第6話:朝焼けの形 海編3
早いもので。
あの夜から、いくつもの朝と夕方を繰り返して。
気づけば――言っていた一ヶ月が、もうすぐ近づこうとしていた。
港町の朝は、相変わらず早い。
潮の匂い。
船の軋む音。
まだ薄い光の中で、人の気配が少しずつ動き出す。
最初はよそ者だったはずのリナたちも、今では朝の通りを歩けば、誰かしらが声をかけてくるようになっていた。
「……もう起きてるのか」
カイが宿の外に出ると、そこにはもう二人の姿があった。
「遅いぞ」
ジンが、軽く手を振る。
朝の光を背にして、いつもの調子で笑っている。
一ヶ月近く、ほとんど毎朝同じ光景を見てきたはずなのに、カイはまだ少しだけ呆れてしまう。
本当に、朝からよくそんな顔ができるものだ。
「……まだ日も出てねえだろ」
「だからいいんだろ。朝練って感じするし」
「意味分かんねえ」
「最初の頃も同じこと言ってたな、お前」
ジンが笑う。
その横で、リナが小さく手を上げた。
「おはよ」
少しだけ眠そうな顔。
でも、もう支度は終わっている。
最初の数日は、ジンに窓を叩かれてから慌てて出てきていた。
寝癖を直しきれないまま砂浜へ向かい、朝風に震えながら文句を言っていた。
けれど今は違う。
眠そうではある。
それでも剣も、ナイフも、琥珀も、ちゃんと整えている。
「……ちゃんと起きてんのな」
「起こされる前に起きた」
リナは少しだけ誇らしげに言ってから、じとっとした目でジンを見る。
「今日はね」
「昨日は?」
ジンがにやっと笑う。
「……窓叩かれた」
「親切だろ?」
「窓叩く必要あった?」
「反応なかったからな」
「寝てたんだよ」
軽いやり取り。
一ヶ月近く繰り返してきた朝。
砂浜へ向かう足取りも、並ぶ距離も、いつの間にか決まっていた。
ジンが少し前。
リナが真ん中。
カイがその隣を歩く。
最初はぎこちなかった並びが、今では誰も意識しないほど自然になっている。
砂浜。
朝の手合わせは、もう日課になっていた。
「来いよ」
ジンが軽く手招きする。
次の瞬間、カイが踏み込んだ。
一直線――に見えて、途中で軌道がわずかにズレる。
低い。
踏み込みと同時に、足で砂を蹴り上げた。
「っ」
ジンの視界が一瞬、揺れる。
「……そう来るか」
ジンが笑う。
だが、下がらない。
短剣で受け流す――その直前。
カイは剣を振らなかった。
踏み込んだ勢いのまま、身体ごとぶつかる。
肩。
体当たり。
「おいおい」
ジンがバランスを崩す。
その瞬間。
「っ!」
横から水が走った。
リナの魔法。
足元を取るように、薄く広がった水が砂の上を滑る。
「甘い」
ジンが身体をひねる。
崩れながらも、地面に手をつく。
そのまま反動で跳ねるように距離を取る――
だが。
「そこ」
リナが一歩、前へ出た。
太ももに固定していた小さなナイフを抜く。
ジンから渡された、咄嗟のとき用のもの。
けれど、ただ握るだけではない。
水が刃に薄くまとわりつく。
光を受けた刃先が、朝の海みたいに淡く揺れた。
ジンの目が、わずかに細まる。
「へえ」
次の瞬間、リナが踏み込む。
剣ほど長くはない。
届く距離も短い。
けれど、彼女の動きには迷いがなかった。
もともと、リナは魔法剣の使い手だ。
剣に魔力を通し、魔法と斬撃を繋げる感覚は、身体に染みついている。
ナイフはまだ慣れない。
重さも、間合いも違う。
それでも、魔力を刃に乗せる呼吸だけは、リナの中にちゃんとある。
ジンが横へ逃げようとする。
だが、その足元をカイが塞いだ。
「そこだ」
カイが止まらない。
追いすがる。
足を踏み込む――と見せて、滑る。
さっきリナが作った水を利用して、一気に間合いを詰めた。
「……なるほどな」
ジンの口元が上がる。
次の瞬間、カイの足が低く払われる。
狙いは足首。
体勢を崩すための一撃。
ジンはそれを跳ぶことで回避するが、着地の瞬間、砂がもう一度舞う。
さっきより近い距離で。
「チッ」
完全には避けきれない。
視界が一瞬だけ遅れる。
その“ほんの一瞬”に、剣が伸びた。
喉元。
ぴたり、と止まる。
同時に、リナのナイフもジンの脇腹の手前で止まっていた。
波の音だけが、三人の間に残った。
「……今のはいいな」
ジンが、小さく笑った。
「連携、形になってきたじゃねえか」
リナが、少しだけ息を整える。
「……やっと、って感じ」
「最初はバラバラだったもんな」
「うるさい」
少しだけ頬を膨らませる。
でも――嫌ではなかった。
最初の頃なら、カイはリナの水を利用する前に、彼女を下がらせようとしていた。
リナも、カイの動きを見てから慌てて合わせていた。
今は違う。
先に置く。
信じて動く。
失敗しても、次の動きへ繋げる。
簡単なことではない。
けれど、毎朝砂まみれになって、何度もやり直してきた結果が、少しずつ形になっていた。
ジンはリナの手元をちらりと見る。
「ナイフ、馴染んできたな」
「まだ剣の方がやりやすいけど」
リナは刃についた砂を払う。
「でも、近い距離で咄嗟に動くなら、こっちも使えた方がいいと思って」
「いい判断」
ジンが笑う。
「俺の教え方がいいからな」
「調子に乗るな」
カイが即座に言った。
ジンはにやりとする。
「お、妬いた?」
「黙れ」
「別にいいだろ。俺が渡したナイフだし」
「渡しただけだろ」
「練習も見てる」
「それ以上は見るな」
「怖い怖い」
軽口の形をしていた。
でも、ジンの目はどこか楽しそうで、カイの声はいつもより少し低かった。
リナは二人を見比べる。
「……何の話?」
「何でもない」
カイが即答する。
「何でもないって顔じゃないけど」
「気にすんな」
ジンが笑う。
「男の意地ってやつ」
「なおさら意味分かんない」
リナが首を傾げると、ジンは声を上げて笑った。
カイは面白くなさそうに視線を逸らす。
その横顔を見て、ジンはほんの少しだけ目を細めた。
最初に会った頃より、分かりやすくなった。
触れさせない。
踏み込ませない。
それなのに、自分の感情にはまだ名前をつけきれていない。
そういうところが、妙に若くて、少しだけ面白い。
そして、ほんの少しだけ――気に入らない。
「もう一回やるか?」
ジンが軽く短剣を回す。
「やる」
リナが即答する。
「元気だねえ」
「今の、もう少しでちゃんと決まりそうだったから」
「欲が出てきたな」
ジンは楽しそうに笑った。
「いいことだ」
もう一度。
今度はリナが先に動く。
波打ち際から引き寄せた水を細く走らせ、ジンの逃げ道を塞ぐ。
カイはその動きに合わせて、低く踏み込んだ。
ジンは笑う。
軽く受ける。
流す。
そして、わざとリナの方へ抜けようとする。
以前なら、カイはそこで強引に割って入った。
だが、今は違った。
「リナ」
短く呼ぶ。
「うん!」
リナは下がらない。
水を引き戻し、ナイフの刃に纏わせる。
短い刃が、青白く光る。
ジンの進路が一瞬だけ止まる。
そこへ、カイが入る。
剣が伸びる。
ジンは上体を反らして避けたが、今度は完全には抜けられなかった。
「おっと」
短剣が弾かれ、ジンが一歩下がる。
リナはそこで息を吐いた。
「……今のは?」
「悪くない」
カイが言う。
「かなりいい」
ジンが笑って付け足した。
「カイが褒めない分、俺が褒めとく」
「別に褒めてねえわけじゃない」
「じゃあ褒めろよ」
カイはリナを見る。
一瞬、言葉を探すような間があった。
「……さっきの判断は、よかった」
短い。
けれど、まっすぐだった。
リナは少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「うん」
その笑顔に、カイはすぐ視線を逸らした。
ジンはその様子を見て、内心でにやりと笑う。
けれど、何も言わなかった。
言えば面倒なことになるのは、もう分かっている。
朝練が終わると、三人は街へ戻った。
朝の通りは、もうすっかり賑やかになっている。
顔なじみの店主が、いつものように声をかけてきた。
「おうジン! 今日もか!」
「おう、いつもの頼む」
「はいよ!」
慣れたやり取り。
リナはそれを見ながら、小さく思う。
すごいな。
自然に受け入れられている。
よそ者のはずなのに。
一ヶ月も経っていないのに、もうこの街の一部みたいに笑っている。
「ジンがいるからだろ」
カイがぼそっと言う。
「え?」
「顔、出てたぞ」
「……出てた?」
「分かりやすい」
少しだけ口元が緩んでいる。
「まあな」
ジンが割り込む。
「この街、ノリでできてるからな」
「雑すぎない?」
「でも合ってるだろ」
確かに――そうかもしれない。
昼前には、簡単な依頼をいくつかこなした。
荷物運び。
簡単な見回り。
小さな影の処理。
どれも難しくはない。
けれど、港町での生活が始まった頃とは違い、三人の動きはずっと滑らかになっていた。
「右!」
「分かってる!」
呼吸が合う。
前よりもずっと。
リナも、前に出ている。
支えるだけじゃない。
守られるだけでもない。
ちゃんと“戦っている”。
古い倉庫の影から現れた小さな残滓を、水で止める。
カイが核を見抜く。
ジンが逃げ道を塞ぐ。
動きが重なる。
影はほどけるように消えた。
「お疲れさん」
ジンが軽く手を叩く。
「今のはだいぶ良かったな」
「……本当?」
リナが聞くと、ジンは笑った。
「本当本当。俺、褒めるときはちゃんと褒めるタイプ」
「そうかな」
「疑うなよ」
カイが横から言う。
「調子に乗るから、半分で聞いとけ」
「ひでえ」
帰り道。
港の石畳を歩きながら、ジンがふと口を開いた。
「なあ」
「何?」
リナが顔を上げる。
ジンは少しだけ視線を細めた。
「お前らさ」
一拍置いて、軽く笑う。
「いい感じになってきたな」
「……何が」
カイが眉を寄せる。
「全部だよ」
ジンは肩をすくめた。
「最初は危なっかしかったけどな」
「それは――」
リナが言いかける。
「事実だろ?」
ジンが笑う。
否定できない。
少し前の自分を思い出す。
船酔いでしゃがみ込みながら、必死に影の位置を指した日。
朝練で水の軌道を外し、ジンに何度も笑われた日。
灯台で記憶の残滓に触れすぎて、立てなくなりかけた日。
怖かった。
悔しかった。
分からないことばかりだった。
でも。
今は違う。
「まだ粗いけどな」
カイが言う。
「それは分かってる」
リナが少しだけ頬を膨らませる。
「でも、前より動けてるでしょ?」
カイはすぐには答えなかった。
けれど否定もしない。
少しの間のあと、ぼそりと呟く。
「……動けてる」
その一言で、リナの表情がぱっと明るくなった。
「今、褒めた?」
「事実を言っただけだ」
「それでもいい」
リナが笑う。
カイは視線を逸らした。
ジンはその横で、わざとらしく肩をすくめる。
「俺が褒めたときより嬉しそうじゃん」
「え?」
リナがきょとんとする。
「いや別に?」
ジンは笑った。
「ちょっと妬けるなって話」
「ジンもすぐそういうこと言う」
「本音かもよ?」
軽い声。
でも、ほんの少しだけ冗談に聞こえない。
カイの視線が、すっとジンへ向いた。
「余計なこと言うな」
「怖い怖い」
ジンは笑いながら両手を上げる。
リナはまた二人を見比べた。
意味はよく分からない。
けれど、二人の間にある空気が、最初の頃とは少し違うことだけは分かった。
敵意ではない。
でも、ただの仲間とも少し違う。
張り合っているような。
牽制し合っているような。
それでいて、どこか信頼しているような。
不思議な距離だった。
夕方。
三人で港に座っていた。
沈む太陽。
揺れる海。
橙色に染まる波。
しばらく、誰も喋らない。
ただ――穏やかな時間だった。
一ヶ月が近づいている。
そのことを誰も口にしない。
けれど、きっと全員が分かっていた。
この日々は、ずっと続くわけではない。
朝練も。
依頼帰りの食事も。
くだらない軽口も。
港の人たちに声をかけられることも。
全部、いつか終わる。
リナは胸元の琥珀に触れた。
この街で触れてきた記憶の残滓。
灯台に残っていた待ち人の想い。
倉庫に染みついていた小さな後悔。
海の奥で、まだ形にならず揺れている違和感。
残るもの。
流れるもの。
この一ヶ月で見てきたものが、胸の中に静かに積もっている。
「……そろそろ戻るか」
ジンが立ち上がる。
「冷えてくるしな」
リナは小さく頷いた。
カイも立ち上がる。
三人で、ゆっくり歩き出す。
宿の方へ向かう道で、リナはふと振り返った。
海が、夕方の光を抱いて静かに揺れている。
何も変わらないように見える。
けれど、確かに何かが近づいている。
リナには、まだそれが何なのか分からない。
ただ、胸元の琥珀がほんのわずかに熱を持っていた。
「リナ?」
カイの声がする。
「ううん。何でもない」
そう答えると、カイは少しだけ目を細めた。
「無理するなよ」
「分かってる」
何度も交わした言葉。
けれど今は、それさえ少しだけ日常になっている。
ジンが前を歩きながら、ちらりと二人を見た。
その顔に、いつもの軽い笑みが浮かぶ。
けれど目だけは、少し遠くを見ていた。
一ヶ月。
長いようで、短い。
そして、何かが変わるには、十分すぎる時間だった。




