第7話:小さな日常
その日、森はいつも通りの顔をしていた。
風は穏やかで、鳥の声も戻っている。
昨日までの違和感が、まるで嘘みたいだった。
「……ほんとに、何もないわね」
リナは少し拍子抜けしたように呟く。
「そんな日もあるだろ」
隣でカイが肩をすくめる。
「でも、あんなのが出たあとよ?」
「ずっと出てこられても困るだろ」
「それはそうだけど……」
納得しきれないまま、リナは小さく息をついた。
「今日は森の手前だけにしておくぞ」
後ろから父の声がする。
振り向くと、すでに剣を持って立っていた。
「ええ」
リナは素直に頷く。
昨日のこともあってか、父の判断はいつもより慎重だった。
午前中は、軽い訓練だった。
基本の動きの確認。足運び。剣の振り。
派手さはないけれど、大事なことばかり。
「焦るな」
父の声が飛ぶ。
「形を崩すな」
「……はい」
分かっているのに、体が先に動いてしまう。
昨日の影のことが、どこか頭に残っているせいだった。
「もう一度」
「はい」
何度も繰り返す。
地味で、地道で、でも確実に積み重なる時間。
少し離れたところで、カイが木にもたれてそれを見ていた。
その横に、母が立つ。
「退屈じゃないの?」
「別に」
「見ているだけで?」
「それなりに面白い」
カイはそう言いながら、リナの動きを目で追っている。
「……よく見てるのね」
「まあな」
短く返す。
その視線は、軽いものじゃなかった。
昼過ぎ。
訓練を終えて、家の前でひと息つく。
「……つかれた」
リナがそのまま草の上に寝転がる。
「情けない声出してるわね」
母が笑う。
「ちゃんとやったもの」
「そうね」
やわらかく頷く。
「ほら」
カイが水を差し出す。
「ありがと」
受け取って、一口飲む。
冷たい水が、体に染みていく。
「……ねえ」
「ん?」
「カイもやればいいのに」
「何を」
「訓練よ」
「やってるだろ」
「見てるだけじゃない」
「頭使ってるんだよ」
「言い訳ね」
「ひどいな」
軽いやり取り。
でも、どこか心地よかった。
午後は、母と一緒に過ごした。
簡単な水の魔法を教えてもらう。
水を集める。
形を保つ。
流れを操る。
どれも基本のはずなのに、思うようにいかない。
「……難しいわ」
「慣れよ」
母は楽しそうに笑う。
「リナは器用だから、すぐ出来るようになるわ」
「そうかしら」
「ええ。ちゃんと感じ取れてるもの」
手のひらの上で、水が小さく揺れる。
崩れそうで、でも消えない。
その感覚が、少しだけ嬉しかった。
一方その頃。
外では――
「で?」
父が静かに口を開く。
「おまえは何者だ」
カイに向けられた言葉だった。
まっすぐで、逃げ場のない問い。
カイは少しだけ目を細める。
「……ただのガキだよ」
「違うな」
即答だった。
「昨日の動き。あれは独学ではない」
カイは黙る。
「どこで覚えた」
少しだけ間が空く。
風が、木々を揺らす。
その音の中で、カイは小さく息を吐いた。
「……覚えてねえよ」
それは嘘ではない。
でも、全部でもなかった。
父はしばらくその顔を見ていた。
探るように。
確かめるように。
やがて、ゆっくりと視線を外す。
「……そうか」
それ以上は聞かなかった。
けれど。
完全に納得したわけでもなかった。
夕方。
四人で食卓を囲む。
穏やかな時間。
笑い声。
温かい食事。
何も変わらない、普通の一日。
「ねえ」
リナがふと口を開く。
「こういう日、楽しいわね。すごく楽しい。」
その言葉に、母が微笑む。
「そうね」
「ずっと続けばいいのに」
何気ない一言。
でも――
父と母の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
気づいたのは、カイだけだった。
食事の片付けの後、外に出ると空気が少し冷たかった。
星は変わらずきれいなのに、どこか落ち着かない。
「……カイ」
「ん?」
「なんでもないわ」
言いかけて、やめる。
うまく言葉に出来なかった。
そのとき。
風が、強く吹いた。
森の奥から、冷たい気配が流れてくる。
昨日よりも、はっきりと。
「……また」
リナが呟く。
「ああ」
カイの声が低くなる。
今度は、迷いがなかった。
“増えている”。
静かな日常のすぐ隣で、
その“何か”は、静かに形を変え始めていた。




