第一章4 『忌むべき物は』
暖炉の火が小さく揺れていた。
拾ってきた小枝を食い尽くした炎は、奪った分だけその寿命を短くしていった。すでにステラは小さな寝息を立て始めている。イドラも瞼を閉じたまま、ゆっくりと記憶の海へと沈んでいく。
――それは、まだ世界が終わる前のイドラの話
雨の匂いが染みついた、湿った床板。ところどころ剥がれ落ちた壁紙と、カビで黒ずんだ天井。
そこがイドラの育った場所、孤児院とは名ばかりに刑務所のような場所だった。
孤児院を運営する支援金はほとんどないも同然で、施設の至る所が壊れていた。
夏は氷を作る機械がないため熱中症で倒れる子供が後を絶たず、冬は乾いた薪がなく炎を焚けないため、凍えながら夜を過ごした。そんな劣悪な環境はイドラが施設を出るまでに直されることはなかった。
職員は最低限しかおらず、小さな子どもの世話もままならない状態だった。孤児院の年少組であった三歳から五歳の子どもたちはとにかく世話が焼けるため、孤児院の年長組の十五歳程度の少年少女がかわるがわる面倒を見ていた。
食事は一日一度の簡素なスープとパンだけ。もちろん食べ盛りの子どもの最低摂取栄養量を下回る不健康な食事だったが、それでも確かにイドラたちは毎日を生きていた。
孤児院にはイドラの人生の中で最初で最後の、スレプトという友達がいた。
スレプトは粗雑で喧嘩っ早く周りの孤児からは煙たがられていた。暴れ者のレッテルを貼られた劣等生、それが彼だった。
「また喧嘩か?」
「ちげぇよ、向こうからぶつかってきたんだ」
「もうやめとけよ、お互い血が出てるじゃねぇか」
向こう見ずで短気なスレプトは、些細なことでもよく他の孤児と衝突を起こした。それを止めるのがイドラの役割だった。誰に対してもすぐに牙をむくスレプトも、いつも冷静に仲裁をしてくれるイドラのことを信頼していた。
「ありがとう、イドラ」
喧嘩を仲裁したあと、スレプトは必ず泥だらけの手で鼻をこすって笑いながらそう言うのだ。確かにスレプトはどうしようもなく粗暴で、すぐに手が出るし、言葉遣いも荒かった。
けれど、怒鳴り声の裏で、人の痛みには誰よりも敏感だった。泣いていることをからかったやつには真っ先に拳を飛ばし、食堂からパンを盗んだ奴には黙って自分の分を差し出した。 そんな不器用な優しさをイドラだけは知っていたのだ。
「スレプト、もうちょっと落ち着け、ほら、また鼻血が出ているぞ」
「うっせ、世界がお前みたいなやつで溢れたら退屈過ぎて死んじまうだろ」
二人はいつもそうやって並んでいた。互いの欠けた部分を、笑って晒しあえた。
誰にも心を開けなかったイドラが、唯一人間らしいと感じる時間が、スレプトとの日々だった。
今でも鮮明に思い出すことができる。それはオルゴールの音が途切れた夜のことだった。イドラの記憶は、静かに揺れる蝋燭のように、いつかの夕暮れへと遡っていく。
イドラたちがまだ十歳くらいの頃、「星灯りの日」と呼ばれるものがあった。いい子にしていると、星に住む神様が子供たちの欲しいものを一つ届けてくれるという日。思い返せば子供だましもいいところだ。
実際には気まぐれに気分を良くした大人たちが、子供たちに欲しいものを訊いてくる、ただの施しだった。
子どもたちは口々に自分の欲しいものを答えるが、叶えてくれるのはその中の一つや二つだけ。
それでも、いつもは冷たい大人たちが自分たちを気にしてくれていることに子供らしい喜びを覚えていたのかもしれない。子どもたちはもらったプレゼントをそれぞれ大切に保管していた。
今となれば、あれは大人たちの罪滅ぼしのような意識からくる施しだったのかもしれない。それでも、親を亡くした孤児が抱く喜びは相当で、数か月に一度星灯りの日が来るたびに、子供たちは目を輝かせていた。
ある日の星灯りに選ばれたのはスレプトのねだった「オルゴール」だった。採用されてから一週間ほどしてそのプレゼントは届いた。スレプトとイドラは二人で顔を突き合わせて箱の中を覗き込んだ。
可愛らしい箱の中に入っていたのは、ところどころ錆びのついた安っぽい金属でできたオルゴールだった。ゼンマイを回すと、かすれた音で短い旋律を鳴らす、子供だましのようなおもちゃ。
イドラはそれを見て、鼻で笑い飛ばそうとしたが、ゼンマイを何周も回しては、いくら聞いても飽きないといったきらきらしたスレプトの表情に、言葉を飲み込むしかなかった。
それからスレプトは毎晩のようにゼンマイを回しては、小さな機械から奏でられる拙い旋律を聞きながら眠るようになった。
「きれいだな、音楽ってのは。まるで誰かが笑ってるみたいにあったかくなるな」
そういったスレプトの横顔は、こんなゴミ溜めみたいなところに捨てられていても世界のどこかあるに希望を信じているような顔だった。
こんな安物で満足できる彼の気が知れなかった。もっといい音楽はこの世に満ち溢れていて、その一端を知っただけでしたり顔で眠れるスレプトに妬みすら湧いたほどだ。
しかし、そんな日々が終わるまでそう時間はかからなかった。
「三日も、探したんだ…」
スレプトの指先は微かに震えていた。その手の中にあるのは、すっかり灰にまみれて壊れたオルゴールだった。細かな粒子が繊細な金属機械の奥まで入り込み、もはや再びその旋律に耳を傾けることは不可能だった。
暖炉の奥、長く使われていない灰の山をかき分けてようやく見つけたそれは、スレプトから受け取り続けたはずの愛をどこかに置き忘れてしまったように、すっかりと黙りこくり、ただの冷たい機械へと戻っていた。
「星灯りの日にもらった、一つだけの宝物だったのに…」
ぽつりと、子供らしい声で吐き出された言葉が、灰の舞う空気へと沈んでいく。スレプトは堰を切ったように肩を震わせた。怒りでも憤りでもなく、ただまっすぐな純粋な悲しみがその瞳からはあふれていた。
イドラはそんな友人の様子を黙ってみていた。共感というよりは、観察に近かっただろう。もともと壊れかけていた安物のオルゴールに流される涙が不思議で仕方がなかった。
そんな風に思いながらも、心の底に沈殿するぼんやりとした揺らぎを無視できなかった。この世はただでさえ醜く、薄汚い。それなのに、たった一つの大切なものも守れないというのか。
「誰がやったか、心当たりはあるか」
スレプトは涙を拭いながら、小さく首を横に振った。その雫がイドラを動かす動機になるには十分だった。イドラは静かに立ち上がると、いつものように軽薄そうな笑みを貼り付けて、他の子どもたちの方へと歩いていった。
それから数時間もしないうちに、犯人は炙りだされた。証拠も目撃者もいないはずなのに、イドラの仕掛けた罠にまんまと嵌ったその子は言い逃れができずに立ち尽くしていた。
オルゴールを壊した張本人を前にして、我慢の限界に達したスレプトの拳が酷く震えていた。
やっちまえ、と思った。そしたら心が晴れるだろうと。
「お前がやったんだな」
スレプトの声は低かった。怒りと憎しみと悲しみと、何かが混ざったような声だった。そして、殴りつけた。
何度も、何度も。拳とともに涙が落ちていく。止めるものはいなかった。
ただ、皆は遠巻きにその姿を見ていた。
しかし、問題になったのは、そのあとに起こった出来事だった。激昂して周りが見えなくなっているスレプトを止めに入ろうとした大人の頬にも、その拳が当たった。それが引き金となった。
「この問題児はもういらない。売り飛ばすか、外に捨てろ」
その言葉を聞いたのは、妙に寝付けなかった夜に廊下を徘徊していた時だった。昼間には絶対に鍵がかかっている大人の部屋から、わずかに光が漏れていた。
興味本位で中を覗いたイドラはその光景に絶句した。そして全てを悟ることになる。
あの大人たちが何を企んでいたのか――一日一食の簡素な食事のわけも、壁や床がカビた劣悪な状態の部屋も、すべては大人たちが助成金を懐に入れていたせいだったのだ。
今までに見たことのないような豪華絢爛な大人の部屋の様子に、目を奪われるよりも趣味の悪さに吐き気がした。慈愛の心で孤児となった子どもたちを拾ったわけじゃなかったのだ。今までに卒院していった子供たちは里親のもとへと立ったわけではなかったのだ。
普段他人の痛みに疎いイドラですらも、胃がひっくり返るようなショックに襲われた。そして、これからスレプトが辿るであろう運命に思考を巡らせて顔を青ざめる。
「クソっ」
戦慄いた唇からは、ありきたりな悪態だけが飛び出した。




