第3話:海風は、もう迷わない 海編1
夜の港町は、昼とは違う顔をしていた。
灯りが揺れる。
笑い声と、酒の匂い。
潮の匂いは変わらないのに、人の気配が昼よりもずっと近く感じる。
三人は、通りをゆっくり歩いていた。
特別な目的があるわけではない。
食事のあと、宿へ戻るには少しだけ惜しい空気だった。
リナは隣を歩くカイを見上げる。
彼はいつも通り無表情に近い顔をしている。
けれど、店でジンに言った言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
重ねるな。
リナは、誰かの代わりではない。
カイはそう言った。
ただそれだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。
「なに見てる」
カイが横目で言う。
「……別に」
「別にって顔じゃねえ」
「カイこそ、さっきちょっと怖かった」
「あれは普通だろ」
「普通かな」
「普通だ」
短いやり取り。
けれど、前より少しだけ近い。
ジンは前を歩きながら、二人の会話を聞いているのかいないのか、軽く鼻歌を歌っていた。
そのときだった。
「ジン〜、今夜どう?」
通りの向こうから、女が笑いながら近づいてきた。
そのまま自然な動作で、ジンの腕に絡む。
「今日は忙しいんだよ」
ジンは慣れたように軽く外した。
触れさせない距離。
拒んでいるのに角が立たない。
そんな器用な身のこなしだった。
「えー、またー?」
別の女が笑いながら、ふと視線をずらす。
「……あれ、新顔じゃない?」
今度は、カイに目が向いた。
「お兄さん、かっこいいわ〜」
距離が近い。
リナは一瞬、足を止めた。
「……通りすがりだ」
カイが短く返す。
視線も合わせない。
「え〜、なにそれ冷たいな〜」
女は笑いながらも離れない。
「逆に気になるんだけど」
「まぁまぁ、やめとけ」
ジンが横から口を出す。
「そいつ、全然愛想ないぞ」
「いいじゃん。そこがクールっていうか、かわいいっていうか」
別の女がくすっと笑う。
「そういうのもアリよね〜」
カイの腕に、指が触れる。
ほんの軽く。
試すみたいに。
「……離れろ」
低い声だった。
カイは一歩も動いていない。
けれど空気が変わった。
さっきまで柔らかく揺れていた灯りまで、少しだけ遠のいたように感じる。
「やん、こわいわ〜」
そう言いながらも、女は目を逸らさなかった。
「でもさ」
少しだけ顔を寄せる。
「そういう顔してる人ってさ――」
小さく笑う。
「一番面倒なんだよね」
沈黙。
「図星か?」
ジンが横で笑う。
「うるせえ」
カイが一言返す。
そのやり取りに、女たちがまた笑った。
「なにそれ、仲良し?」
「そっちも気になるんだけど」
「やめろやめろ」
ジンが手をひらひらさせる。
「今日はそういう日じゃねえの」
「じゃあいつなのよ」
「気が向いたらな」
軽く返す。
リナは少し離れた場所で、その様子を見ていた。
ジンは、こういう距離に慣れている。
誰かに触れられても、笑ってかわす。
踏み込ませそうで、踏み込ませない。
カイは違う。
拒む。
寄せつけない。
誰かの手が触れただけで、空気が尖る。
それを見て、胸の奥がざわついた。
別に、何かを言う権利があるわけではない。
カイが誰に声をかけられようと、リナが気にすることではない。
そう分かっているのに、なぜか視線を外せなかった。
「……すごいね」
ぽつりと呟く。
「ただの女好きだろ」
カイが言う。
でも、さっきより少しだけ機嫌が悪い。
「ジンのこと?」
「他に誰がいる」
「……そういう意味で言ったわけじゃないけど」
「なら、どういう意味だよ」
リナは答えに詰まった。
どういう意味なのか、自分でもよく分からなかった。
女たちに囲まれても、ジンは変わらない。
カイは近づかれただけで空気を変える。
その違いを、すごいと思った。
けれど、それだけではなかった。
カイが誰かに触れられた瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
それが何なのか、リナにはまだ名前をつけられない。
ジンがふっとリナを見る。
一瞬だけ、目が柔らいだ。
女たちの腕をほどいて、そのまま歩き出す。
「悪いな」
軽く言う。
「今日はこっち優先」
「えー、ほんとにー?」
「ほんとほんと」
振り返らない。
そのまま、リナの隣へ来る。
自然な距離だった。
「何その顔」
少し屈んで、覗き込む。
「……別に」
リナは視線を逸らした。
「へえ」
ジンが小さく笑う。
「可愛い顔してるけど――」
一瞬だけ、声が落ちる。
「そういうの、あんま見せんなよ」
「……え?」
言葉の意味を掴む前に、カイが割って入った。
「行くぞ」
ジンの肩を押す。
「はいはい」
ジンは笑った。
その横で、カイは一度だけ後ろを見る。
さっきの女たちが、まだこちらを見ていた。
小さく舌打ち。
「……めんどくせえ」
夜の風が抜けた。
リナは、二人の背中を見た。
ジンは軽く、どこか自由で、誰の懐にも入れるようでいて、本当のところは見せない。
カイは静かで、不器用で、言葉は少ないのに、時々どうしようもなく真っ直ぐなものを向けてくる。
その二人の間に、自分がいる。
それが少し不思議で、少し怖くて、でも嫌ではなかった。
通りを抜けると、海が見えた。
夜の水面は黒く、灯りを細かく砕いて揺らしている。
昼間の海とはまるで違う。
何もかも飲み込んでしまいそうなのに、どこか優しい。
ジンが手すりに肘をついた。
「明日から朝練だな」
「忘れてなかったんだ」
リナが言う。
「忘れるわけねえだろ。俺、そういうの好きだし」
「嫌な予感しかしない」
「大丈夫だって。軽くな、軽く」
カイが鼻で笑う。
「信用できない」
「お前、ほんと疑り深いな」
「経験則だ」
「まだ一日しか一緒に動いてねえだろ」
「一日で十分分かった」
リナは二人の会話を聞きながら、少しだけ笑った。
こうして話していると、普通の夜みたいだった。
影も、琥珀も、記憶も、何も知らないまま過ごせる夜みたいに。
でも、胸元の琥珀は静かに存在を主張している。
忘れるな、と言うように。
ここにある、と言うように。
そのとき、ジンが海を見たまま言った。
「一ヶ月」
静かな声だった。
「長いようで、短いぞ」
リナは横顔を見る。
「何か、あるの?」
「さあな」
ジンは笑った。
「ただ、港町は色々起きる。海の近くは、記憶が溜まりやすい」
「記憶が?」
「流れ着くんだよ。物も、人も、噂も、後悔も」
その言葉に、リナの胸の奥で琥珀が微かに震えた。
海は広い。
だから何でも飲み込むのだと思っていた。
けれど、飲み込まれたものが全部消えるわけではないのかもしれない。
残るものがある。
忘れたはずのものが、潮騒の奥で眠っている。
「……それで、影が増えてるの?」
リナが聞く。
ジンはすぐには答えなかった。
波の音だけが、三人の間を通り過ぎる。
「かもな」
やがて、ジンは短く言った。
「海ってのは便利なんだよ。隠すにも、捨てるにも、忘れるにも」
「忘れるために、海に?」
「人は色々流すだろ。手紙とか、花とか、遺品とか。中には、もっと厄介なもんを流す奴もいる」
「厄介なもの?」
「さあな」
ジンはまた軽く笑った。
けれど、その笑い方は少しだけ硬かった。
カイが横から口を挟む。
「知ってるなら話せ」
「だから、タイミングってあるって言ったろ」
「またそれか」
「またそれ」
ジンは手をひらひらさせる。
「全部一気に聞いたって、飲み込めねえこともある」
「こっちが決める」
「そういうとこ、ほんと面倒だな」
「お前に言われたくねえ」
二人の間に、少しだけ緊張が走る。
けれど、昼間のような刺々しさではない。
互いに探っている。
どこまで踏み込んでいいのか。
何を隠していて、何を守ろうとしているのか。
リナは二人を見ながら、そっと息を吐いた。
「ジン」
呼ぶと、ジンがこちらを見る。
「話せるときでいい。でも、私に関係あることなら、いつかちゃんと聞かせて」
ジンは、少しだけ目を細めた。
軽口を返すかと思った。
けれど、そうしなかった。
「分かった」
短く言う。
「約束する」
その声は、いつもより低くて、真面目だった。
カイは何も言わなかった。
ただ、リナの横に立ったまま、海を見ている。
その沈黙が、少しだけ優しかった。
カイが、ふとリナを見る。
「無理するなよ」
「……急に?」
「琥珀、揺れてる」
リナは胸元に手を当てた。
隠しているはずなのに、カイには分かるらしい。
「大丈夫」
「その言葉、信用してない」
「さっきも言われた」
「何回でも言う」
淡々とした声。
けれど、そこにあるものが心配だと分かってしまうから、リナは困る。
「……分かった。無理しない」
そう言うと、カイはようやく視線を海へ戻した。
ジンが二人を見て、ふっと笑う。
「……なるほどね」
「何がだ」
カイが言う。
「いや?」
ジンは軽く肩をすくめた。
「そりゃ、手放さないわけだ」
その言葉に、リナは瞬きをした。
カイは眉をひそめる。
「意味分かんねえこと言うな」
「分かんなくていいよ」
ジンは笑う。
リナはその言葉を心の中で繰り返した。
手放さない。
それは誰が、誰を。
何を、どうして。
聞き返すことはできなかった。
聞いたら、何かが変わってしまう気がした。
夜の海は、何も答えない。
ただ静かに揺れている。
夕焼けはもうない。
代わりに、夜の灯りが海に滲んでいる。
同じ場所。
でも、少し違う距離。
一度出会って。
別れて。
そして、また交わる。
リナは、少しだけ手を伸ばした。
自分でも、どうしてそうしたのか分からなかった。
ただ、夜風が冷たかったからかもしれない。
胸の奥が落ち着かなかったからかもしれない。
指先が、カイの袖に触れる。
カイが、わずかにこちらを見た。
「……何だよ」
「何でもない」
「何でもないなら掴むな」
「掴んでない。触っただけ」
「同じだろ」
「違う」
そんなやり取りをしながらも、カイは振り払わなかった。
リナはそれに気づいて、少しだけ笑う。
ジンがそれを見て、わざとらしく空を仰いだ。
「若いねえ」
「うるせえ」
カイが即座に言う。
「俺もまだ若いんだけどな」
「黙れ」
「はいはい」
ジンは笑った。
その笑い声に、夜の重さが少しだけ薄れる。
「……行くぞ」
カイが言った。
「うん」
リナは頷く。
三人は港を離れ、宿の方へ歩き出した。
特別な約束もないまま。
けれど、明日からの朝練と、一ヶ月の依頼の日々がある。
知るべきことも、向き合うべきものも、きっとこれから増えていく。
それでも今は、同じ道を歩いている。
それだけで、十分だった。
潮風が静かに吹いていた。
海風は、もう迷わない。
ただ、三人の背中を押すように、同じ方向へ流れていく。




