第9話 波の向こう側 海編3 完結
空は、少しだけ曇っていた。
朝の港は、いつもより静かだった。
船の軋む音も、人の声も、どこか遠い。
普段なら、朝早くから荷を運ぶ者や魚を並べる者で通りは騒がしい。
けれどその日は、港全体が息を潜めているようだった。
「……静かだな」
カイが呟く。
「こういう日は出る」
ジンが短く返した。
軽さはない。
完全に“仕事の顔”だった。
リナは依頼書を握りしめる。
昨日の夜、カイとジンが感じた海の違和感。
それを聞いたとき、不思議と驚きはなかった。
リナも、ずっと感じていたからだ。
灯台で触れた記憶の残滓。
港町に流れ着く小さな後悔。
波の奥で、ときどき琥珀を震わせる何か。
ずっと沈んでいたものが、少しずつ浮かび上がろうとしている。
そんな気がしていた。
「今日の依頼、場所は?」
リナが紙を見ながら聞く。
「沖だな。少し遠い」
ジンが答える。
「船、出せる?」
「もう頼んでる」
いつもの調子。
でも、どこか違う。
三人は言葉少なに船へ向かった。
小型船は、ゆっくりと港を離れた。
波の揺れ。
風の強さ。
濡れた木材の匂い。
リナは船縁に片手を置き、深く息を吸う。
最初にこの港へ来た日。
船酔いでまともに立っていられなかったことを思い出す。
今も得意ではない。
けれど、もうあのときとは違う。
「……大丈夫か?」
カイが横を見る。
「……うん、前よりは慣れてきたから」
少しだけ顔色は悪い。
それでも、ちゃんと立っている。
「無理すんな」
「分かってる」
短いやり取り。
ジンはその様子を見て、少しだけ目を細めた。
「無理すんな、ね」
「何だよ」
カイが睨む。
「いや? ちゃんと昨日の話、覚えてんなと思って」
「うるせえ」
リナは二人を見比べる。
「昨日の話?」
「男同士の話」
ジンが軽く笑う。
「気になる?」
「少し」
リナが正直に答えると、カイがすぐに口を挟んだ。
「気にしなくていい」
「そう言われると気になる」
「聞くほどの話じゃない」
「そう?」
リナが首を傾げると、ジンはにやりと笑った。
「まあ、要するに」
「言うな」
カイの声が低くなる。
ジンは両手を上げた。
「はいはい。怖い怖い」
その軽いやり取りのあと、空気がふっと変わった。
沖に出てすぐだった。
海面が、静かになった。
風は吹いている。
波も揺れている。
けれど、船の周りだけ、音が遠のいたように感じる。
リナの胸元で、琥珀が熱を持った。
「……来るぞ」
ジンの声が落ちる。
次の瞬間。
海面が、歪んだ。
黒い影が、ゆっくりと浮かび上がる。
それは、今まで見てきた小さな影とは違っていた。
ただ黒いだけではない。
形がある。
人のようで、人ではない。
海藻のように揺れ、波のように広がり、けれど中心だけはぶれずに沈んでいる。
「……大きい」
リナの声が、わずかに震える。
ただの影じゃない。
形が安定している。
揺れない。
「感情が強いタイプだな」
ジンが低く言う。
「核が奥にある。厄介だ」
「分かってる」
カイが前に出る。
「カイ――」
リナが呼ぶ。
けれどカイは、影から目を離さなかった。
「今回は、俺がやる」
短く、それだけ言った。
次の瞬間、踏み込む。
炎が走った。
船の甲板を蹴り、カイは一気に距離を詰める。
水面から伸び上がった影へ、炎を纏った剣が振り下ろされた。
黒い影が裂ける。
焼けるような音がする。
けれど、すぐに戻る。
「……っ」
リナが一瞬止まる。
また、一人で――。
そう思った。
けれど、ジンは動かない。
「……いいの?」
リナが小さく聞く。
「いい」
ジンは答える。
「今はな」
視線は、カイから外さない。
影が形を変える。
触手のように広がり、カイを囲むように伸びていく。
カイは避ける。
斬る。
焼く。
速い。
正確。
けれど――
「……浅い」
ジンが呟く。
核に届かない。
カイの攻撃は強い。
けれど、その強さが影の表面を削るだけで、奥に沈んだ核には届いていない。
全部、自分で終わらせようとしている。
その動きは、リナにも分かった。
カイは強い。
けれど今の彼は、誰かを守るためではなく、誰かを近づけないために前へ出ている。
「カイ!」
リナが声を上げる。
「後ろ!」
一瞬。
影の動きが変わった。
死角。
水面の下から伸びた黒い腕が、カイの背後へ回る。
「分かってる!」
振り向きざまに炎を放つ。
だが――間に合わない。
その瞬間。
「――止まれ」
リナの声が響いた。
琥珀が、光る。
空気が変わった。
影の動きが、一瞬だけ鈍る。
その瞬間、リナの中へ“迷い”が流れ込んできた。
恐怖。
執着。
沈みたくない。
消えたくない。
忘れられたくない。
そして、その奥にある、小さな声。
帰りたい。
リナの胸が痛む。
これは、誰かの人生だった。
誰かが抱えきれなかった想いだった。
海に沈み、流され、忘れられ、それでも消えきれなかった残滓だった。
「……っ」
足元が揺れる。
船酔いとは違う吐き気が込み上げる。
けれど、リナは手を離さなかった。
「今だ!」
ジンが動く。
風が走る。
影の揺らぎを裂くように、カイへの軌道を開く。
「チッ……!」
カイが舌打ちする。
でも――踏み込む。
炎を纏う。
一直線。
リナは水を引いた。
船縁を越え、海面を這うように水が伸びる。
影の足元を絡め取る。
完全に止めることはできない。
それでも、一瞬でいい。
「そこ!」
リナが叫ぶ。
ジンの風が導く。
リナの水が拘束する。
カイの炎が貫く。
三つの動きが重なった。
炎の刃が、影の奥へ届く。
核に、届く。
――沈黙。
そして。
影が、崩れた。
黒い靄がほどけ、海面に落ちるように消えていく。
その最後に、リナは一瞬だけ見た。
古い船。
荒れた海。
誰かの名前を呼ぶ声。
届かなかった手。
そして、灯り。
遠くで揺れる、小さな灯り。
それは灯台の記憶に似ていた。
けれど、同じではない。
もっと深い。
もっと古い。
港町のあちこちに残っていた記憶が、海の奥で繋がっているような感覚だった。
「……はあ……」
リナがその場に膝をつく。
息が荒い。
「無茶しすぎだ」
カイが言う。
でも、手は差し出している。
リナはそれを掴んだ。
「……そっちこそ」
少しだけ睨む。
「一人で行こうとしたでしょ」
「……」
カイは否定しない。
リナは立ち上がりながら、掴んだ手に少しだけ力を込めた。
「私は、後ろで見てるだけじゃないよ」
カイはリナを見る。
その目が、少し揺れた。
昨日の夜、ジンに言われた言葉が頭をよぎる。
選ばせること。
その結果ごと背負うこと。
カイは短く息を吐いた。
「……分かってる」
その返事に、リナは少しだけ笑った。
ジンが、少し離れたところでそれを見ていた。
やっと、形になったな。
そう思う。
「なあ」
ジンが歩み寄る。
「今の、どう思う?」
「……悪くねえ」
カイが短く答える。
「悪くねえ、じゃねえよ」
ジンが笑う。
「ちゃんと“三人でやった”だろ」
沈黙。
カイは何も言わない。
だが――
「……ああ」
小さく認める。
リナが少しだけ笑う。
ジンの視線が、カイに止まった。
さっきの一撃。
炎の使い方。
核の“終わらせ方”。
そして――琥珀との、わずかな共鳴。
リナが影を止めた瞬間。
カイの炎が、その揺らぎに呼応した。
偶然ではない。
ジンは、その感覚を知っている。
回収者として長く動いてきた中で、似たものを見たことがある。
影を癒す側ではない。
記憶を受け止める側でもない。
終わらせる側。
処理する側。
「……やっぱり」
小さく呟く。
誰にも聞こえないほどの声。
「こいつ……処理する側のやつか」
カイがちらりとジンを見る。
「何か言ったか」
「いや?」
ジンはいつもの調子で笑った。
「褒めたんだよ」
「嘘くせえ」
「ひどいな」
それ以上は言わない。
今は、まだ。
帰りの船。
空は、少し暗くなっていた。
雲が厚くなり、海の色も朝より深い。
波は静かなのに、どこか重く見える。
リナは船縁に手を置き、遠ざかる沖を見つめていた。
「……さっきのやつ」
ぽつりと言う。
「今までと違ったね」
「ああ」
カイが頷く。
「感情が濃い」
「……怖かった」
正直な言葉だった。
影に触れた瞬間、リナはたくさんの想いを感じた。
それは敵意だけではなかった。
消えたくないという願い。
帰りたいという祈り。
そして、誰かに覚えていてほしいという叫び。
怖かった。
でも――
「でも、逃げなかった」
カイが言う。
リナは少しだけ驚いて、カイを見た。
その横顔は静かだった。
褒めているのか。
認めているのか。
どちらにしても、カイの言葉はまっすぐだった。
「……うん」
リナは小さく笑った。
ジンは、二人を見ながら思う。
もう十分だな。
最初に会ったときとは違う。
迷っていた二人じゃない。
守るだけのカイでも、守られるだけのリナでもない。
二人は、互いを選び始めている。
「……そろそろか」
ぽつりと呟く。
波の音が、それをさらっていった。
海は、何も言わない。
でも。
確実に――何かを越えた一日だった。
夕方。
港は、ゆっくりと色を変えていた。
橙に染まる空。
静かに揺れる海。
戻ってきた船の影。
三人は、防波堤に並んで座っていた。
しばらく、誰も喋らない。
ただ――波の音だけ。
一ヶ月近く過ごした港町。
朝練をした砂浜。
食事をした店。
依頼を受けた紹介所。
何度も通った通り。
そのすべてが、夕方の光の中で少しだけ遠く見えた。
「……そろそろだな」
ぽつりと、ジンが言った。
リナが顔を上げる。
「え?」
「一ヶ月」
ジンは軽く笑う。
「ちょうどいい頃合いだろ」
その言葉の意味を、理解するのに時間はかからなかった。
「……行くの?」
「まあな」
あっさり。
いつもの調子。
でも――その声の奥に、少しだけ違う響きがあった。
「お前らもだろ」
ジンはカイに視線を向ける。
「……ああ」
短い返事。
もう、決まっている。
リナは海を見る。
この街にずっといるわけにはいかない。
それは最初から分かっていた。
影のこと。
琥珀のこと。
カイの過去。
レヴァン。
回収者。
向き合わなければいけないものは、まだたくさんある。
それでも、この一ヶ月が終わることが、少し寂しかった。
風が吹く。
「なあ」
ジンが続ける。
「一つ、情報」
軽い声。
でも、目は違う。
「王都の北な」
一拍。
「人、消えてる」
空気が、わずかに張る。
「……失踪?」
リナが小さく言う。
「ただの行方不明じゃねえ」
ジンは海を見たまま言う。
「……普通の影じゃねえ」
その一言が、重く落ちる。
カイの視線が、わずかに動いた。
「回収者は?」
「動いてる」
ジンが答える。
「でも、追えてねえ」
沈黙。
「……面倒そうだな」
カイがぼそりと言う。
「だから教えてやってんだろ」
ジンが笑う。
「お前ら向きだ」
リナは、少しだけ考える。
王都。
学園。
過去。
そして――琥珀。
行く理由は、ある。
視線を上げる。
「行こう」
はっきりと言う。
カイを見る。
カイは――
「……ああ」
迷いなく頷いた。
「決まりだな」
ジンが立ち上がる。
「いい顔してる」
軽く言う。
でも、それは本音だった。
三人は防波堤を離れ、船着き場の方へ歩いた。
夕方の港は、人の声が少しずつ夜の気配に混じっていく。
店先に灯りがともり、魚を焼く匂いが流れてくる。
何度も歩いた道。
けれど、今日は少しだけ違っていた。
船着き場の手前で、ジンが足を止める。
「じゃ、ここまでだな」
振り返る。
相変わらずの笑顔。
けれど、リナには分かった。
いつもの軽い笑みの奥に、ほんの少しだけ寂しさがあることを。
「世話になった」
カイが言う。
短く。
でも、ちゃんと。
「おう」
ジンが頷く。
そして――手を差し出す。
カイも、それを取った。
強く、握る。
言葉はいらない。
「……今のお前なら死なねえよ」
ぽつりと、ジンが言う。
カイは、一瞬だけ目を細めて――
「そりゃどうも」
小さく返した。
ジンは笑った。
それから、リナを見る。
「リナ」
「うん?」
「元気でな――」
そのまま、腕を広げる。
抱きつこうとする。
「ちょっ――」
次の瞬間。
「やめろ」
ゴン、と鈍い音。
カイの拳が入る。
「いてえな!」
「当たり前だ」
「挨拶だろ!?」
「距離がおかしい」
リナが思わず笑う。
「ふふ……」
その空気が、少しだけ軽くなる。
けれど、胸の奥はやっぱり少し寂しい。
「ジン」
リナが呼ぶ。
ジンがこちらを見る。
「ありがとう」
その一言に、ジンは少しだけ目を丸くした。
「朝練も、依頼も、色々教えてくれたことも」
リナは胸元の琥珀に触れる。
「たぶん、ここに来なかったら、分からなかったことがたくさんあった」
ジンはしばらく黙っていた。
それから、いつものように笑う。
「どういたしまして」
軽い声。
でも、その目は柔らかかった。
「リナちゃんも、ちゃんと選べよ」
「うん」
「カイに遠慮すんな」
「しない」
「ジンにもついていかない」
ジンが一瞬固まる。
カイが横で低く笑った。
「言われてるぞ」
「……成長したなあ」
ジンは大げさに胸を押さえる。
「ちょっと寂しい」
リナは笑った。
「また会えるよね」
「会えるだろ」
ジンは軽く手を振る。
「俺、しぶといから」
「知ってる」
「ひどいな」
そう言って、ジンは一歩下がった。
「またどっかでな」
軽く手を振る。
振り返らない。
そのまま、人混みの中へ消えていく。
しばらく、二人はその背中を見ていた。
人の流れに赤い髪が混じり、やがて見えなくなる。
「……行こうか」
リナが言う。
「……ああ」
カイが答える。
二人は歩き出した。
王都へ向かう道。
ふと、カイが足を止めた。
「……?」
リナが振り返る。
カイは、海の方を見る。
さっきと同じ景色。
同じ波。
同じ潮の匂い。
でも――
「……いや」
小さく言う。
「なんでもない」
だがその目は、わずかに細い。
残ってるな。
ほんのわずかな違和感。
気のせいかもしれない。
でも――確かに、何かがある。
リナも海を見る。
胸元の琥珀が、ほんの少しだけ熱を持った気がした。
「……まだ、終わってないのかな」
「かもな」
カイが答える。
海は何も言わない。
ただ、静かに揺れている。
風が吹く。
潮の匂いが、少しだけ遠くなる。
リナは前を見る。
王都へ。
次の場所へ。
「……行こう」
「……ああ」
並んで歩く。
今度は、迷わない。
波の向こう側で得たものは、確かに残っている。
それは、力だけじゃない。
繋がりと。
選ぶ覚悟。
そして――その先で待つものを。
まだ、二人は知らない。




