第二十一話 初陣
月は高く昇り、荒れ地を青白く照らしていた。
アルトは父の訓練剣をゆっくりと構える。
「あと十本。」
毎晩決めている素振りの回数だ。
精神リンクを通じ、十七メートルの騎士が剣を振り上げる。
「……せいっ!」
ブォン――。
巨大な鉄塊が夜気を裂く。
剣先は地面すれすれで止まった。
土埃はほとんど舞わない。
『停止誤差、二・八センチ。』
『前回より向上しています。』
アルトは満足そうに息を吐いた。
「少しずつ、だな。」
その時だった。
『契約者。』
精霊の声がわずかに低くなる。
『北東方向、魔力反応を検知。』
アルトの表情が変わる。
「魔物か?」
『可能性九十八・七%。』
『接近中です。』
騎士の視界が森の奥へ向く。
暗闇の中で、小さな赤い光が二つ揺れていた。
◇◇◇
低いうなり声。
草を踏み分け、一匹の魔物が姿を現す。
灰色の毛並み。
鋭い牙。
騎士から見れば小さい。
それでも体長は三メートル近くある。
人間なら、ひと噛みで命を落としかねない魔物だった。
『個体識別。』
『グレイウルフ。』
『単独個体を確認。』
アルトは喉を鳴らす。
「一匹だけ……。」
『現在の勝率、四十七%。』
精霊は淡々と告げる。
『戦闘は推奨しません。』
『撤退可能です。』
撤退。
その言葉に、アルトはわずかに視線を落とす。
しかし、グレイウルフは騎士ではなく、その向こう――辺境の街の方角を見ていた。
風向きが変わる。
魔物が鼻を鳴らす。
街の匂いを嗅ぎ取ったのだ。
「……。」
アルトはゆっくりと訓練剣を握り直す。
父の記録が脳裏によみがえる。
『街がこんなに小さく見える。だからこそ、守らなきゃならない。』
アルトは静かに息を吐いた。
「父さん。」
「一本だけ、借りる。」
『戦闘行動を確認しました。』
『支援を開始します。』
◇◇◇
グレイウルフが地を蹴る。
速い。
人では到底追えない速度で、一直線に飛び込んでくる。
「はあっ!」
アルトは訓練通り、剣を振り下ろした。
しかし――。
空を切る。
グレイウルフは直前で身をひねり、剣の軌道をかわしていた。
「しまっ!」
訓練剣が地面へめり込む。
だがアルトは慌てなかった。
止める。
引き抜く。
構え直す。
それは何百回も繰り返した動きだった。
『契約者。』
『左へ半歩。』
精霊の声。
アルトは反射的に重心を移す。
その瞬間。
グレイウルフの爪が、わずか数十センチ横を通り過ぎた。
「危なかった……!」
『回避成功。』
◇◇◇
グレイウルフは間合いを取り直す。
唸り声を上げながら、再び地面を蹴った。
一度目より速い。
二度目は迷いがない。
アルトの鼓動が速くなる。
恐怖で手が震える。
それでも操縦桿だけは離さなかった。
「落ち着け。」
「訓練どおり。」
歩く。
止まる。
剣を振る。
止める。
全部、毎晩やってきた。
『契約者。』
『剣を止める場所を決めてください。』
精霊の言葉に、アルトの目が開く。
そうだ。
振ることじゃない。
止める場所まで決める。
アルトは魔物の進路を見据えた。
そこへ剣が止まる未来を思い描く。
「――そこだ!」
ブォンッ!!
訓練剣が夜空を薙ぐ。
一直線に飛び込んできたグレイウルフは、その軌道へ自ら飛び込んだ。
鈍い衝撃音が響く。
刃はない。
斬ることはできない。
それでも、十七メートルの騎士が振るう巨大な鉄塊は、それだけで十分だった。
グレイウルフの身体が宙を舞い、地面を何度も転がる。
やがて動かなくなった。
◇◇◇
静寂。
風だけが草を揺らしている。
アルトはしばらく動けなかった。
荒い息が操縦席に響く。
「……勝った。」
ようやく漏れた言葉だった。
しかし精霊は静かに訂正する。
『いいえ。』
『契約者は勝利したのではありません。』
数秒の沈黙。
『初陣を生き延びました。』
アルトはその言葉を噛みしめる。
そうだ。
少しでも判断を間違えていれば、自分が倒れていた。
勝ったというより、生き残れた。
その表現の方が、ずっとしっくりきた。
「……うん。」
「生き残った。」
◇◇◇
魔物の亡骸が、淡い光を放ち始める。
やがて身体は粒子となって夜風へ溶け、その場には拳ほどの大きさの蒼く輝く結晶だけが残された。
アルトは騎士の指先でそっと拾い上げる。
「これは……。」
『高純度蒼晶石です。』
『機体修復素材として使用可能。』
アルトは静かに笑った。
「父さん。」
「やっと……。」
蒼晶石を見つめる。
「本当に、一歩前へ進めたよ。」
月明かりの下。
父の騎士は静かに訓練剣を肩へ担ぐ。
その姿を知る者は、まだ誰もいない。
けれどこの夜、辺境を守る名もなき騎士は、確かに最初の一歩を刻んだのだった。
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