のまま車に乗って九条家へと向かっていた。もちろん咲耶とペアのパートナーとなってパーティーに参加出来ることは大変喜ばしい。浮かれた気分のまま踊りだしたいくらいの気持ちだ。だが今はそれだけではない。
まず、初等科の大規模パーティーはこれが最後となる。もう二ヶ月もすれば初等科を卒業してしまう。初等科を卒業してもほとんどの生徒は中等科に繰り上がるだけで、中等科から入学してくる外部生が増える以外はほとんど変わりはないだろう。
しかし初等科から中等科へ変わるというのは、同級生達がほとんど変わらず外部生が少し増える程度、というだけでは済まない。いくら顔ぶれがほとんど同じであろうとも、少し外部生が増えるだけであろうとも、生徒達にとっては大きな転機となるのだ。
小学生が中学生になる。中学生が高校生になる。高校生が大学生になる。大学生が社会人になる。そういう人生の転機が訪れた時、人の心構えや精神的にも大きな影響を与える。今までは初等科で『ただの子供』だった同級生達も、中等科になれば『思春期の少年少女』へと変わったという自覚を持つだろう。
今と数ヶ月先とで実際に心や体がそう大きく変わるということはない。しかしその『自覚を持つ』ことや『心構えが出来る』ということは、心や体の変化以上に大きな変化を齎す。
だがそれだけではなく……、最近の伊吹の様子は明らかにおかしい。まるで現実が見えていないというか、夢の中の世界に生きているかのように現実離れしたことばかり言う。
近衛伊吹が九条咲耶のことを好きなのは間違いない。親友である槐でなくともそんなことは公然の秘密だ。だがその伊吹がある時からおかしくなりはじめた。伊吹が咲耶と結ばれて、槐とも一緒に三人で仲良く暮らしていく、というような夢想を口にするようになったのだ。
槐は伊吹にも言っていない秘めたる想いがある。槐もまた九条咲耶のことが好きだ。伊吹と一人の女性を奪い合うことに戸惑い表に出してこなかったが、自分の心を偽ることは出来なかった。
伊吹と槐が咲耶を奪い合い、どちらかが咲耶と結婚する。それならわかる。だが伊吹が言っていることは、自分が咲耶と結婚し、槐ともこれまで以上に仲良く共に暮らしていくというのだ。そんなことが出来るはずがない。それに伊吹の自分を見る目が時々おかしい。
同じ女性を愛し、奪い合えば、決着がついた後に二人の関係が元通り親友に戻れるとは思えない。彼女を奪われた方はずっとしこりが残るだろう。何より……、伊吹が自分を見詰めている時、頬を赤らめて熱い視線を送ってきたり、手を添えてきたり、抱き寄せられたり……。
「ああああぁぁぁぁっ!」
この先は思い出したくもないとばかりに槐は頭を掻き毟った。修学旅行で一緒に大浴場に入った時の伊吹の自分を見詰める視線を思い出して全身に鳥肌が立つ。
「伊吹がおかしくなったのは九条さんのせいかと思ったけど……、もしかして伊吹って最初から……?」
確かに一時期自分まで咲耶に唆されて少し変な気持ちになっていた時もあった。でも今はもう普通だ。普通に戻っているはずだ。伊吹もその呪縛から解かれたはずなのに、伊吹のそれは直るどころか下手をすると悪化しているのではないかとすら思える。
伊吹が言う、『俺と咲耶が結婚して、槐とも一緒に暮らす』というのは……。
「うぅっ……」
ブルルッと体を震わせた槐はキュッと縮まったお尻を庇うように手を添える。もしかして伊吹はどちらでもイケる口ではないのか。そして『三人で一緒に暮らす』というのは伊吹のハーレムを作るということではないのか。その時、自分が一体伊吹にどうされてしまうのか。その嫌な想像にブンブンと首を振る。
「そんな……、そんなことあるはずが……」
ないとは言い切れない。この言い知れぬ気味悪さは永遠に拭えない。少なくとも伊吹があの熱い視線を自分にも送ってくるのをやめない限りは……。
『槐坊ちゃま、間もなく九条家に到着いたします』
「わかったよ」
インターホンから流れてきた言葉に答えてからシートに深く座り直す。色々とどうにかしなければならない。でなければ……。それを想像した槐はもう一度ブルリと体を震わせてから、嫌な思考を振り切ろうと今日これからのことを考え始めたのだった。
~~~~~~~
「御機嫌よう、鷹司様」
「…………」
美しい。それ以外の言葉が思い浮かばない。
九条家の屋敷に到着した槐は表で待ってくれていた咲耶に出迎えられた。エメラルドグリーンのドレスに、日ごろと違い薄っすら化粧を施している咲耶の姿に、『美しい』という言葉以外の全ての言葉を忘れてしまったかのように他の言葉が出てこなかった。
スカートを摘み上げ、足を曲げて頭を下げる。カーテシーなど見慣れているはずの槐は、しかしそのあまりの美しさに心を奪われてすぐには言葉を返せなかった。
「…………鷹司様?」
「……あっ!」
そのあまりの美しさに見惚れていると、咲耶が不思議そうな顔をして小首を傾げていた。槐は『しまった』と思って慌てて口を開いた。
「やぁ九条さん。ドレス、似合ってるよ」
「ありがとうございます、鷹司様」
いつもならもっと気の利いたことが言えるだろう。他の相手にならペラペラと思ってもいない美辞麗句を並べられたに違いない。しかし……、咲耶を前にして槐は槐らしからず、まともに話すことも出来なくなってしまっている。だが驚くことはない。九条咲耶を目の前にすれば槐はいつもこうなのだから……。
咲耶は学園で制服を着て黙っていれば、その自信に満ちた表情と、少し勝気に見える顔立ちから気が強いと思われがちだろう。実際そう思っている生徒が大半に違いない。しかし付き合いの長い槐は知っている。九条咲耶は世間に思われているほど気が強いわけでもなければ、勝気なわけでもない。どちらかといえばおっとりしていて少し、いや、かなり天然な所がある。
その能力はずば抜けており、頭脳も、身体能力も、洞察力も、知識も、何もかも同世代の人間とは思えないほどに優れている。その部分だけを見て自信家で、勝気で、気が強く、女王のように振舞っていると思われているが、今のように普段の微笑んでいる顔はとても可愛らしいのだ。
「さぁどうぞ、お嬢様」
「ありがとうございます」
手を取って車へとエスコートすると美しい笑顔でにっこり微笑んでくれる。こんな顔を見せられたら男などそれだけで勘違いしてしまうだろう。何しろ槐自身ですら勘違いしてしまいそうなのだから……。
鷹司槐ともあろう者がカチコチに緊張しているのを悟られないように、他愛無い世間話をしながら自分の気を紛らわせる。そうでもしていないと、黙って咲耶と車の中で二人っきりだと意識してしまったら何も話せなくなってしまう。
「……ところで九条さん」
「はい?」
「近衛系列の芸能事務所に所属したんだって?」
「えっ?えぇ……、まぁ……」
何気ない会話をしている時に、ふと思い出したことを聞いてみた。伊吹は何も言わないが槐の情報網によって咲耶達のバンドメンバーが、近衛系列の芸能事務所と契約を交わしたと知ったのだ。咲耶は近衛家や伊吹に対して距離を取っていると思っていたが、まさか事務所と所属契約を交わすというのはどういうことなのか。
「九条さんは伊吹と結婚するつもりなの?」
どうして自分はそんなことを言ってしまったのだろうか。もしこれで『はいそうです』と答えられたらきっと自分は二度と立ち直れないだろう。それでももう言ってしまった言葉はなかったことには出来ない。
「はぁっ!?何ですかそれはっ!?そんなこと絶対にあり得ません!!!…………あっ」
しかし……、返ってきた言葉に槐はうれしくなった。親友である伊吹が振られているというのに笑って良いものではない。ないがどうしても顔がにやけるのを止められない。
「そっか……。うん。わかったよ」
ここ最近の伊吹の奇行に悩まされていた槐だったが、今日は久しぶりにとても上機嫌になったのだった。
~~~~~~~
パーティー開始前の最後の段取りのために槐は忙しかった。咲耶には特別に用意した控え室で寛いでもらっている。九条家から連れてきたメイド達もいるから退屈はしていないと思うが、いつまでも放っておかれては失礼で不機嫌にもなるかもしれない。慌てて段取りを済ませた槐は控え室へと向かった。
「ごめんね九条さん。お待たせ。そろそろ出迎えに出ようか」
「はい、鷹司様」
「――ッ!」
ノックをしてから入った控え室で、槐は固まってしまった。化粧やドレスを直した咲耶に再び見惚れてしまったのだ。咲耶の化粧は他の者達と違いかなり控えめにされている。それでも普段学園で見慣れているすっぴんと違い薄っすら乗せられた化粧はいつもとは違う咲耶の魅力を引き立たせていた。
それからの槐は入り口で招待客達を出迎えていたはずだがほとんど記憶がなかった。気付いた時にはもうパーティーは始まっていたのだ。自分は一体いつの間に挨拶を終えたのか。
「それじゃ九条さん、一緒にパーティーを回ろうか」
「…………え?」
いつもなら……、挨拶が終わると咲耶は自分の取り巻き達の所へ行ってしまう。それは何も鷹司家のパーティーの時だけではなく、どのようなパーティーの時もそうだ。それがわかっていながら、それでも槐はそう誘ってしまった。
言ってから自分でも『しまった』と思った。どうせ断られるだろう。断られるのが辛いから今まであまり距離を詰めすぎずに、あまり興味がないかのような顔を装ってきたのだ。それなのに今日の自分はどうかしている。
最近次第に『女の子』から『女性』へと変わりつつあり、その魅力が何倍にも何十倍にも、いや、何千倍にも膨れ上がっている咲耶に惑わされっぱなしだ。
「くっ……。わかり……、ました……」
「本当?よかった。それじゃあ行こうか」
その答えを聞いて、槐は今にも踊りだしそうになるほど舞い上がっていた。しかしそんな姿を咲耶に見せるわけにはいかない。出来るだけ平静を装いクールに肘を出す。すると本当に咲耶がその自分の肘に手を回してくれたのだ。それだけで槐の脳内には変な物質がドバドバ出ていた。
今なら空も飛べる気がする。
槐は舞い上がったまま、まさか引き受けてくれるとは思ってもみなかった咲耶を連れて招待客達のところへと向かった。とにかく見せびらかしたい。今自分は咲耶と腕を組んで歩いている。確かにパートナーのペアならばいつもそうしているが、今回はいつもならさっさと離れてしまう咲耶がいつまでも自分の隣に居てくれているのだ。
パーティーの招待客達も当然そのことを理解しているだろう。咲耶は最低限のパートナーの義務を果たせば、相手が誰であろうと離れてしまう。その咲耶がパートナーの務めを終えても一緒に腕を組んで歩いてくれているということがどれほどのことであるのか。槐はもう有頂天で叫んで踊って暴れたい気分だった。
「おっ、おいっ!咲耶!どういうことだこれはっ!?槐!説明しろ!」
そこへ……、今にも泣きそうな情けない顔をした伊吹が現れた。
「搦め手ばかり使っていると九条さんに嫌われるってことだよ。まぁ伊吹は単純だから搦め手を使ってるのは靖子さんなんだろうけど……。そういうことばかりするから九条さんにますます避けられるんだよ。僕のように誠実に接していれば想いは伝わるってことだよ」
「なっ!?」
槐は今有頂天の極みだ。だから日ごろは思っていてもまず言うこともないようなことをスラスラと言ってしまった。
驚いている伊吹の顔を見てもわかる。先の芸能事務所の所属契約も近衛靖子の計略によるものだろう。だから咲耶は車の中であれほど露骨に、はっきりと否定したのだ。
伊吹は良くも悪くも真っ直ぐすぎる。そんな伊吹が搦め手を使ったり、相手を罠に嵌めたりするとは思えない。伊吹ならば正面から近衛家を笠に着て脅して言うことを聞かせるくらいが関の山だ。そんな方法で咲耶が契約書にサインするとは思えない。咲耶がサインせざるを得ない状況になったということは誰かしらの謀略があったに違いない。
だがそうやって謀略を駆使して追い詰めたり、囲い込んだりしようとしても、咲耶の気持ちはますます離れていくばかりだろう。伊吹のやり方は最悪だが、靖子のやり口も賢いとは思えない。相手を不快にさせて、強引に進めても余計反発されるだけだ。
それに比べて自分の何とスマートなことか。だからこそこうして今日も腕を組んで、パートナーの務めが終わっても一緒にパーティーを回ってくれているのだ。間違いなく自分は他のライバルに比べて一歩も二歩もリードしている。槐にはその確信があった。もしかしたら好かれているまであるかもしれない。
「近衛家のパーティーの時は俺とこんな風にしてくれてないだろ!」
「伊吹……、何も泣かなくても……」
「うるせぇ!泣いてなんかねぇ!」
しかし……、話している間に伊吹はポロポロと女の子のように泣き始めてしまった。それを見て槐はハッ!と我に返った。
そうだ。例え咲耶が自分のことを愛していて、二人が結ばれる運命だったとしても、こうして伊吹を苦しめる必要はないじゃないか。伊吹にも自分と咲耶の仲を認めて祝福してもらいたい。そう思った槐は何とか泣いている伊吹を慰めようと、親友として必死に言葉をかけたのだった。




