表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れたはずの彼が、気になってしまう。 ―琥珀の瞳が、嘘をつく―  作者: HANABI
海編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
56/68

第8話:選ばせる覚悟 海編3

「……あいつのことだよ」


波の音が、二人の間を満たした。


港の外れにある小さな酒場は、昼間の賑やかさから少し離れた場所にあった。

外に置かれた木のテーブル。

薄い灯り。

潮風に混じる、酒と塩の匂い。


人の声は遠い。

すぐ近くにあるのは、夜の海だけだった。


カイはグラスに視線を落とした。

琥珀色の液体が、灯りを受けて小さく揺れている。


「……一緒にいる」


短く答える。


「それだけか?」


ジンが聞いた。


「それだけだ」


即答だった。


迷いはない。

けれど、ジンはそれを聞いて小さく笑った。


「ほんとか?」


カイは答えない。

ただ、グラスを傾けた。


強い酒が喉を焼く。

慣れない熱が、胃の奥に落ちていく。


「リナちゃん、強くなるぞ」


ジンは海を見たまま言う。


「今よりもっとな」


「知ってる」


「剣も魔法も、感覚がいい。ナイフも覚え始めてる。琥珀だけじゃねえ。あの子自身に戦う力がある」


「……分かってる」


「なら、置いてくなよ」


カイの指が、グラスの縁で止まる。


「俺がいつ置いていった」


「置いていこうとしてるときがある」


ジンの声が少しだけ低くなる。


「危ねえと思った瞬間、お前は前に出る。悪いことじゃねえ。でも、リナちゃんが選ぶ前に、お前が道を塞ぐことがある」


カイは黙った。


その沈黙が、答えのようなものだった。


ジンはふっと視線を外した。


「前に話しただろ」


ぽつりと落ちる。


カイは何も言わない。


「昔、組んでた女の話」


「ああ」


「リナちゃんに似てるって言ったやつ」


その言葉に、カイの目がわずかに細くなる。


「重ねるなって言ったはずだ」


「分かってる」


ジンは軽く笑った。


けれど、その笑い方はいつもより静かだった。


「だから今は、似てるって話をしたいんじゃねえよ」


酒を一口含む。

琥珀色の液体が、灯りを受けて揺れた。


「俺はあいつを、自由にさせてたつもりだった」


波の音が、足元で小さく崩れる。


「止めるのは違うと思ってた。あいつが選んだなら、それを邪魔しちゃいけねえって。隣で見て、必要なときだけ手を貸せばいいってな」


一拍。


「でも、本当は違った」


カイは黙って聞いている。


「選ばせるってのは、放っておくことじゃねえ」


ジンの声が、少しだけ低くなる。


「危ないって分かってるなら言う。無茶だと思うなら止める。だけど、最後に決める場所は奪わない」


グラスが、木のテーブルに静かに置かれる。


「それができなかった」


波の音だけが残る。


「止めなかったんじゃない」


ジンは少しだけ目を伏せた。


「止める言葉を、俺が持ってなかった」


カイの指が、グラスの縁で止まる。


「で、届かなかった」


短い言葉だった。

けれど、その奥にある後悔は、軽く流せるものではなかった。


ジンは、もう笑っていなかった。


「だから言ってんだよ」


視線が、カイに向く。


「お前がリナちゃんを大事にしてるのは分かる。見りゃ分かるくらいにはな」


「……」


「でも、大事にすることと、後ろに置くことは違う」


カイは答えない。


「守るってのはな」


ジンは静かに続けた。


「隣に置くことじゃねえ。囲うことでもねえ」


一拍。


「選ばせることだ」


カイの指が、わずかに止まる。


「選ばせて、その結果ごと背負うことだ」


沈黙。


夜の海が、暗く揺れている。


カイは、リナが影に向かっていく姿を思い出していた。


船の上で、吐き気をこらえながら影の位置を示した姿。

灯台で、誰かの記憶の残滓に触れて膝をついた姿。

朝の砂浜で、ナイフに魔力をまとわせて前へ出た姿。


止めたかった。

下がらせたかった。


危ないものから遠ざけて、傷つかない場所に置いておきたかった。


けれど、リナはそこで止まる人間ではない。


分かっている。

最初から、きっと分かっていた。


「……分かってる」


カイが短く言う。


けれど、その声はさっきより重かった。


ジンは小さく笑った。


「ならいい」


「説教か」


「経験談だよ」


「重いな」


「酒の席だからな。少しくらい重くても許せ」


ジンはそう言って、またグラスを傾けた。


しばらく、波の音だけが続いた。


やがて、カイが口を開く。


「……あんたは」


「ん?」


「今も一人でやってるのか」


「ああ」


「組まねえのか」


「組まねえ」


即答だった。


「なんでだ」


ジンは少しだけ笑った。


「面倒なんだよ」


軽く言う。


でも。


「失うのがな」


カイの目が、わずかに細くなる。


その言葉だけは、軽くなかった。


ジンは海を見たまま続ける。


「誰かと組むってのは、楽だ。背中を預けられるし、届かない場所にも手が届く。ひとりじゃ見えないものも見える」


一拍。


「でも、そのぶん怖い」


酒の入ったグラスを軽く揺らす。


「自分のミスで相手が死ぬかもしれない。相手の選択を止められないかもしれない。守ったつもりで、逆に奪うかもしれない」


カイは黙っていた。


「だから、俺は一人でやってる」


ジンが笑う。


「格好悪いだろ」


「……別に」


「優しいな」


「そういう意味じゃねえ」


「分かってるよ」


ジンは少しだけ肩をすくめた。


「でも、お前は違うだろ」


カイの視線が、ジンに向く。


「リナちゃんと一緒に行くって決めたなら、ちゃんと腹括れ」


「……俺は」


カイが小さく言う。


「そうはならねえ」


ジンがちらっと見る。


「離さねえ」


短く。


それだけ。


一瞬。


空気が止まる。


ジンはカイを見た。

若くて、不器用で、言葉が足りない。


けれど、その一言だけは、ひどく真っ直ぐだった。


「……いい顔だ」


ジンがふっと笑う。


その笑みには、少しだけ苦味が混じっていた。


羨ましい、と思ったのかもしれない。

悔しい、と思ったのかもしれない。


それでも、今のカイなら。

少なくとも、自分よりは。


「じゃあ、ちゃんと離すなよ」


ジンが言う。


「俺が横から攫いたくなる前にな」


カイの視線が鋭くなる。


「やってみろ」


「冗談だって」


「冗談に聞こえねえ」


「半分くらいはな」


「おい」


ジンは笑った。


カイは睨んだまま、グラスを置く。


その空気は険しいようでいて、どこか奇妙に穏やかだった。


互いに本気で譲るつもりはない。

けれど、相手を完全に嫌っているわけでもない。


似ていない二人が、同じ一人を見ている。

だからこそ、ぶつかる。


だからこそ、少しだけ分かる。


「……あいつは、物じゃねえ」


カイが低く言った。


ジンは目を瞬く。


「連れていくとか、攫うとか。そういう話じゃない」


少し間を置いて、カイは続けた。


「リナが決める」


ジンの表情から、ほんのわずかに軽さが消えた。


「……分かってんじゃん」


「言われなくてもな」


「いや、言われて分かった顔してたぞ」


「うるせえ」


ジンは声を上げて笑った。


その笑い声は、夜の酒場に少しだけ明るく響いた。


酒がもう一杯置かれる。


「まだ飲むのか」


カイが眉を寄せる。


「お前は水にしとくか?」


「馬鹿にしてんのか」


「顔赤いぞ」


「……うるせえ」


「リナちゃんに怒られるな」


「言うなよ」


「どうしよっかな」


ジンが楽しそうに笑う。


カイは本気で面倒そうにため息をついた。


少しだけ、空気が緩む。


それでも、海は静かにそこにあった。


夜の底で、黒く揺れている。


カイはふと、グラスから視線を外した。

遠くの海を見る。


波はいつも通り。

風も同じ。

港の灯りも、変わらず海面に滲んでいる。


なのに。


胸の奥に、かすかなざらつきが残った。


「……」


カイが目を細める。


ジンはその横顔を見た。


「どうした」


「……今」


カイは海を見たまま、低く呟いた。


「何か、あった」


ジンの表情が消える。


ほんの一瞬だけ。

完全に、仕事の顔になった。


「何が」


「分からねえ」


カイは答える。


「でも、海の方だ」


波の音が聞こえる。


いつもより遠い。

それなのに、耳の奥に残る。


まるで、海の底で誰かが息を潜めているような。


ジンはしばらく黙っていた。

それから、ゆっくりグラスを置く。


「……やっぱりな」


小さな声だった。


カイが視線を向ける。


「知ってたのか」


「確信はなかった」


「今は?」


ジンは答えない。


その沈黙が、答えだった。


カイの目が鋭くなる。


「話せ」


「まだ早い」


「またそれか」


「今回は本当にだ」


ジンの声は軽くない。


「ただの影なら、もう少し分かりやすく出る。でも今回のは、溜まってる。海の奥で、ずっと沈んでるみたいにな」


「何が沈んでる」


「記憶か、感情か、もっと厄介なものか」


ジンは海を見る。


「まだ分からねえ」


カイは舌打ちした。


「分からないなら、明日見に行く」


「そう言うと思った」


「止める気か」


「まさか」


ジンはにやっと笑った。


「俺も行く」


夜の海が、静かに揺れた。


その揺れの奥に、何かがある。


カイはそれを確かに感じていた。

はっきりと見えたわけではない。

けれど、影の核を見抜くときに近い感覚があった。


表面ではない。

もっと奥。


隠れているもの。

沈められたもの。

忘れられたもの。


「……リナには」


カイが言いかける。


「言うだろ」


ジンが先に答えた。


「置いていくなって、今話したばっかだぞ」


カイは黙った。


ジンは少しだけ笑う。


「ただし、朝になってからな。今起こしたら本当に怒られる」


「……そうだな」


「お、素直」


「うるせえ」


二人は立ち上がった。


夜も更けた頃、街の明かりは小さくなっていた。


宿に戻る道の途中、潮風が少しだけ冷たく吹いた。


カイはもう一度、海の方を見る。


波はいつも通り。

風も同じ。


けれど確かに――そこに“何か”はあった。


ジンはその様子を、横目で見ていた。


気づくか。


ほんのわずかな違和感。

誰も言葉にはしない。


でも、もう見過ごせない。


「明日、沖に出る」


ジンが言った。


「ああ」


カイが短く答える。


「たぶん、軽くは終わらねえぞ」


「分かってる」


「リナちゃんも巻き込むことになる」


カイは足を止めない。


ただ、低く言った。


「選ばせる」


ジンは一瞬だけ目を細めた。


それから、ふっと笑う。


「いい返事だ」


宿の灯りが見えてくる。


その向こうで、リナが眠っている。

何も知らずに。

けれどきっと、朝になれば同じ場所へ立つと言う。


カイにはそれが分かっていた。


だからこそ、もう止めるだけではいられない。


守るために、遠ざけるのではなく。

隣で、その選択ごと背負う。


潮風が吹く。


波の音が、いつもより少しだけ遠く響いた。


その夜、海はまだ何も語らなかった。


ただ静かに、暗い水面の奥で、何かを抱えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ