第4話 朝焼けの約束 海編2
翌朝。
港町はまだ、眠りと目覚めの間にあった。
空の端だけが薄く白み始め、海の向こうから朝の気配がゆっくりと近づいてくる。
昼間はあれほど騒がしい通りも、この時間だけは静かだった。
潮の匂い。
遠くで軋む船の音。
まだ開いていない店の戸口に残る、昨夜の酒と料理の匂い。
リナは宿の前に立ち、手のひらで小さく口元を隠して欠伸をした。
「……眠い」
「だから言っただろ。早いって」
隣でカイが短く言う。
彼はいつも通りの顔をしていた。
眠そうにも、面倒そうにも見えない。
そのことが少しだけ悔しくて、リナは横目で見る。
「カイは眠くないの?」
「慣れてる」
「便利な体だね」
「褒めてんのか、それ」
「半分くらい」
「微妙だな」
そんなやり取りをしていると、砂浜の方から大きく手を振る人影が見えた。
「おーい、遅いぞ」
ジンだった。
朝焼けを背にして、軽く剣を肩に担いでいる。
昨日あれだけ飲んでいたくせに、顔色はいつもと変わらない。
リナは思わず眉を寄せた。
「……元気だね」
「若いからな」
「それ、ずるい」
「事実だろ?」
ジンは笑って、二人を砂浜へ手招きした。
波打ち際に近づくと、足元の砂が少しだけ冷たかった。
靴底に柔らかく沈み、歩くたびに小さな音を立てる。
朝の海は、昨日の夜とはまるで違っていた。
黒く沈んでいた水面は淡い青に変わり、空の色を映して静かに揺れている。
「じゃ、軽くな」
ジンが言った。
「ほんとに軽くな」
カイが念を押す。
「信用ねえなぁ」
「ない」
即答だった。
ジンは肩をすくめると、リナを見た。
「まずは三人の動き見る。リナちゃんは後ろで支援。カイは前。俺は適当に邪魔する」
「適当にって」
「そういうのが一番実戦に近いんだよ」
「言い方が雑」
「でも分かりやすいだろ?」
否定はできなかった。
リナは腰のナイフの位置を確かめ、少し深く息を吸った。
琥珀は静かだった。
朝の冷たい空気の中で、胸元にある小さな重みだけが確かにそこにある。
「来いよ」
ジンが軽く手招きした。
次の瞬間、カイが動いた。
速い。
砂を蹴る音が、波の音に混じって消える。
まっすぐジンへ向かう――ように見えた。
けれど途中で軌道が少しだけずれる。
ジンは笑った。
「お、いいね」
軽口と同時に、短剣でカイの剣を受け流す。
金属が軽く鳴った。
リナは水を呼ぼうと手を上げる。
けれど、その瞬間にはもう二人の位置が変わっていた。
「え、ちょっと――」
水の軌道が遅れる。
カイの足元に届くはずだった水が、空いた砂地を濡らすだけで終わった。
「遅い」
カイの声が飛ぶ。
「分かってる!」
言い返したときには、ジンがリナの方へ踏み込んでいた。
「前だけ見てると危ないぞ」
「っ!」
リナは慌てて後ろへ下がる。
けれど砂に足を取られ、体勢が崩れた。
その前に、カイが間に入る。
剣がジンの短剣を弾いた。
「後ろに下がれ」
カイが言う。
「今、下がろうとした!」
「遅い」
「だから分かってるってば!」
リナは少しむっとして、今度は自分から水を走らせた。
波打ち際の水を引き寄せ、ジンの足元へ滑らせる。
ジンが軽く跳んだ。
「悪くない。でも狙いが素直すぎ」
着地と同時に、彼の短剣がカイの肩を狙う。
カイはそれを避け、踏み込む。
リナは今度こそ合わせようとした。
けれど。
「リナ、下がれ!」
カイの声が鋭く響く。
その瞬間、リナの体が止まった。
危なかったのかもしれない。
でも、今のは前に出る場面だった。
そう思ったときには、もうジンが距離を取っていた。
「はい、そこまで」
ジンが手を叩く。
朝の砂浜に、少しだけ荒い息が残った。
「最初にしちゃ悪くない」
「どこがだ」
カイが低く言う。
「バラバラだろ」
「だから最初にしちゃ、って言ってんだよ」
ジンは剣を肩に担ぎ直し、リナとカイを交互に見た。
「カイ、お前な。リナちゃん止めすぎ」
カイの眉が動く。
「危ない場面だった」
「危なくなる前に潰すのは悪くねえよ。でも、そればっかだとこの子、何もできねえままだぞ」
リナは息を整えながら、ジンを見た。
カイは黙る。
「守るのはいい」
ジンの声は軽い。
けれど、言葉は妙にまっすぐだった。
「でも、守るってのは後ろに置くことだけじゃねえだろ」
カイの視線が少しだけ鋭くなる。
「何が言いたい」
「選ばせろってこと」
潮風が吹いた。
リナは胸元の琥珀に、無意識に触れる。
選ばせる。
その言葉が、思っていたより深く胸に落ちた。
「リナちゃんは、ただ守られるだけの奴じゃないだろ」
ジンはリナを見る。
「違う?」
リナは少しだけ唇を結んだ。
怖いことはある。
自信がないときもある。
影の残滓に触れるたびに、胸の奥が冷える。
それでも。
「……違う」
静かに答えた。
「私も、戦う」
カイがこちらを見る。
その目に何か言いたげな色が浮かんだが、結局、何も言わなかった。
ジンは満足そうに笑う。
「じゃ、もう一回」
「え」
リナの声が漏れる。
「軽くって言ったよね?」
「軽く二回目」
「ずるい」
「朝練ってそういうもんだ」
カイが小さくため息をついた。
「やるぞ」
その声は、さっきより少しだけ落ち着いていた。
二度目は、少しだけ変わった。
カイは前に出る。
けれど、リナが魔法を放とうとした瞬間に止めはしなかった。
代わりに、半歩だけ位置をずらす。
リナの水が、その隙間を通る。
ジンの足元へ。
「お」
ジンが軽く笑った。
「今のはいい」
けれど、その直後には水を避けられる。
まだ足りない。
でも、さっきよりは近かった。
三度目。
四度目。
朝焼けが少しずつ明るくなり、海の色が変わっていく。
砂浜には三人分の足跡がいくつも重なっていた。
うまくいかないことの方が多い。
カイが先に出すぎる。
リナの支援が遅れる。
ジンがわざと嫌な位置に入ってくる。
そのたびに止められ、言われ、やり直す。
「カイ、今のは速すぎ。後ろ置いてってる」
「リナちゃん、そこで迷うな。撃つなら撃つ」
「二人とも、相手見すぎ。味方も見ろ」
ジンの指摘は雑に聞こえて、意外と的確だった。
リナは息を切らしながら、膝に手をついた。
「……これで、軽く?」
「かなり軽い」
「嘘だ」
「嘘じゃねえよ」
ジンは笑っていたが、額にはうっすら汗が滲んでいた。
カイも息を乱してはいないものの、肩が少し上下している。
それを見て、リナは少しだけ悔しさが薄れた。
自分だけが苦しいわけじゃない。
三人で、少しずつ形を探している。
「今日はここまで」
ジンが言った。
「明日も同じ時間な」
「……毎朝、ほんとにやるんだ」
リナが呟くと、ジンは当然のように頷いた。
「一ヶ月しかねえんだろ。使える時間は使わねえと」
一ヶ月。
その言葉に、リナはふと海を見た。
昨日決めたばかりのはずなのに、もうその時間が動き出している。
いつか終わる時間。
けれど今は、始まったばかりの時間。
三人は砂浜を離れ、朝の通りへ戻った。
港町はすっかり目を覚ましていた。
店の戸が開き、魚を運ぶ荷車が行き交い、焼きたてのパンの匂いが通りに広がっている。
「おう、ジン! 朝から元気だな!」
顔なじみらしい店主が声をかけてくる。
「若いからな!」
「毎日それ言ってねえか?」
「便利なんだよ」
ジンが笑って返す。
リナはそのやり取りを見ながら、小さく思う。
自然に受け入れられている。
よそ者のはずなのに、この街の空気に最初から混ざっているみたいだ。
「ジンがいるからだろ」
カイがぼそっと言う。
「え?」
「顔、出てたぞ」
「……出てた?」
「分かりやすい」
少しだけ、カイの口元が緩んでいた。
「まあな」
ジンが割り込む。
「この街、ノリでできてるからな」
「雑すぎない?」
リナが言う。
「でも合ってるだろ」
確かに――そうかもしれない。
昼前には、簡単な依頼を一つ受けた。
荷物運びの護衛。
港の端から倉庫まで、古い木箱を運ぶだけの仕事だった。
ただし、その木箱にはわずかに影の気配が絡んでいた。
「これ、中身は?」
カイが尋ねる。
「古い航海日誌だとよ」
ジンが依頼書を見る。
「持ち主が亡くなって、家族が整理してる途中で妙な夢を見るようになったらしい」
リナは箱に触れた。
その瞬間、胸元の琥珀が小さく震える。
波の音。
暗い船室。
誰かを待つ声。
ほんの一瞬だけ、知らない記憶の残滓が指先を通り抜けた。
「……強くはない」
リナが言う。
「でも、残ってる」
「なら、運んで終わりじゃねえな」
ジンが軽く息を吐く。
影は小さかった。
箱の隙間から染み出すように伸び、通りかかった人の足元へ絡もうとする。
「右!」
リナが声を上げる。
カイが動く。
ジンが箱を押さえる。
リナは水で影の流れを止めた。
今朝よりは、少しだけ合った。
少なくとも、カイはリナを止めなかった。
代わりに、短く言う。
「そのまま押さえろ」
「うん!」
ジンが笑う。
「いいねえ」
カイが核を斬る。
影は淡くほどけ、古い紙の匂いだけが残った。
終わってみれば、小さな依頼だった。
けれどリナの胸には、朝練とは違う手応えが残っていた。
支えただけじゃない。
ちゃんと、自分も一つの動きになれた。
帰り道、ジンが伸びをしながら言った。
「まあ、初日にしちゃ上々だな」
「初日でこれなら先が思いやられる」
カイが言う。
「いい意味で?」
「悪い意味で」
「ひでえな」
リナは二人のやり取りに笑った。
港町の空は、朝よりもずっと明るい。
潮風が髪を揺らし、遠くで船員たちの声が響く。
この街で過ごす日々が、少しずつ始まっている。
依頼を受けて。
朝練をして。
失敗して。
少しだけ噛み合って。
また次の日を迎える。
たった一ヶ月。
けれど、その一ヶ月が何を変えるのかは、まだ誰にも分からない。
「明日も同じ時間だからな」
ジンが振り返って言う。
「……窓叩かないでね」
リナがじとっと見る。
「反応あれば叩かない」
「それ、叩く気あるよね」
「寝坊しなきゃいい話だろ」
カイが横から言う。
「カイまで」
リナが少し頬を膨らませると、二人は同時に笑った。
その笑い声に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
潮風が吹く。
昨日まで知らなかった朝が、今日から少しずつ日常になっていく。
リナは胸元の琥珀に触れた。
怖さは消えない。
分からないことも多い。
けれど、今はひとりではない。
並んで歩く足音が、三つ。
朝焼けの約束は、まだ始まったばかりだった。




