第5話 残るもの、流れるもの 海編2
港町での朝は、少しずつリナの中に馴染み始めていた。
最初は、まだ暗いうちに起こされるたびに体が重かった。
窓を叩くジンの音に腹を立て、眠い目をこすりながら砂浜へ向かい、朝の冷たい潮風に身を震わせていた。
けれど、数日もすれば変わってくる。
朝焼けの色。
波打ち際の冷たさ。
砂に足を取られる感覚。
カイが前へ出る瞬間の呼吸。
ジンが笑う前に、わずかに重心を変える癖。
そういうものが、少しずつ分かるようになってきた。
「リナ、左」
カイの声が飛ぶ。
「分かってる!」
リナは水を引き寄せた。
波打ち際から細く走らせた水が、ジンの足元を狙う。
けれどジンは、来ると分かっていたように足を引いた。
「遅い」
「もう!」
リナは思わず声を上げる。
「今の、絶対いけたと思ったのに」
「惜しかったな」
ジンは笑いながら、短剣をくるりと回した。
「あと半拍早けりゃ引っかかった」
「半拍って簡単に言わないでよ」
「簡単じゃねえから練習してんだろ」
悔しい。
けれど、言い返せない。
リナは息を整えながら、もう一度構える。
カイはその横で剣を下げたまま、ジンを見ている。
以前なら、リナが少し前に出ただけで止めていた。
けれど最近は違う。
止める代わりに、位置を空ける。
リナが魔法を通せるように。
リナが選んだ動きを、潰さないように。
その小さな変化が、嬉しかった。
「カイ」
リナが声をかける。
「次、私が先に止める」
「……できるのか」
「やるの」
カイは一瞬だけ黙った。
それから、小さく息を吐く。
「分かった」
その返事に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
ジンは二人を見て、にやっと笑った。
「いいねえ。じゃ、来いよ」
次の瞬間、カイが踏み込んだ。
前へ。
まっすぐ。
けれど、途中でわずかに速度を落とす。
その隙間に、リナの水が走った。
ジンの足元ではない。
少し手前。
逃げる先を塞ぐように、薄く広げる。
「お」
ジンの目が少しだけ細まる。
その一瞬に、カイが入る。
剣が伸びる。
ジンは短剣で受け流したが、いつものように大きく距離は取れなかった。
リナの水が、足元を奪っていたからだ。
「そこ!」
リナが叫ぶ。
カイが踏み込む。
だが、ジンは笑った。
「甘い」
体勢を崩したまま、彼は砂を蹴り上げた。
細かい砂が朝日に光って舞う。
カイの視線が一瞬だけ遅れる。
その間に、ジンは二人の間から抜けた。
「今のは惜しい」
ジンが言う。
「けど、俺じゃなかったら入ってたかもな」
リナは肩で息をしながら、その言葉を聞いた。
入ってたかも。
たったそれだけなのに、胸が弾んだ。
「……もう一回」
「元気だねえ」
「悔しいから」
ジンは楽しそうに笑った。
「そういうの、嫌いじゃないぜ」
朝練が終わる頃には、太陽はすっかり昇っていた。
砂浜に残る足跡は、初日よりずっと複雑になっている。
走って、止まって、滑って、踏み込んで。
三人分の線が重なり合い、途中で途切れ、また繋がっていた。
まるで、今の三人の形みたいだとリナは思った。
まだ綺麗ではない。
でも、確かに繋がり始めている。
その日の依頼は、港町の南にある古い灯台の見回りだった。
最近、夜になると灯台の灯りが勝手に揺れるらしい。
管理人は老齢で、階段を上るのもつらくなっていた。
影の気配があるかどうかだけでも確認してほしい、という依頼だった。
「灯台って、もっと明るい場所だと思ってた」
リナは見上げながら呟いた。
石造りの古い灯台は、昼間だというのにどこか薄暗く見えた。
潮風に晒された壁は白く乾き、ところどころにひびが入っている。
「明るくするための場所ほど、暗いもん抱えてることもある」
ジンが言った。
「何それ」
「それっぽいこと言ってみた」
「適当なの?」
「半分な」
カイが灯台の扉に手をかける。
「気配はある」
その一言で、空気が変わった。
中は狭く、石の階段が螺旋状に続いていた。
足音が壁に反響する。
上へ行くほど、潮の匂いよりも古い木と埃の匂いが強くなった。
リナは胸元に手を当てる。
琥珀が、わずかに震えていた。
「……強くないけど、残ってる」
「場所に染みてるな」
ジンが低く言う。
「たぶん、誰かを待ってた記憶だ」
リナは足を止めた。
待っていた。
その言葉を聞いた途端、胸の奥に小さな寂しさが流れ込んできた。
夜。
灯り。
遠くの海。
帰ってこない船。
知らないはずの景色が、まぶたの裏に浮かぶ。
「リナ?」
カイの声で、我に返る。
「……大丈夫」
「無理するな」
「うん。でも、大丈夫」
その言葉に、カイは少しだけ眉を寄せた。
けれど、今は何も言わない。
頂上の灯室には、小さな影がいた。
人の形にはなっていない。
黒い布が風に揺れているような、曖昧な姿だった。
けれど、そこから流れてくる感情は濃かった。
待っている。
帰ってくるはず。
灯りを消してはいけない。
あの人が迷わないように。
「残滓型だな」
ジンが呟く。
「攻撃は強くない。でも、近づきすぎるなよ」
カイが前に出ようとした。
リナは、その袖を掴む。
「待って」
カイが振り返る。
「消さないで」
「……影だぞ」
「分かってる。でも、これ……たぶん、誰かの想いが残ってるだけ」
リナは琥珀を握った。
怖くないわけじゃない。
影に触れるたびに、誰かの人生の端に指をかけるような感覚がある。
飲み込まれたら、戻れないかもしれない。
その不安は、いつも胸の奥にある。
でも。
「私がやる」
リナは一歩前に出た。
カイは止めなかった。
ただ、すぐ横に立つ。
「危ないと思ったら止める」
「うん」
ジンは後ろで短剣を下ろしたまま、静かに見ていた。
リナはゆっくり影へ近づく。
琥珀が熱を持つ。
記憶の断片が流れ込んでくる。
若い女の人。
灯台の灯り。
嵐の夜。
帰らなかった船。
それでも毎晩、灯りを守り続けた手。
寂しさ。
怒り。
祈り。
そして、最後まで捨てられなかった希望。
リナの目の奥が熱くなる。
「……もう、待たなくていいよ」
小さく呟く。
「あなたの灯りは、ちゃんと届いてた」
影が揺れた。
それが本当かどうかは、リナには分からない。
でも、その想いを否定したくなかった。
琥珀の光が、静かに広がる。
影は抵抗しなかった。
黒い布のような姿がほどけ、光に溶けるように薄くなっていく。
最後に、海へ向かう小さな灯りが見えた気がした。
消えたあと、灯室には風だけが残った。
リナはその場に膝をつく。
「リナ」
カイがすぐに支える。
「大丈夫」
そう言ったつもりだった。
けれど声が思ったより弱くて、自分でも驚いた。
「大丈夫じゃねえだろ」
カイの声が少し低い。
「……ちょっと、入りすぎただけ」
「だから言ってる」
カイの手が、リナの背を支えている。
強すぎず、でも離れない。
ジンが近づいてきて、灯室の窓から海を見た。
「解放、か」
ぽつりと言う。
「やっぱ珍しいな、それ」
リナは顔を上げる。
「珍しい?」
「普通は核を壊す。残った想いごと終わらせる」
ジンの声は軽くなかった。
「でも、リナちゃんのは違う。想いをほどいてる」
「……それが正しいのかは、分からない」
正直に言う。
「でも、消すだけじゃない方法があるなら、私はそっちを選びたい」
カイは黙っていた。
その横顔が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
彼はもともと、影の核を見抜き、断つ側の人間だ。
迷わず終わらせる。
そうしてきたのだと思う。
だからこそ、リナのやり方は、カイにとっても簡単なものではないのかもしれない。
灯台を出る頃には、空が少し曇っていた。
港町へ戻る道で、リナは何度か足を止めそうになった。
体が重い。
琥珀の奥に、まだ誰かの寂しさが残っているような気がする。
「歩けるか」
カイが聞く。
「歩ける」
「嘘つくな」
「嘘じゃない」
「顔色悪い」
「それは……ちょっと疲れただけ」
カイは何か言いかけたが、ジンが横から口を出した。
「まあまあ。今日は飯食って早めに寝る。それでいいだろ」
「お前が言うと信用できない」
カイが言う。
「なんでだよ」
「酒場に連れて行きそうだから」
「今日は行かねえよ。たぶん」
「たぶんって言った」
リナは二人のやり取りに小さく笑った。
笑うと、胸の奥に残っていた重さが少しだけ軽くなる。
港へ戻ると、顔なじみになりつつある店の女将が声をかけてきた。
「あら、今日は疲れた顔してるねえ」
「ちょっと灯台まで」
リナが答えると、女将は眉を下げた。
「あそこかい。昔から色々ある場所だからねえ。温かいもの食べていきな」
そう言って、いつもの店より少し静かな席へ通してくれた。
港町の人たちは距離が近い。
最初は少し戸惑ったけれど、その近さが今はありがたかった。
温かいスープを飲むと、体の奥が少しずつ戻ってくる。
「……こういうの、いいね」
リナが呟く。
「何が」
カイが聞く。
「帰ってきたら、ご飯があるところ」
カイは一瞬黙った。
「……そうだな」
短い返事だった。
けれど、どこか柔らかかった。
ジンは二人を見て、少しだけ目を細める。
「この街、気に入った?」
「うん」
リナは頷く。
「でも、ずっといるわけじゃないんだよね」
その言葉に、三人の間に少しだけ沈黙が落ちた。
一ヶ月。
最初に決めた期限。
始まったばかりだと思っていた時間は、きっと気づかないうちに過ぎていく。
ジンはスープの器を置いて、軽く笑った。
「まあ、まだ先だろ」
「そう?」
「そうそう。明日の朝練で死ぬほど動いてから考えればいい」
「やっぱり死ぬほどなんだ」
「言葉のあやだって」
カイが呆れたように息を吐く。
「信用するな」
「うん、しない」
「ひどくね?」
ジンが大げさに肩を落とす。
その姿に、リナはまた笑った。
夜、宿へ戻る途中。
港の外れから、波の音が聞こえた。
いつもと同じ音。
けれど、リナはふと足を止めた。
「……?」
胸元の琥珀が、ほんのわずかに震えた気がした。
カイも同時に海の方を見る。
「どうした」
ジンが振り返る。
「今、何か」
リナは海を見つめる。
暗い水面。
揺れる灯り。
遠くで、船の影がひとつ動いている。
けれど、次の瞬間には何も感じなかった。
「……気のせいかも」
リナが言う。
カイはしばらく黙って海を見ていた。
「いや」
低く呟く。
「何かある」
ジンの表情から、笑みが消えた。
ほんの一瞬だけ。
仕事の顔になる。
けれど、すぐにいつもの調子へ戻した。
「ま、明日から少し沖の依頼も見るか」
「軽く言うね」
「重く言ったら怖いだろ」
リナは琥珀に触れた。
灯台で触れた、待ち続けた人の想い。
港町に流れ着く、いくつもの記憶。
そして、海の奥に沈んでいる何か。
残るものがある。
流れても、消えないものがある。
それが少しずつ、この街に集まり始めているのかもしれない。
「リナ」
カイの声がした。
「無理するなよ」
「……最近、そればっかり」
「何回でも言う」
リナは小さく笑った。
「分かった。無理しない」
そう答えると、カイはようやく視線を外した。
ジンが少し後ろから、二人を見ていた。
「……いい感じになってきたな」
小さな呟きは、波の音に紛れて消える。
港町の夜は、静かに更けていく。
朝練も、依頼も、食事も、何気ない会話も。
少しずつ日常になっていく。
けれどその日常の向こう側で、海は確かに何かを抱えていた。
リナはまだ知らない。
この一ヶ月の終わりが、ただの別れでは終わらないことを。
そして、波の向こう側にあるものが、やがて三人を試すことになるのだと。




