第6話:消えないもの
穏やかな時間が続いていたはずなのに――
あの日の“影”のことが、リナの中から離れなかった。
あの頃よりも、少しだけ背も伸びていた。
それでも――
分からないことは、まだ多い。
以前、母がいる時聞いたことがある。
「……ねえ、お母さん」
朝の支度をしながら、リナはぽつりと声をかける。
「なに?」
「この前の、黒いの……あれって何だったの?」
母の手が、一瞬だけ止まった。
ほんのわずかな違和感。
でも、すぐに元の動きに戻る。
「……ただの魔物よ」
「でも、なんだか違ったわ」
リナは首を振る。
「消えたくないみたいだったの」
その言葉に、母は静かにリナを見た。
やわらかい目のまま、少しだけ深く。
「……どうしてそう思ったの?」
「分からないわ。でも……そんな感じがしたの」
うまく説明できない。
それでも、あの感覚だけは確かだった。
母は少しだけ黙ってから、ゆっくりと息をついた。
「……リナ」
「なに?」
「もしもね」
言葉を選ぶように続ける。
「消えたくないものがあったら、どうする?」
不思議な質問だった。
でもリナは、少し考えてから答える。
「守るわ」
迷いなく言う。
「絶対に、消えないようにする」
その言葉に、母は小さく微笑んだ。
「……そう」
どこか、少しだけ寂しそうに母は言った。
今日もリナは森の少し開けた場所にいた。
いつもの練習場所。
けれど今日は、父はいない。
代わりに――
「おい」
後ろから声がする。
「ぼーっとしてると当たるぞ」
振り返ると、カイが小枝を投げてきた。
ひょい、とそれを避ける。
「いきなり何するのよ」
「集中してねえだろ」
「してるわよ」
「してねえ」
即答だった。
リナは少しだけむっとする。
「……してるわ」
「じゃあ、やってみろよ」
軽く顎で示す。
リナは剣を構える。
踏み込み、振る。
でも――
少しだけ、迷いがあった。
動きが鈍る。
その隙を、カイは見逃さなかった。
すっと距離を詰める。
軽く、剣を弾く。
「……ほらな」
リナの剣が、わずかにぶれる。
「……っ」
悔しさが込み上げる。
「今のは」
「今のが全部だろ」
淡々と言う。
リナは何も言い返せなかった。
影のこと、ずっと聞けなかった。
でも今日はなんとなく悔しさと勢いに任せて聞けるような気がした。
「……どうして」
小さく呟く。
「ねえ…どうして、あんなものがあるの」
影のことだった。
カイは少しだけ目を細める。
「……さあな」
「知ってるんでしょ」
はっきりと言う。
「カイ、あの時……知ってるみたいだったわ」
カイは黙る。
その沈黙が、答えみたいだった。
「……教えてよ」
リナが一歩近づく。
「なんだったの、あれ」
少しだけ、声が揺れていた。
怖いのではなく、“分からないこと”が不安だった。
カイは視線を逸らす。
言うかどうか、迷っているように。
でも――
「……あれは」
ぽつりと、口を開く。
「“残ったもん”だ」
「残ったもの?」
「そうだ」
短く頷く。
「消えなかった感情とか、記憶とか……そういうのが、形になったもん」
リナは息を呑む。
「……そんなの、あるの?」
「ある」
迷いなく言う。
「人間は、全部捨てて消えるわけじゃねえからな」
その言い方が、妙に現実的だった。
「じゃあ……」
リナはゆっくりと口を開く。
「あれは……誰かのものなの?」
「……たぶんな」
カイの声が、少しだけ低くなる。
「恨みとか、後悔とか……そういうのが強いと、残りやすい」
リナはあの影を思い出す。
形を変えて、消えずに、そこに在ろうとしていたもの。
「……あれ」
小さく呟く。
「消えたくなかったのね」
カイは何も言わない。
否定しなかった。
「……でも」
リナは顔を上げる。
「危ないわ」
「まあな」
「誰かを傷つけるなら……止めないと」
まっすぐな言葉だった。
迷いがない。
カイはその顔を見て、少しだけ目を細める。
「……おまえらしいな」
「なによ」
「別に」
少しの沈黙。
風が木々を揺らす。
その中で、カイがぽつりと呟いた。
「……全部が悪いわけじゃねえけどな」
「え?」
「残ってるもんの中には、そうじゃないのもある」
「どういうこと?」
リナが問い返す。
カイは少しだけ迷ってから、言った。
「……消えたくない理由が、悪いもんとは限らねえってことだ」
リナはその言葉を、ゆっくりと受け止める。
そして――
「……じゃあ」
静かに言う。
「ちゃんと見ないといけないわね」
「なにを」
「それが、何なのか」
真剣な目だった。
ただ倒すだけじゃない。
ちゃんと理解しようとしている目。
カイは少しだけ息を吐く。
「……面倒くさいやつ」
「なによそれ」
「いや」
小さく笑う。
「そういうとこ、嫌いじゃねえよ」
そのときだった。
風が、少しだけ強く吹いた。
森の奥から、冷たい気配が流れてくる。
リナが顔を上げる。
「……あの時の?」
「……ああ」
カイも同じ方向を見る。
今度は、はっきりと分かった。
“あれ”が、増えている。
家の中で、父がふと顔を上げぽつりとつぶやく。
「……広がっているな」
母が静かに頷く。
「ええ。思ったよりも」
「あの時よりも……森全体に滲んでいるわ」
その“何か”は、確実に近づいていた。




