第5話:影の気配
両親が戻ってきてから、数日が経った。
にぎやかな時間にも少し慣れてきた頃、明るいはずの森に静かに忍び寄る暗い影の姿があった。
風は吹いているはずなのに、葉の音がやけに遠い。
鳥の声も少ない。
まるで、何かを避けるように、森全体が息を潜めているみたいだった。
「……変ね」
リナは立ち止まる。
隣を歩いていたカイも、足を止めた。
「どうした」
「なんだか……静かすぎるわ」
「そうか?」
カイは周囲を見渡す。
けれど、その目はいつもの軽さがなかった。
わずかに、鋭い。
「おまえ、気づくの早いな」
「え?」
「いや、なんでもねえ」
すぐに視線を逸らす。
でも、その一瞬の表情が、リナの胸に小さな引っかかりを感じる。
今日は少し森の奥まで来ていた。
薬草を取りに行く途中で、気づけばいつもより深い場所まで入ってしまっていたのだ。
「戻った方がいいかしら」
「……まだいい」
カイは短く言う。
「もう少しだけ行こう」
「でも」
「すぐ戻る」
言い方は軽いのに、どこか強かった。
リナは少し迷ってから、頷く。
「……分かった」
しばらく進んだところで、それは現れる。
最初は、ただの木の影だと思った。
木の根元に、黒い染みのようなものが広がっている。
けれど――
「……あれ」
リナが足を止める。
それをよく見ると、ゆっくりと動いていた。
地面から滲み出るように、形を変えながら。
「……なんなの、あれは」
知らないものだった。
見たことがないはずなのに、体の奥がざわつく。
本能的な“嫌な感じ”。
カイが一歩前に出た。
「下がれ」
低い声だった。
「え?」
「いいから」
その一言に、迷いはなかった。
リナは思わず一歩下がる。
その瞬間――
影が、動いた。
音もなく、こちらへ伸びてくる。
「っ……!」
リナは剣を構えた。
けれど、その前にカイが踏み込む。
速かった。
さっきまでの軽さが嘘みたいに、迷いのない動き。
振り下ろす。
剣に、わずかな白い光が宿る。
次の瞬間、影が弾けるように揺れた。
「……!」
リナは息を呑む。
斬れた、わけじゃない。
けれど確かに、“削れた”。
影が少しだけ薄くなる。
「……効いてる?」
思わず呟く。
「完全じゃねえけどな」
カイは短く答える。
そのまま、もう一度踏み込む。
影は形を変えながら、じわじわと広がる。
まるで、逃げるでもなく、攻めるでもなく
――ただそこに“在り続けよう”としているみたいに。
「これ……」
リナは目を凝らす。
さっき削れた部分が、ゆっくりと元に戻ろうとしていた。
「消えない……?」
その言葉に、カイが一瞬だけ動きを止める。
そして、小さく息を吐いた。
「……そういうもんだ」
「え?」
「いや、なんでもねえ」
また、はぐらかす。
でも今のは、明らかに“知っている”言い方だった。
そのときだった。
影が、わずかに形を歪める。
人のような、何かに。
輪郭が揺らぎながら、伸びていく。
その瞬間、リナの胸が強くざわついた。
「……いや」
思わず声が漏れる。
理由は分からない。
でも、これは――
“見ちゃいけないもの”だと、直感が告げていた。
カイが一歩、強く踏み込む。
「……見るな」
低く言う。
その声は、さっきまでと違っていた。
少しだけ、強く。
少しだけ、焦りが混じっている。
「カイ……?」
「いいから、下がってろ」
振り返らないまま言う。
そして、もう一度剣を振るった。
白い光が、さっきよりも強く灯る。
影が大きく揺れる。
その奥に
一瞬だけ――
“何か”が見えた気がした。
黒い塊の中心。
形を持たないはずのそれの中に、わずかに光る“核”のようなもの。
「……なに、あれ」
リナが思わず呟く。
その瞬間、カイの動きがわずかに止まる。
「見えたのか」
「え?」
「……いや」
すぐに打ち消す。
けれど、その声はいつもより低かった。
次の一撃で、影は大きく揺れて――
そして、ふっと消えた。
まるで最初から何もなかったみたいに。
静寂だけが残る。
「……なに、今の」
リナが息を整えながら言う。
手が少し震えていた。
「さあな」
カイは剣を下ろす。
その表情は、もういつもの軽いものに戻っていた。
「でも、消えたわよね」
「まあな」
「……変なの」
リナは周囲を見渡す。
森は、元の静けさを取り戻していた。
さっきの異様な空気が、嘘みたいに。
「戻るぞ」
カイが言う。
「ええ」
リナは頷く。
でも、歩き出してからも、胸のざわつきは消えなかった。
そして少し離れた木々の影の中で、
その一部始終を見ている気配があったことに、
リナは気づいていなかった。
家に着くと、すぐに父と母が外に出てきた。
「……遅かったな」
父の声が低い。
「森の奥まで行ってたの」
リナが答える。
「そしたら、変な影みたいなのが出て――」
その言葉で、空気がわずかに張り詰めた。
「影?」
母の声が、静かに落ちる。
「ええ。黒くて、動いてて……カイが倒してくれたの」
その瞬間、父と母の視線がカイに向く。
今度は、はっきりとした緊張を含んでいた。
父はすぐには言葉を返さなかった。
ただ一度だけ、カイの様子を確かめるように見る。
「……そうか」
短く、それだけを言う。
「リナ、森の奥には入るな」
「え?」
「しばらくは、手前だけにしておけ」
「……分かった」
納得しきれないまま頷く。
その横で、母が静かに続けた。
「カイ」
「ん?」
「無理はしないでね」
やわらかな言葉だった。
けれど、その奥には確かな意味があった。
カイは一瞬だけ目を細めて――
「……分かってる」
短く答えた。
その夜。
リナはベッドの中で、目を閉じていた。
けれど、なかなか眠れない。
頭の中に、あの影が浮かぶ。
形のない黒いもの。
そして――
「……消えない」
ぽつりと呟く。
あのとき、確かに思った。
あれはただの“敵”じゃない。
もっと、別の何か。
「……違う」
小さく首を振る。
「“消えたくない”のかもしれないわ」
自分でも、なぜそんなふうに思ったのか分からなかった。
でも。
そう感じた。
そしてもう一つ。
頭から離れないことがあった。
「……カイ」
あのときの表情。
あの言い方。
あれは――
「……知ってるの?」
答えは、聞こえない。
ただ静かに、夜だけが更けていった。




