番外編1:消えかけた約束
過去編の中で描かれたエマ編より少し前の出来事。
カイが森の奥の畑でエマとその父に出会い、リナをそこへ連れていくまでの記憶。
本編では語りきれなかった、“約束”が生まれる前の小さな時間。
森の奥に、その畑はあった。
不自然なほど整えられた土。
野菜は規則正しく並び、雑草ひとつ見当たらない。
人の手が、きちんと入り続けている場所。
だが同時に、どこか“閉じている”空気があった。
外界から切り離されたような、静けさ。
風は吹いているのに、音が少ない。
その境界に、カイは立っていた。
森の中を歩いているうちに、偶然見つけた場所だった。
いや、偶然というには、少し違うのかもしれない。
カイは影に狙われる。
そして、影の気配を見つける。
だから、こういう場所に辿り着くことがある。
人の感情が、深く沈んでいる場所。
忘れたはずのものが、まだ残っている場所。
「……そこにいるのは誰だ」
低い声が飛んだ。
カイは振り向く。
畑の奥から、男がゆっくりと歩いてくる。
無駄のない足取り。
穏やかな顔。
けれど、その奥にわずかな緊張があった。
その目は、カイを見ていた。
“子ども”としてではない。
もっと別のものとして。
何か危ういものを測るように。
「……迷ったのか?」
問いかけながらも、男は距離を測っていた。
カイは答えない。
ただ、男を見返す。
沈黙。
数秒。
それだけで、互いに理解した。
普通じゃない。
男は、小さく息を吐いた。
「……そうか」
そして、ほんのわずかに力を抜く。
「水、飲むか」
差し出されたのは、敵意ではなかった。
試すでも、排除するでもない。
“受け入れる”側の選択。
カイは一瞬だけ迷う。
それでも。
「……あるなら」
短く答えた。
男は何も言わず、井戸のそばに置いてあった木の杯に水を汲んだ。
カイはそれを受け取る。
ぬるい。
けれど、嫌ではなかった。
喉を通る水の感覚が、思っていたよりもはっきりしている。
男は、カイの様子を見ながら静かに口を開いた。
「名前は?」
「……カイ」
「そうか」
それ以上、踏み込まない。
けれど視線は、外さない。
「……森の外から来たな」
「……まあな」
「追われてる顔だ」
カイの手が、わずかに止まる。
男は続けた。
「安心しろ。ここは“外れ”だ」
一拍。
「普通の人間は来ない」
その言い方に、カイの目が細くなる。
「……あんたは普通なのか?」
男は少しだけ笑った。
「昔は、違ったかもしれないな」
土に視線を落とす。
「今はただの農夫だ」
嘘だ。
カイは直感でそう思った。
理由は分からない。
だが、この男は“知っている側”だ。
影を知らない人間の目ではない。
記憶に触れたことのない人間の呼吸でもない。
男の背後にある畑は、あまりにも整いすぎていた。
守るために整えられた場所。
逃げるために閉じられた場所。
そんな気配がする。
「お父さーん!」
明るい声が、空気を切り裂いた。
小さな女の子が走ってくる。
無防備な足取り。
まっすぐな笑顔。
カイは反射的に少し身構えた。
「誰、その人!」
少女は父親の隣まで来ると、遠慮なくカイを見上げた。
男は短く答える。
「……客だ」
「変な人じゃない?」
「変かもしれないな」
軽く言う。
その裏で、父親はほんのわずかに警戒を緩めていない。
少女はそんなことに気づいていないのか、気づいていても気にしていないのか、ぱっと笑った。
「わたしエマ!」
「……カイだ」
「カイ!」
エマは嬉しそうに名前を繰り返した。
そして、すぐに聞いた。
「また来る?」
いきなりだった。
カイは一瞬だけ言葉に詰まる。
また来る理由などない。
この場所に用があるわけでもない。
けれど、追い払われなかった。
それだけが、少しだけ引っかかった。
「……気が向いたらな」
そう返すと、エマは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、気が向いてね!」
その無茶な言い方に、カイはほんの少しだけ眉を動かした。
父親はそれを見て、初めて少しだけ表情を緩めた。
それから。
カイは、何度かその畑を訪れた。
理由は、特にない。
ただ、来ても追い返されない場所だった。
それだけで、十分だった。
エマはいつも騒がしかった。
畑の中を走り、父親に叱られ、カイを見つけると手を振った。
「カイ! 今日は手伝う?」
「手伝わない」
「えー」
「邪魔になる」
「じゃあ見てて!」
「それも邪魔だろ」
「ひどい!」
そう言いながら、エマは笑う。
その笑顔は、森の中の空気を少しだけ軽くした。
父親は、そんな二人を遠くからよく見ていた。
警戒が消えたわけではない。
けれど、最初のような鋭さは少しずつ薄れていった。
ある日。
畑の端で、カイが落ちていた木の枝を拾ったときだった。
「……力の使い方、分かってないな」
父親がぽつりと言った。
カイは手を止める。
「なんの話だ」
「誤魔化すな」
視線が合う。
その目は、はっきりと見抜いていた。
「お前、“影に触れてる”だろ」
空気が、変わる。
カイの指先に、わずかな熱が宿る。
炎。
ほんの一瞬だけ、揺れる。
父親の目が細くなった。
「……やっぱりな」
確信。
「どこでそれを手に入れた」
「……知らねえよ」
それは嘘ではなかった。
カイは、自分の力の始まりを知らない。
覚えていない。
ただ、できる。
そうするしかなかった。
「そうか」
男はそれ以上、追及しなかった。
だが、目は逸らさない。
「――それは、人を守る力にも、壊す力にもなる」
静かに言う。
「どっちを選ぶかは、お前次第だ」
カイは何も答えない。
ただ、視線を逸らした。
そんなことを選べる立場にいるとは思えなかった。
影が来れば、斬る。
必要なら、燃やす。
記憶が邪魔なら、切る。
それだけだった。
けれど、その言葉は残った。
守る力にも、壊す力にもなる。
「カイー!」
エマが走ってくる。
いつも通りの笑顔。
その無防備さに、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。
父親はその様子を見て、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
間に合うか。
胸の奥で、小さく願う。
何に間に合うのか。
誰を救いたいのか。
それはもう、自分でも分からなくなりかけていた。
ある日。
カイは、リナを連れてきた。
森の空気が、少しだけ変わった。
「……こんなところ、あったのね」
リナが驚いたように呟く。
その目は、まっすぐで。
濁りがない。
父親は、それを見てすぐに分かった。
この子は、違う。
カイと同じ“側”に立ちながら、壊れていない。
影の気配を感じる場所にいても、飲まれていない。
誰かの感情に触れても、ただ削られるだけではない。
繋げるものを持っている。
「カイー!」
エマが駆け寄る。
そして、リナを見て――目を輝かせた。
「かわいい! 目がとてもきれいね! お人形さんみたい!」
空気が、一気に柔らかくなる。
リナが戸惑いながら笑った。
「リナよ」
「リナおねえちゃん!」
エマは迷わず手を引く。
リナは少し驚きながらも、そのままついていった。
その光景を、父親はじっと見ていた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
視線を、カイに向ける。
休憩の時間。
暑い日差しを避けるように、木陰で水を飲んでいた。
エマがはしゃぎ、リナが笑う。
その横で、父親はカイにだけ聞こえる声で言った。
「……あの子は、守れる」
「……は?」
「お前と違ってな」
カイの眉がわずかに動く。
「どういう意味だ」
「“繋ぎ止める側”だ」
静かな断言。
「影に触れても、飲まれない」
一拍。
「だから連れてきたんだろ」
カイは、何も答えなかった。
だが、否定もしなかった。
リナを連れてきた理由を、カイ自身もはっきりとは分かっていなかった。
ただ、エマが喜ぶと思った。
リナなら、ここにいても壊れないと思った。
それだけだったのかもしれない。
少し影が長くなり始めた頃、帰ろうとしていたときだった。
夕焼けが森を赤く染める。
「ねえ、リナおねえちゃん」
エマがリナの服を引く。
「また来る?」
まっすぐな目。
迷いのない声。
リナは、少しだけ考えた。
それから、笑った。
「ええ、来るわ」
「ほんと?」
「約束する」
その言葉に、エマはぱっと笑う。
「やった!」
その光景を、父親は静かに見ていた。
そして、空を見上げる。
肌を刺すような風が、何かを知らせるように吹いていた。
冷たい。
ほんのわずかに。
空気が沈む。
来るな。
心の中で呟く。
視線を、森の奥へ向ける。
何も見えない。
だが、“何か”は確実に近づいているのが分かった。
カイも、それに気づいていた。
何も言わない。
ただ、リナとエマに目を向ける。
二人は笑っている。
無防備で。
明るくて。
壊れやすい光景。
「……」
ほんの一瞬、カイの視線が揺れた。
それから、いつもの無表情に戻る。
リナとエマの約束は、まだ温かいままだった。
けれど。
その約束が何を引き寄せるのかを。
知っていたのは――大人だけだった。




