第1話:残響の場所 前編 王都北編
これは、海編のあと――ジンと別れたリナとカイが、王都北へ向かった先の話。
失踪事件の気配を追うはずだった二人は、カイの過去が残る場所へ辿り着く。
そこで待っていたのは、忘れたはずの記憶と、すべてを知る男だった。
夕暮れが、森を赤く染めていた。
王都の北。
人の気配は、もうほとんどない。
道と呼ぶには頼りない土の上を、リナとカイは並んで歩いていた。
海辺の湿った風とは違う。
ここにあるのは、乾いた土の匂いと、枯れ葉を揺らす冷たい風だった。
港町を出てから、いくつかの町を越えた。
ジンに教えられた失踪事件の噂を追い、王都の北へ向かううちに、二人はこの森へ辿り着いた。
人が消えている。
ただの影ではない。
その言葉は、ずっと胸の奥に残っていた。
けれど、ここに近づくにつれて、リナは別の違和感も覚えていた。
胸元の琥珀が、時折小さく震える。
強い反応ではない。
けれど、何かを覚えているように、静かに熱を持つ。
「……この先なの?」
リナが小さく聞く。
カイは前を向いたまま答えた。
「ああ」
短い返事だった。
その横顔は、海で見ていたときより少し硬い。
港町での一ヶ月で、カイは前よりも表情が分かりやすくなった。
全部を言葉にするわけではないけれど、怒っているとき、心配しているとき、迷っているときくらいは、リナにも少しずつ見えるようになってきた。
でも今の顔は、そのどれとも少し違う。
知らない場所へ向かっているはずなのに、どこか覚悟しているような。
覚えていないものに、もう一度近づいているような。
そんな顔だった。
森の奥へ進むほど、空気は重くなっていった。
鳥の声が消える。
枝が擦れる音だけが、乾いて響く。
そして、その先に――崩れた石造りの建物があった。
「……ここ、なのね」
リナが足を止める。
壁は崩れ、屋根はない。
かつて建物だったものが、どうにか形だけを保っている。
苔の生えた石壁。折れた柱。焼け焦げたような黒い跡。
人が住んでいた場所には見えない。
けれど、ただの廃墟とも違った。
ここには、何かが残っている。
“施設跡地”。
かつて人がいた場所。
そして――何かが終わった場所。
「……ああ」
カイが短く答える。
視線は、まっすぐ前に向けたまま。
「ここだ」
それだけ言って、歩き出す。
瓦礫を踏む音が、やけに響いた。
リナも後に続く。
中に入ると、空気が変わった。
風はある。
けれど、流れていない。
まるで時間だけが、ここに置き去りにされたようだった。
「……前と、似てる」
リナがぽつりと呟く。
「山で会ったとき」
あのときも、こんな空気だった。
静かで。
張り詰めていて。
何かが“見ている”ような。
カイは何も言わない。
ただ、歩く。
奥へ。
奥へ。
建物の中には、部屋の名残らしきものがいくつもあった。
崩れた壁。
割れた床。
黒ずんだ石。
風にさらされて、ほとんど形をなくした机の残骸。
リナは胸元の琥珀に触れる。
熱いわけではない。
けれど、沈黙しているわけでもない。
ここにあるものを、琥珀は確かに感じている。
ふと、カイの足が止まった。
崩れた床の一角。
黒く、焼けた跡。
他の場所と違って、色が深い。
炎が一度だけ通ったのではなく、長い時間、そこに熱が残り続けたような跡だった。
「……火事?」
リナが小さく言う。
カイは、その跡を見下ろしたまま――
「……ああ」
それだけ答える。
短く。
それ以上は続けない。
でも、視線は動かない。
リナは、声をかけようとしてやめた。
今のカイに、簡単な言葉は届かない気がした。
慰めるには早い。
聞き出すには、まだ深すぎる。
ただ隣にいることしかできない。
その瞬間だった。
ふっと、空気が揺れた。
「……っ」
カイの呼吸が止まる。
音が遠くなる。
風も、木々のざわめきも、リナの気配さえも、薄く引いていく。
代わりに――声が、聞こえた。
「カイ、こっちに来て」
優しい声だった。
カイは、反射的に振り向く。
そこにいたのは、女だった。
柔らかい金色の髪。
穏やかな目。
白い指先が、小さな手を招いている。
「そんなに走ったら転ぶわよ」
困ったように笑う。
その横で、男が肩をすくめた。
「ほっとけ。元気なのはいいことだ」
低い声。
でも、どこか楽しそうだった。
「あなたに似たのよ」
「違いないな」
軽いやり取り。
当たり前のようにそこにある空気。
赤く染まった夕暮れ。
窓から差す光。
暖かな手。
誰かが笑う気配。
小さな手を引かれる。
温かい。
「今日は森に行くか?」
「行く!」
即答する声。
自分の声だと、少し遅れて分かった。
笑う気配。
夕暮れの光。
風の匂い。
胸の奥が、わずかに揺れる。
懐かしいのか。
苦しいのか。
それとも――。
分からない。
「……カイ!」
リナの声が、現実を裂いた。
視界が戻る。
崩れた建物。
冷えた空気。
黒い焼け跡。
さっきの光景は、もうどこにもない。
「大丈夫?」
リナがすぐ近くにいた。
少しだけ不安そうな顔。
手を伸ばしかけて、でも触れていいのか迷っている。
カイは何度か瞬きをした。
「……ああ」
短く答える。
けれど、その声はいつもより掠れていた。
リナは何も言わず、ただ待った。
カイは焼け跡を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
一拍置いて。
「……ここに、住んでたらしい」
ぽつりと、言う。
「え?」
「覚えてるわけじゃねえけどな」
視線は、焼け跡のまま。
「……でも」
言葉が、そこで止まる。
リナはカイの横顔を見る。
いつものように平静を装っている。
けれど、その奥にあるものは隠しきれていなかった。
ここは、ただの施設跡地ではない。
カイにとって、きっと始まりの場所だ。
覚えていないはずなのに、体のどこかが覚えている場所。
リナはそっと胸元の琥珀を握った。
琥珀も、微かに震えている。
まるでこの場所に残った記憶に、呼ばれているように。
風が吹いた。
森の奥から、冷たい空気が流れ込む。
その瞬間。
カイの指が、わずかに動いた。
「……来る」
低い声。
「え?」
リナが振り向く。
森の奥。
木々の隙間。
そこに――“影”ではない存在が立っていた。
黒い外套。
細身の体。
動いていないのに、空気だけが沈む。
見覚えのある気配。
「……また、あんたか」
カイが言う。
低く、鋭く。
男は一歩、前に出る。
瓦礫を踏む音が、やけに大きく響いた。
「……久しぶりだな」
静かな声。
感情のない、変わらない声。
リナの目がわずかに細くなる。
「……レヴァン」
山での記憶が蘇る。
あのときと同じ。
人を見ているようで、どこか観察しているような目。
でも――違う。
空気が、明らかに重い。
ここは、山ではない。
港町でもない。
誰かの依頼先でも、偶然辿り着いた場所でもない。
ここは、カイの過去が残っている場所だ。
レヴァンの視線が、二人をなぞる。
「来たか」
それだけ言う。
まるで――分かっていたかのように。
「……呼んだのはあんただろ」
カイが一歩踏み出す。
「クロードから聞いた」
レヴァンは否定しない。
「そうだ」
あっさりと認める。
「ここに来れば、分かる」
一拍。
「お前が何者か」
風が止まる。
「……は?」
カイの声が低くなる。
リナが一歩だけ前に出る。
「どういう意味?」
レヴァンの視線が、わずかに動く。
リナを見る。
山で見たときと同じ目。
冷たいが――あのときより、深い。
「そのままの意味だ」
短く言う。
そして、再びカイへ。
「お前は、ここで始まった」
焼け跡を一瞥する。
「そして――終わった」
空気が、沈む。
カイの手が、剣の柄にかかる。
わずかに。
だが、はっきりと。
「……何を知ってる」
低い声。
押し殺した怒りが滲む。
レヴァンは答える。
間を置かずに。
「全部だ」
その一言で、十分だった。
風が止む。
音が消える。
夕暮れが、ゆっくりと夜に沈んでいく。
その中心で――三人が、再び向き合っていた。
今度は、“確認”じゃない。
逃げ場のない場所で。
過去と、向き合うために。
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