第十七話 夜を歩く巨人
その日の授業が終わっても、アルトはいつも以上に落ち着かなかった。
教科書を閉じても、頭の中にあるのは今夜のことだけ。
父の騎士を、初めて倉庫の外へ出す。
それだけで胸が高鳴っていた。
◇◇◇
夜。
辺境の街はすっかり静まり返っていた。
代官屋敷の明かりも一つ、また一つと消えていく。
アルトは倉庫の小窓から外を確認した。
「……誰もいない。」
『周囲三百メートル以内、人の反応はありません。』
精霊の報告に頷く。
それでも慎重に倉庫の大扉を開けた。
長い間閉ざされていた蝶番が、小さく軋む。
月明かりが倉庫の中へ差し込んだ。
銀色の光が、父の騎士を静かに照らす。
「行こう。」
アルトは操縦席へ乗り込み、精神リンクを接続する。
魔力炉が低く唸り始めた。
『出力安定。』
『歩行補助、起動。』
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
十七メートルの巨体が一歩踏み出す。
ギ……
ギギ……
鉄の軋む音が夜気へ溶けていく。
倉庫の敷居を越えたその瞬間、アルトは思わず息を呑んだ。
「外だ……。」
十年間。
父の騎士は、この倉庫から一度も出ることはなかった。
今、ようやく夜空の下へ帰ってきたのだ。
◇◇◇
倉庫の裏手には、人のほとんど立ち入らない荒れ地が広がっている。
昼間は放牧地として使われることもあるが、夜に訪れる者はいない。
アルトは慎重に歩を進める。
一歩。
二歩。
三歩。
精神リンクを通して伝わる重みは、想像以上だった。
人間の身体とはまるで違う。
十七メートルの鉄の身体は、ほんの少し重心を誤るだけで倒れそうになる。
『右肩が下がっています。』
精霊が即座に指摘する。
「分かった。」
肩の力を抜く。
腰を意識する。
ガンツの言葉が頭に浮かぶ。
「立つってのはな。脚じゃねぇ。腰だ。」
その言葉を思い出しながら姿勢を整える。
すると、不思議なほど機体が安定した。
『姿勢制御、良好。』
アルトは小さく笑う。
「ありがとう、ガンツさん。」
◇◇◇
荒れ地の中央まで来ると、アルトは立ち止まった。
辺境の街が遠くに見える。
家々の灯りはほとんど消え、静かな夜だけが広がっていた。
騎士の視点から見る景色は、人間の目線とはまるで違う。
屋根の高さを越え、森の向こうまで見渡せる。
「父さんも、この景色を見てたのかな。」
『前契約者の記録に、同様の内容があります。』
「え?」
『初試運転時の記録です。』
空中に、一行だけ文字が浮かぶ。
"街がこんなに小さく見える。だからこそ、守らなきゃならない。"
アルトはその言葉を静かに読み終えた。
「……父さん。」
守るために、この騎士は作られた。
戦うためではなく。
大切なものを守るために。
アルトは胸の奥で、その言葉を噛みしめた。
◇◇◇
さらに数歩。
歩幅はまだ短い。
速度も人が歩くより遅い。
それでも、転ばずに歩ける距離は少しずつ伸びていく。
『歩行距離、百八十二メートル。』
『過去最長です。』
「まだまだだけどな。」
アルトは操縦桿を軽く握り直した。
「明日は二百メートル。」
『目標を更新しました。』
◇◇◇
試運転を終え、騎士を倉庫へ戻す。
大扉を閉めたアルトは、大きく息を吐いた。
「見つからなかったな。」
『異常ありません。』
その言葉に安堵し、倉庫の灯りを消す。
アルトは気づかなかった。
倉庫から少し離れた丘の上。
夜の薬草採取から戻る途中だった一人の少女が、月明かりの中に立つ巨人の影をほんの一瞬だけ目にしていたことを。
「……今の、何?」
少女――セレス・エルピスは目を凝らす。
だが、次の瞬間には巨人の姿は倉庫の中へ消えていた。
夜風が草を揺らす。
見間違いだったのだろうか。
そう思いながらも、セレスはしばらくその場から動くことができなかった。
辺境の夜に現れた、名も知らぬ巨人。
その存在が、二人の運命を静かに動かし始めていた。




