表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘れたはずの彼が、気になってしまう。 ―琥珀の瞳が、嘘をつく―  作者: HANABI
海編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
55/68

第7話:近すぎる距離 海編3

昼下がりの港町は、朝とは違う熱を持っていた。


船から荷を下ろす声。

魚を焼く匂い。

通りを駆ける子どもたちの足音。

潮風に混じって、笑い声があちこちから流れてくる。


午前の依頼を終えた三人は、港の外れから宿へ向かって歩いていた。


依頼は難しいものではなかった。

古い倉庫の周辺に出る小さな影の処理。

以前なら少し手間取っていたかもしれないけれど、今では三人の動きはずっと滑らかになっていた。


ジンが逃げ道を塞ぎ、カイが核を見抜く。

リナは水で影の動きを止め、必要ならナイフで近距離を補う。


まだ完璧ではない。

それでも、最初の頃とは比べものにならないほど、形になっている。


「さっきのリナちゃん、よかったな」


ジンが歩きながら言った。


「水の置き方。あれ、かなり嫌な位置だった」


「本当?」


リナが顔を上げる。


「ああ。俺が相手だったら、ちょっと顔しかめる」


「それ、褒めてる?」


「かなり褒めてる」


ジンは笑った。


リナは少しだけ照れたように視線を落とす。


「……そっか」


その横で、カイがぼそりと言う。


「調子に乗るなよ」


「乗らないよ」


「褒められると顔に出る」


「出てる?」


「分かりやすい」


カイの言い方はそっけない。

けれど、その横顔は少しだけ柔らかい。


ジンはそれを見逃さなかった。


「お前さ」


「何だ」


「もうちょっと素直に褒めたら?」


「褒めただろ」


「今のが?」


「調子に乗るなって言った」


「それ褒め言葉じゃねえよ」


ジンが呆れたように言うと、リナがくすっと笑った。


「でも、カイなりには褒めてくれたんだと思う」


「リナちゃん、優しいなあ」


「お前は黙ってろ」


カイが即座に返す。


ジンは楽しそうに肩をすくめた。


「はいはい」


港の石畳を歩いていると、顔なじみになった店主たちが次々と声をかけてくる。


「おう、今日も朝から動いてたな!」


「ジン、あとで顔出せよ!」


「リナちゃん、昨日の灯台の件、ありがとねえ!」


「カイの兄ちゃんも、たまには笑えよ!」


「余計なお世話だ」


カイが低く返すと、周囲から笑い声が上がった。


最初の頃なら、こういう距離の近さにリナは少し戸惑っていただろう。

けれど今は、その声が不思議と温かい。


ここに来て、もうすぐ一ヶ月。


短いはずなのに、この街にはいくつもの記憶が残っている。


船酔いでしゃがみ込んだ桟橋。

ジンに連れられて初めて入った食堂。

毎朝通った砂浜。

灯台から見た海。

何気なく声をかけてくれる人たち。


全部が、少しずつリナの中に積もっていた。


「……いい街だね」


思わず呟く。


ジンが横を見る。


「だろ?」


「うん」


「俺の庭みたいなもんだからな」


「それは言いすぎ」


カイが即座に言う。


「いやいや、半分くらいは俺の庭」


「なら半分は誰のだよ」


「海のもの」


「雑だな」


そんなやり取りに、リナは笑った。


そのとき、ジンがふと足を止めた。


「なあ」


「何?」


リナが顔を上げる。


ジンは少しだけ視線を細めた。


「お前らさ」


一拍置いて、軽く笑う。


「いい感じになってきたな」


「……何が」


カイが眉を寄せる。


「全部だよ」


ジンは肩をすくめた。


「最初は危なっかしかったけどな」


「それは――」


リナが言いかける。


「事実だろ?」


ジンが笑う。


否定できない。


少し前の自分を思い出す。

船酔いでしゃがみ込みながら、必死に影の位置を指した日。

朝練で水の軌道を外し、ジンに何度も笑われた日。

灯台で記憶の残滓に触れすぎて、立てなくなりかけた日。


怖かった。

悔しかった。

分からないことばかりだった。


でも。


今は違う。


「まだ粗いけどな」


カイが言う。


「それは分かってる」


リナが少しだけ頬を膨らませる。


「でも、前より動けてるでしょ?」


カイはすぐには答えなかった。


けれど否定もしない。


少しの間のあと、ぼそりと呟く。


「……動けてる」


その一言で、リナの表情がぱっと明るくなった。


「今、褒めた?」


「事実を言っただけだ」


「それでもいい」


リナが笑う。


カイは視線を逸らした。


ジンはその横で、わざとらしく肩をすくめる。


「俺が褒めたときより嬉しそうじゃん」


「え?」


リナがきょとんとする。


「いや別に?」


ジンは笑った。


「ちょっと妬けるなって話」


「ジンもすぐそういうこと言う」


「本音かもよ?」


軽い声。


でも、ほんの少しだけ冗談に聞こえない。


カイの視線が、すっとジンへ向いた。


「余計なこと言うな」


「怖い怖い」


ジンは笑いながら両手を上げる。


リナはまた二人を見比べた。


意味はよく分からない。

けれど、二人の間にある空気が、最初の頃とは少し違うことだけは分かった。


敵意ではない。

でも、ただの仲間とも少し違う。


張り合っているような。

牽制し合っているような。


それでいて、どこか信頼しているような。


「リナちゃん」


ふと、ジンがリナの頭に手を置いた。


ぽん、と軽く。


いつもと同じ仕草。


「よくやってる」


そのまま、指先が少しだけ髪を撫でる。


一瞬、長い。


「……ちょっと」


リナが軽く払う。


でも、力は弱い。


いつものやり取り。


――の、はずだった。


ジンはそのまま、すぐには手を引かなかった。


少しだけ身体を寄せる。


高い背が、自然に影を落とす。

視線が近い。


逃げ場を塞ぐほどじゃない。


でも――距離が、いつもより近い。


「最初の頃と、顔違うな」


低く落ちついた声。


軽さはある。

けれど、どこか熱が混じる。


リナは思わず瞬きをした。


「顔?」


「うん」


ジンは笑う。


「前は、何かを見つけるたびに迷ってた。今は違う」


視線が、リナの手元へ落ちる。


太ももに隠したナイフ。

胸元の琥珀。

そして、剣に慣れた指先。


「ちゃんと選ぼうとしてる顔だ」


その言葉に、リナの胸が小さく鳴った。


選ぶ。


この一ヶ月、何度も出てきた言葉だった。

戦うのか、下がるのか。

消すのか、解放するのか。

守られるのか、自分で立つのか。


答えはいつも簡単ではなかった。


それでも、確かにリナは前より迷わなくなっていた。


「……そう、かな」


「そう」


ジンは言った。


そのまま、腕がゆっくりと動く。


触れるか、触れないか。


腰の位置で、止まる。


ほんのわずかに、指先が布をかすめる。


一瞬。


ためらいのようでいて、確かめるような間。


「なあ」


少しだけ、顔が寄る。


呼吸がかかる距離。


「このまま連れてってもいい?」


軽い言葉。


でも。


目が、笑っていない。


リナは息を止めた。


驚きと、戸惑い。

それから、自分でもよく分からない小さな緊張。


ジンは冗談を言う。

人との距離も近い。

誰にでも軽く踏み込んで、笑って引く。


けれど、今の声はいつもの軽さだけではなかった。


冗談の形をしているのに、どこか本気が混じっている。


だからこそ、リナはすぐに笑って流せなかった。


「おい」


低い声。


カイだった。


間に入るように、一歩。


距離を割る。


ジンの腕が、まだそこにある。


「いい加減にしろ」


ジンはすぐには動かなかった。


一拍。


カイを見る。


その視線を受けて――ようやく、手を離す。


「冗談だって」


少しだけ肩をすくめる。


「そういう問題じゃねえ」


間。


短い沈黙。


港の賑やかな音が、少し遠くなる。


「固いなぁ」


ジンが笑う。

いつもの調子に戻す。


でも、さっきより、ほんの少しだけ距離を取った。


「……やめとけ」


カイの声は、低いまま。


揺れない。


さっきより、確実に強い。


空気が、一瞬止まる。


ジンはそれを見て、ほんのわずかに目を細めた。


それ以上は踏み込まない。


「はいはい」


軽く手を上げる。


引く。


でも――


そういう顔、するか。


内心で、小さく笑った。


ただの牽制じゃない。

警戒でも、独占欲だけでもない。


カイはリナを止めようとしているのではなく、誰かに決めさせまいとしている。


そこに踏み込むな、と言っている。


ジンは、それが少しだけ面白くて。

少しだけ、悔しかった。


リナは二人の間に流れる空気を感じながら、そっと息を吐いた。


「……ジン」


「ん?」


「私は、連れていかれないよ」


ジンが少しだけ目を丸くする。


リナは、自分の胸元に手を当てた。


琥珀が静かにそこにある。


「行くなら、自分で行く」


その声は大きくなかった。

でも、まっすぐだった。


カイの表情が、ほんのわずかに変わる。


ジンは一瞬黙ってから、ふっと笑った。


「……そっか」


軽いようで、少しだけ苦い笑みだった。


「そりゃそうだ」


リナはそれ以上、何も言わなかった。


カイも何も言わない。


けれど、三人の距離は、ほんの少しだけ変わっていた。


夕方。


三人で港に座っていた。


沈む太陽。

揺れる海。

橙色に染まる波。


しばらく、誰も喋らない。


ただ――穏やかな時間だった。


昼間のことが、リナの中でまだ少し残っている。


ジンの距離。

カイの声。

あの一瞬、空気が変わった感覚。

そして、自分で言った言葉。


行くなら、自分で行く。


言ってから、少しだけ胸が震えた。


本当にそうできるのか。

どんな場所へでも、自分で選んで進めるのか。


分からない。


けれど、そうありたいと思った。


隣にいるカイは、海を見ている。

いつも通りに見える。

でも、どこか静かすぎる気もした。


「……怒ってる?」


リナが小さく聞いた。


カイは少し遅れてこちらを見る。


「何が」


「さっきのこと」


「別に」


「別にって顔じゃない」


自分がよく言われる言葉を返すと、カイはわずかに眉を寄せた。


「……あいつは距離がおかしい」


「うん」


「分かってるならいい」


「でも、ジンはたぶん、悪気だけじゃないよ」


「悪気がなければいいって話じゃねえ」


カイの声は低い。


けれど、怒っているというより、何かを抑えているようだった。


リナは少しだけ考えてから言う。


「止めてくれて、ありがとう」


カイは目を逸らした。


「礼を言われることじゃない」


「でも、ありがとう」


「……勝手にしろ」


その言い方が不器用で、リナは少し笑いそうになった。


その向こうで、ジンは海を見ていた。


聞こえているのか、いないのか。

分からない顔をしている。


でも、口元にはいつもの笑みがない。


夕日が沈み、空の橙が少しずつ薄くなっていく。


「……そろそろ戻るか」


ジンが立ち上がる。


「冷えてくるしな」


リナは小さく頷いた。


カイも立ち上がる。


三人で、ゆっくり歩き出す。


宿の前。

灯りが、ぽつぽつと点き始めている。


港町の夜が、また始まろうとしていた。


「じゃあ、また明日」


リナが振り返る。


「うん」


少しだけ名残惜しそうに笑う。


そのまま、扉に手をかける。


――そのとき。


「なあ」


ジンが軽く声をかけた。


リナが振り向く。


「俺ら、ちょっと飲んでくるわ」


軽く親指でカイを指す。


「え?」


「男同士の話ってやつ」


にやっと笑う。


「すぐ戻るから気にすんな」


リナは少しだけ目を丸くした。


ジンとカイが二人で飲む。


少し前なら、想像もできなかった組み合わせだ。


けれど、今なら不思議とあり得る気がした。


「……喧嘩しないでね」


「しねえよ」


カイが即答する。


「分かんないだろ」


ジンが笑う。


「でもまあ、たぶん大丈夫」


「たぶんって何」


リナが少し呆れる。


それから、くすっと笑った。


「飲みすぎないでね」


「善処する」


ジンが軽く手を振る。


「善処じゃなくて、ちゃんと守って」


「はいはい」


「カイも」


「俺は飲みすぎない」


「ほんと?」


「ほんとだ」


「じゃあ、信じる」


リナが笑う。


その笑顔に、カイは少しだけ黙った。


「……早く休め」


「うん。おやすみ」


扉が閉まる。


足音が遠ざかる。

明かりが、ひとつ消える。


少しの沈黙。


港の風が、二人の間を抜けていく。


「……行くぞ」


ジンが歩き出す。


カイも何も言わず、ついていく。


二人の背中が、宿の灯りから少しずつ離れていった。


港の外れへ向かう道は、昼間の賑やかさが嘘のように静かだった。


波の音だけが、近くで響いている。


ジンは前を歩きながら、ふっと笑った。


「いやあ、怒られたな」


「自業自得だろ」


「まあな」


「分かっててやったのか」


カイの声が低くなる。


ジンは振り返らず、肩をすくめた。


「半分くらい」


「お前な」


「確かめたかったんだよ」


「何を」


ジンは少しだけ足を止める。


横顔だけで、カイを見る。


「お前が、どこまで踏み込むのか」


夜風が、二人の間を通り抜ける。


カイの目が細くなる。


「試したのか」


「怒るなよ」


「怒ってる」


「だろうな」


ジンは笑った。


でも、その笑みはいつもより少しだけ静かだった。


「けど、悪かったとは思ってる」


「リナに言え」


「明日な」


「今言え」


「もう寝かせてやれよ」


カイはしばらくジンを睨んでいた。


けれど、それ以上は言わなかった。


小さな酒場が見えてくる。


外に置かれた木のテーブル。

薄い灯り。

潮風に混じる酒の匂い。


ジンは椅子を引き、軽く顎で向かいを示した。


「座れよ」


カイは少しだけ間を置いてから、向かいに座る。


酒が運ばれてくる。

琥珀色の液体が、灯りを受けて静かに揺れた。


ジンはグラスを持ち上げる。


「ま、乾杯」


「何にだよ」


「一ヶ月近く、よく喧嘩せずにやったことに」


「喧嘩しかけたのはお前だ」


「細かいなあ」


カイは無言でグラスに口をつけた。


その瞬間、少しだけ眉を寄せる。


「強えな」


「慣れだな」


ジンが笑う。


しばらく、どうでもいい話をした。


依頼のこと。

街のこと。

港の魚はどこの店が一番うまいか。

朝練でカイが砂を蹴りすぎだとか、リナが最近ナイフを抜くのが速くなったとか。


けれど、二人とも分かっていた。


この酒は、それだけのためではない。


夜の海が、すぐ近くで揺れている。


やがてジンが、グラスを置いた。


「で」


軽い声。


でも、視線は外していない。


「どうするつもりだ」


カイは海を見たまま。


「何が」


「分かってるだろ」


一拍。


「……あいつのことだよ」


波の音が、二人の間を満たした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ