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第四百一話「まずはやってみる」


 少しだけ高級な住宅街を歩いて、一見普通の家のように見える建物の前にやってきた。まるで普通の民家のような建物に無遠慮に入っていくと、いつも通りにドアベルが鳴りカウンターの奥にいた女性がこちらに視線を向けてきた。


「いらっしゃい……。あら、先生、咲耶ちゃん、よく来てくれたわね」


 顔を上げてこちらを見たマスターが、やってきたのが俺達だと気付いてそう言った。でも俺にはその『よく来てくれたわね』という言葉が、『こんなことに巻き込んでおいてよくも顔を出せたもんだな!』という意味に聞こえて仕方が無い。


 見た目はまだ何も変わっていないけど、近衛家の手続きによってこの店が書類上俺達のバンドのオフィシャルショップになっていることは間違いない。それに秋桐もバンドのメンバーだから近衛系列の事務所への所属の書類にはもうサインしているはずだ。今回の件で色々と巻き込まれていることを知らないはずがない。


「残念だけど今日はお土産はないわよ」


「あらぁ……。それは残念ねぇ」


 ふふっと笑いながらまるで残念そうでもなく菖蒲先生とマスターがやり取りしていた。菖蒲先生がそのままカウンター席まで歩いていくので俺もついていくしかない。


「先生はコーヒーかしら?咲耶ちゃんは紅茶で?」


「ええ。私はコーヒーをもらうわ。咲耶ちゃんは?」


 菖蒲先生はカウンター席に座ってマスターと二人で俺にそう聞いてきた。でも俺は席に座れない。カウンターの前に立ったままマスターに頭を下げた。


「今回は私の不注意でこのようなことに巻き込んでしまい申し訳ありませんでした!」


 幸徳井家には喫茶店のことと、秋桐のことで二重に苦労をかけてしまっている。他の皆なら事務所に所属したというだけの問題だけど、幸徳井家は喫茶店までオフィシャルショップということで色々と干渉を受けていることだろう。


「何の話かしら?」


「…………え?」


 頭を下げたままだった俺にマスターがそう聞いてきた。まさか秋桐の事務所所属の話や、喫茶店のオフィシャルショップ化の話を知らないはずがない。これは俺が何かを試されているのだろうか?もっと誠意ある謝罪をするようにとか?


「演奏メンバー全員が近衛系列の芸能事務所に所属するようにという件や、こちらの喫茶店がそのバンドのオフィシャルショップとして近衛家の影響と干渉を受けていることです……」


「あぁ……、そんなこと?それならいいから頭を上げて座って座って」


「はぁ……?」


 明るい声と表情でマスターはそう言って俺に席を勧めた。そう言われているのにいつまでもここで頭を下げたままでは話が進まない。こんなに簡単に済んで終わりとは思っていないけど、一先ず頭を上げてカウンター席に座った。


「今日はこれね」


「ありがとうございます」


 カウンターで淹れてくれているから一目でわかる。菖蒲先生に出したコーヒーはスーパーとかでよく売っている普通の粉のインスタントコーヒー。そして俺に出されたのも同じくスーパーなどで売られている普通のティーバッグの紅茶だ。


 飲めなくはないけどおいしくはない。俺の感覚からするとまるで前世に戻ったようで懐かしくはあるけど、自分から日ごろ進んで飲みたいものでもない。ましてや普通喫茶店に入ってわざわざ頼むようなものじゃないだろう。


 この喫茶店ではたまに輸入食料品や調味料などを扱っているお店で買ってきた、少しだけ凝ったコーヒーや紅茶を出してくれることもある。でもそれは毎回決まっているわけじゃなくて、マスターが気ままに買ってきたものを、その時々で自由に出しているだけだ。


 今回のようにスーパーで売っている粉のインスタントコーヒーの時もあれば、目の前で豆を挽いてサイフォンで入れてくれる時もある。


 紅茶だって今日は普通のティーバッグだったけど、たまには超高級ではないにしても、それなりに高級な茶葉で淹れてくれる時もある。


 別に日ごろ高い料金を取ってインスタントやティーバッグで済ませているわけではなく、日ごろのインスタントやティーバッグ用の安い料金で、たまに良い物を入れてくれるのだと思えばお得なお店だ。


 味見してみたくて興味はあるけど、自分で買うには量が多かったり、金額が高かったりして中々買えない商品とかがあるだろう。味もわからないのに少し高くてたくさん入っている未知の商品は中々買いづらい。そういう輸入品や少しお高い商品を一杯だけ味見出来ると思えばかなり便利が良い。


 ただしマスターが気になったものとかをその時々で買ってきて出すだけだから、いつ何が出てくるかはわからない。ある程度の馴染みの客ならリクエストも出来るかもしれないけど、それだってマスターがいつ買ってきて置いてくれるかは運任せになる。


 お茶請けもスーパーで買ってきたお菓子の外装を破って個包装でそのまま出てくることもあれば、マスターが手作りしてくれたお菓子が出てくる時もある。軽食類も時々によって変わっていて、同じ物が毎回出てくるとは限らない。


 普通に考えたらそれでお店として成立するのかと思う所だけど、それでも前からずっと固定の客がついていた。料金も良心的だし、あくまでマスターの趣味で自由にやっているお店だ。文句があるなら客はもう二度と来なければいい。そういうスタンスでやっている。いや……、やっていた……。でもこれからは……。


「私が余計なことをした上に安易に考えて失敗してしまったために……、このお店は近衛家に干渉を受けて……」


「干渉?干渉なんて受けていないわよ?」


「……へ?」


 いや、それはないだろう。オフィシャルショップになるということは、店がどうとか、置く商品がどうとか、あれこれ指示や命令を受けているはずだ。コンビニが一切オーナーの自由に出来ず、本部の命令に従わなければならないように、この手のお店というのは契約でガチガチに縛られて自由な裁量などない。


「確かに最初はそういう人が来たわ。近衛系列のお店になるのだから出す商品は一流でなければならないとか、メニューにあれを出せ、これを出せとかね。あとお店も改装してそれらしくしろとか……、困ったものだったわよ」


「やはり……」


 しみじみとそう言われて俺は視線を落とした。近衛系列の奴らが来て『ああしろ』『こうしろ』とそれはもう偉そうに言って行ったであろうことが容易に想像出来た。


 このお店の良い所はマスターが思うがままに経営していることだ。採算度外視で高いコーヒー豆や茶葉を入れてみたり、普通のインスタントで済ませたり。軽食やお茶請けもスーパーで買ってきたものを出したり、凝ったものを手作りしてみたり……。


 マスターがその日その日によって思うがままに経営している。それがこの店の良い所であり、それを気に入っている客が集まるお店だ。利益がどうとか、出す商品の品質がどうだとか、そんなことにこだわらない。


 まるで家にいて、時々良いお茶やコーヒー、お菓子なんかを食べたり、普通のインスタントで済ませたり、そういう『普通の自宅で寛いでいるかのような空間』がこのお店の素晴らしさだと思う。


 それなのに近衛家の指示に従って、出される商品は画一的で品質も物も一定で同じ、接客もマニュアル化されて、いかに商品を売るかにばかり特化されてはこの店の良さは全て失われてしまう。そうなったら今のこのお店を気に入って来てくれている常連客は皆離れてしまうだろう。


「だから私は言ってやったわ。『ここは私の店だからどうするかは私が決める』ってね」


「えっ!?」


 近衛系列の店になって、俺達のバンドのオフィシャルショップになるというのにそんなことが通るわけが……。


「それで何もなかったのですか?まさか今もまだ揉めて大変なことに……」


「最初に来てた人達はそれはもう烈火の如く怒ってたわよ。『近衛家に逆らうのかー!』みたいな感じでね。でも私は自分の好きなようにしたくて夫に頼んでこのお店を出させてもらったのよ。それが出来ないならお店をする意味も理由もないわ。だからそう言って追い返してやったの」


「へぇぇ……」


 意外だ……。マスター……、緋桐さんは普段おっとりというか、少し世間とズレているというか、そういう感じがする。もちろん世間知らずのお嬢様というわけじゃなくて、どちらかと言えば庶民的な育ちの人だけど……、何ていうか……、天然?そう!天然というようなタイプだと思う。


 あまり怒っている所や慌てている所も見ないし、天然でややおっとりしている。そんなマスターが、近衛家の者達にそう言われても、毅然とした態度で追い払ったというのがどうにもイメージと合わなくて想像出来ない。


「そうしたら近衛の奥様が来られてね。その人達の前で私に頭を下げてくれたわ。どうやらその人達の報告を聞いて来たみたいだけど、私は私が自由にしたからこのお店をしているって聞いて、『近衛側から経営や商品に関して口は出さないから自由に経営して欲しい』って言ってくれたのよ」


「――ッ!?」


 あの近衛母が……?そんなことを……?


 俺のイメージの近衛母だったら……、『逆らう者は全て潰してやる!』くらいの人かと思っていた。それなのに、マスターに今まで通り自由にこの店の経営を任せて、近衛系列やオフィシャルショップになるのにあれこれ指示も命令もしないなんて思いもしなかった。


「だからこのお店は咲耶ちゃんや秋桐達のバンドのオフィシャルショップという名前がつく以外は、前と何も変わらないのよ。それに秋桐が近衛系列の芸能事務所に所属するといっても、近衛の奥様は別に無理に何か活動をさせたりはしないと約束してくださったわ」


「それは……」


 確かに……、俺の時もそれは言っていた。一応所属させるだけで、別にすぐに芸能活動をしろというつもりはないというのは聞いている。したければバックアップするけど、事務所側から無理に宣伝活動をしたり、ドサ回りさせたりはしないと言っていた。言っていたけど……、俺は信じていなかったということか……。でもマスターは信じているんだな……。


「ねぇ咲耶ちゃん。前にも言ったけど咲耶ちゃんは『失敗したら』とか、『人を巻き込んだら』とか、難しいことを考えすぎじゃないかしら?別に良いじゃない、失敗したって。失敗したからって死ぬわけじゃないわよ。別に良いじゃない、人を巻き込んでしまっても。巻き込まれる方だって皆が迷惑がるだけだとは限らないのよ。誰かのために、自分から一緒に巻き込まれたいと思うこともあるのよ」


「誰かのために……、自分から一緒に巻き込まれたいと……」


 マスターと菖蒲先生の言葉が染み込んでくる。その言葉の意味は俺にもよくわかる。例えば薊ちゃんや皐月ちゃんが何かトラブルに遭っていたら、俺は自分からその渦中に飛び込んででも一緒に解決したいと思う。俺がそう思うように……、周りの皆もそう思ってくれる人がいるということだろう。


 俺は誰にも迷惑をかけないようにとか、誰も巻き込まないようにということばかり考えていた。でも……、逆の立場だったらどうだろう?


 ついこの前も、茅さんが許婚候補として木槿に迫られていた時、茅さんは俺を巻き込まないようにしようとそのことについて何一つ相談してくれなかった。それを知って俺はどう思った?


 相談してくれない茅さんに寂しい思いをしただろう。そして茅さんが俺を巻き込まないようにしてくれていたのを承知で、それでも俺は自分からその渦中に飛び込んだじゃないか。俺はあの時茅さんはどうして俺に相談してくれないのかと思いながら、今は俺が皆に対して同じことをしている。


 どうして俺は皆を頼って、皆を巻き込んで相談しないのか。そうされたら皆がどう思うのか。そのことをすっかり忘れていた。


「失敗してもいいじゃない。間違えてもいいじゃない。嫌になればやめても、逃げても良いのよ。何一つ失敗しない人なんていないの。だからまずはやってみれば良いと思うわ」


「菖蒲先生……、マスター、いえ、緋桐さん……、ありがとうございます」


 俺が頭を下げると二人とも柔らかい笑顔で頷いてくれた。


 そうだ。まだ何も始まってもいないのに『近衛系列の芸能事務所に所属した』というだけで何を悲観したり、皆を巻き込んでしまったと後悔する必要があるというのか。


 もしこれから近衛家や芸能事務所が俺達に無理難題を吹っかけてきたり、曲の権利などを奪おうとしてくるのなら抵抗して戦えばいい。でもまだ何も始まってもいないのに、今の時点からありもしない問題に悩んでいても答えなんて出るはずがなかったんだ。俺はそんな当たり前のことすら忘れていた。


 菖蒲先生とマスター、緋桐さんは、いつもいつも俺に大切なことを教えてくれる。思い出させてくれる。この二人は本当に俺にとって大恩ある恩師と言える。


「まぁ夫は『近衛家との関係がぁっ!』とか言って寝込んでしまったけど……」


「えっ!?それは大変ですね!それは是非お見舞いにいかなければ!」


 マスターの話を聞いて驚いた。どうやら友康は九条と近衛の板ばさみに耐え切れず腹痛を起こして倒れたらしい。今日はまさかお見舞いになると思っていなかったから何の用意もしていなかったけど、今度はちゃんと友康のお見舞いに来なければ……。



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― 新着の感想 ―
[気になる点] 近衛ババァは相変わらず好きになれないな。 物語上では重要なキャラなんだけどね [一言] 元はといえば曲を流した事なんだけどね〜 まぁこれも咲耶の成長につながると思えば
[気になる点] 息子と咲耶の相性が最悪だと知った時、近衛ママは平常心を装いつつどれ位悔しがったのか? 他のキャラと違って、そういった近衛ママの心理描写が少ないため誰にも内心を理解出来ない所が気になる。…
[気になる点] 近衛母、咲耶ちゃんに対しては下手に囲い込むより大人の色気で誘惑した方が効く説 [一言] やめて咲耶ちゃん!友康の胃のライフはもうゼロよ!
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