第十六話 歩くということ
父の騎士が自ら立ち上がってから三日。
アルトは放課後になると、倉庫へ向かうのが日課になっていた。
今日の目的は、いよいよ歩行試験。
もっとも、精霊からは何度も念を押されている。
『本試験の目的は歩くことではありません。』
『転倒しないことです。』
「分かってる。」
アルトは苦笑しながらコックピットへ乗り込んだ。
精神リンクが接続される。
視界が広がる。
計器の向こうではなく、騎士自身の目で世界を見ているような、不思議な感覚だった。
◇◇◇
『歩行補助を起動します。』
精霊の声とともに、操作盤へ淡い光が流れる。
「右足を前へ。」
アルトは操縦桿を押し出した。
だが、騎士は動かない。
「……あれ?」
『入力が不十分です。』
「レバーを前に倒したぞ?」
『本機は四肢を個別に操作する機体ではありません。』
『契約者の身体イメージを精神リンクで読み取り、動作を補完します。』
「身体イメージ?」
『"歩こう"では不十分です。』
『"右足に重心を移し、左足を持ち上げる"まで意識してください。』
「そんな細かく?」
『はい。』
◇◇◇
アルトは目を閉じる。
自分が歩く姿を思い浮かべる。
右足で体を支え、左足を前へ出す。
ほんの少し体を傾ける。
そのイメージを精神リンクへ流し込む。
ギ……
騎士の左脚がゆっくりと浮き上がった。
「動いた!」
だが、喜んだのも束の間。
重心が崩れ、巨体が前へ倒れそうになる。
『姿勢補正。』
腰部の姿勢制御装置が唸りを上げる。
右腕が床をつき、転倒を防いだ。
「危なかった……。」
アルトは額の汗を拭う。
『歩行は成功していません。』
『しかし、片脚支持には成功しました。』
精霊の評価は淡々としていた。
だがアルトは笑う。
「十分だ。」
「今日は昨日より前に進んだ。」
◇◇◇
その後も試験は続いた。
一歩踏み出そうとして転びそうになる。
重心を意識しすぎて足が止まる。
思った以上に、人が歩くという行為は複雑だった。
「普段、何気なく歩いてるのにな。」
『人間は無意識に全身の筋肉を制御しています。』
『契約者は現在、それを意識的に再現しようとしています。』
「だから難しいのか。」
『はい。』
◇◇◇
夕暮れ。
何度目かの挑戦。
アルトは深呼吸した。
「焦るな。」
「右足で支える。」
「左足を前へ。」
「腰は真っ直ぐ。」
精神リンクへ、身体の感覚を流し込む。
ギィ……
左脚が前へ出る。
そして。
ドン。
静かに地面を踏みしめた。
『……。』
精霊が一瞬、言葉を失う。
アルトも動かない。
右足。
左足。
両脚で巨体を支えている。
「……一歩。」
それは歩いたというには、あまりにも短い動きだった。
距離にして四十センチほど。
それでも、父の騎士は確かに自分の意思で前へ進んだ。
『初回歩行データを記録しました。』
精霊の声が、ほんの少しだけ柔らかく聞こえた。
◇◇◇
試験を終えたアルトは、機体を元の位置へ戻した。
倉庫の外は、すっかり夕焼けに染まっている。
「今日は成功かな。」
『評価します。』
『成功率三十二%。』
「低いな。」
『しかし、一歩目です。』
『前契約者の記録では、初日の歩行距離は二十七センチでした。』
アルトは驚く。
「父さんより長い。」
『はい。』
「じゃあ、少しだけ勝った。」
思わず笑うアルトに、精霊も静かに応えた。
『契約者。』
「ん?」
『前契約者は、その日の整備記録にこう残しています。』
表示された記録には、短い一文だけがあった。
「今日は一歩だけ。それで十分。」
アルトは目を細める。
「……本当に父さんらしい。」
誰もいない倉庫で、アルトはもう一度だけ騎士を見上げた。
「俺も焦らない。」
「明日は二歩、歩こう。」
その言葉を聞くように、騎士の胸部にある魔力炉が、小さく、静かに明滅した。




