第二章3 『憂鬱な雨』
イドラは雨の中、退屈そうに街を散策していた。昔から、雨の日が好きだった。
雨の日は世界が静けさに包まれる。孤児院のざわめきも、大人たちの罵声も、他の子どもの泣き声も。すべてが雨音にかき消されて、まるで自分だけが世界から切り離されたような感覚になれた。あの閉鎖的な日々で、唯一自分だけの時間が流れるのが雨の日だった。
濡れた空気も、肌を冷やす感触も、心地よかった。誰かと何かを共有するのが苦手なイドラにとって、雨は誰とも触れ合わなくていい時間だった。
だから今でも、雨が降ると少しだけ呼吸が楽になる。誰にも説明できないイドラだけの理由を抱きしめて今もただ、傘もささずに空を見上げるのだ。
だからこそ、その時間を誰かに邪魔されることが一番嫌いだった。
誰もいないと思って訪れた、半壊した教会を人影が横切る。
「誰だ…」
誰かがいるであろう空間にそうつぶやく。人なのか否か…その正体はそう待たずに判明した。
「あんたは…」
教会の奥の方に置いてあった聖櫃の後ろから出てきたのは、テディだった。イドラはその姿を確認すると、いつもと同じような笑顔を浮かべてその小さな人影に近づいた。
「ステラが心配するぜ、ちびっこ」
いつもより優しい声色で繕った声を少女にかける。早いところこの子供を追い出して、先ほどのような静かな雨の中を堪能したかったのだ。
「…マ…?」
テディが小さく口を動かしたのをイドラは見逃さなかった。
「は?なんだよ」
訝しげな視線を向けるが、次の瞬間テディは小さな体を精一杯に動かしてイドラへと駆け寄ってきたのだ。
「ママ…!」
そのままためらいもなく、細い腕でイドラの腹部に抱き着く。
「え…?」
イドラの脳は追い付いていなかった。体は一瞬強張り、何が起きたのかを理解する前に少女の顔が胸元に埋まっていた。
「やっと見つけた、ママ…。おいていかないで…私、待ってたんだから…」
イドラの心臓がドクンと跳ねる。
(――ちがう)
喉元まで込み上げた否定を口に出すことはできなかった。テディの小さな手が、しがみつくように深緑色の外套を握っていたからだ。細く、小さく、頼りない手。思わず守らなくてはいけないとそう思わせるような、ずるい手。それでいて、温かい手――。
「ママ、もう一緒だ――」
テディの目から一筋の涙が零れたのを見た、その瞬間だった。
空気が、音を飲み込んだ。あたりが奇妙な静寂に包まれる。雨の音も、鳥の声も、風の囁きも、世界のノイズが一瞬で止まる。
イドラはその場から一歩も動けずにいた。視界の端で、ステラが瞠目してこちらを見つめていることに気が付いた。それに気づいた瞬間、金縛りのように動かなかった体が解放され、それと同時に目の前で今砕け散ろうとする命を衝動的に抱きしめる。
目の前でテディの形がゆらりと揺れる。熱い炎の上で舞う陽炎のように、その輪郭がぐにゃりと歪んだ。テディが白く発光する直前、イドラが見た光景は決して忘れることがないだろう。
「――ッ!」
イドラが思わず声を上げる。腕の中の存在が、音もなく、粉のように、塵のように崩れていく。涙と光の余韻だけを残して、テディという少女の存在が、たった今世界から剥がれ落ちていった。
「……空蝕…?」
教会の入り口で立ち尽くすステラが、震える声で忌まわしき元凶の名を呟いた。
「どうして、こんな…僕らの目の前で…」
イドラは言葉が出なかった。目の前の空間にはもう何もない。先ほどまで抱きしめていたものは、ほんの少しのぬくもりと、とてつもない衝撃を残して、すっぽりと世界から抜け落ちた。
「…テディは、最期…笑ってた?」
ステラが低く、かすれた声で言った。イドラはその質問にも何も返すことができなかった。ただ、うつむいたまま、ただ肩を震わせるだけだった。
雨はまだ止まない。空は分厚い雲に覆われ、夜と昼の境目すら曖昧な灰色だ。町を包む泥濘の中、イドラとステラはテディの住んでいた家に戻った。壁にもたれかかり、濡れた髪が不快に額に張り付く。
「…あぁ、笑ってた」
不意にイドラがつぶやいた。冷えた指先で、まるでそこにテディがいるかのように、虚空を掴む。
「一瞬だけ、ほんの一瞬…」
空蝕に呑まれるその瞬間、テディの頬が微かに持ち上がった。イドラは見た。あの壊れた人形のようだった少女
が、母を目の前にしたかのように満ち足りた顔で自分に抱き着いたことを。
「…もし、僕たちが来なければ、テディは死なずに済んだのかな…」
ステラの声は、雨にかき消されてしまいそうなほどに弱々しかった。言葉を切ったステラを見てイドラは思う。壊れたものなら最初から放っておくべきだった。そう。拾ったって、抱えたって、どうせどうにもならない。
壊れて捨てられたおもちゃのその後を誰も想像しない。それは、やがて朽ち果てることが確定しているからだ。テディだってそうだっただろう、放っておけばそのうち壊れた未来を辿っただろうに。
だから、何も背負う必要はない。自分たちには、そんな義務も、余裕もない。
「だったら、僕たちは…あの子から未来を奪ったってことなんだろうか…」
誰に向けたでもない問いだった。答えなんてどこにもない、出せやしない。
ステラは自分の肩からずり落ちた鞄を背負いなおした。何度も底の方が繕われた跡がある、大きくて不格好な鞄。そこには、彼が拾い集めてきた「壊れかけ」が詰まっていた。
「…なぁ、ステラ。俺嫌いじゃないんだよ、雨」
ぽつりとこぼしたその言葉に、ステラがちらりと目をやる。
「なんで?」
「全部が同じに見えるだろ。どんな奴も、泣いてるのか、濡れているのかわかんなくなる…便利だろ。くだらねぇ理由だけどな」
軽く肩を竦めたイドラの背中は、いつもよりほんの少しだけ小さかった。
くだらない。ほんとに。
そう心の中で自嘲する。それでも、このくだらない感傷に、今日だけは、少しだけ浸っててもいい気がした。




