第2話:潮騒の奥に残るもの 海編1
「まずは拠点だな」
港町の通りを歩きながら、ジンが軽く言った。
「寝床ねえと始まんねえ」
「……宿、あるの?」
リナは周囲を見回した。
朝の港町は、船着き場とはまた違う騒がしさに満ちていた。
店先には魚や果物が並び、荷車が石畳を軋ませて通り過ぎる。
誰かがジンの名を呼び、ジンは片手を上げるだけで応えた。
ここでは、彼はよく知られているらしい。
「あるある」
ジンが手をひらひらさせる。
「顔きくとこあるから任せろ」
通りを少し外れた場所に、その宿はあった。
木造の、少し古びた建物。
けれど窓辺には手入れされた花が置かれ、入口の扉は磨かれている。
「おう、ジン!」
店主が気さくに声をかけた。
「また来たのか」
「ちょっとな」
ジンが笑う。
「部屋空いてる?」
「あるぞ。二部屋か?」
店主がちらっとリナを見る。
その視線に、リナはほんの少しだけ肩を固くした。
ジンはすぐに頷く。
「別で頼む」
その一言に、リナは自分でも気づかないほど小さく息を吐いた。
カイは何も言わなかった。
ただ、その沈黙が不思議と気まずくない。
部屋は簡素だった。
ベッドと机。
小さな棚。
窓からは、海が見える。
青い水面が、陽の光を反射して揺れていた。
「……いいね」
リナが小さく笑う。
「十分だ」
カイが短く言う。
荷物を置いて、すぐに外へ出た。
「次、仕事だな」
ジンが歩きながら言う。
「ここは依頼回さねえと金がすぐ飛ぶ」
紹介所は、港のすぐ近くにあった。
紙がびっしり貼られた掲示板。
ざわめく人。
扉をくぐった瞬間、あちこちから声が飛んだ。
「ジン、これ頼む!」
「あとこれも!」
「はいはい順番なー」
ジンは軽く手を上げながら、慣れた様子で捌いていく。
その姿に、リナは少し驚いた。
「……人気なんだね」
「まあな」
ジンが笑う。
「雑用から厄介ごとまで、なんでも屋だ」
彼は掲示板から紙を一枚剥がした。
「これ、軽め」
「もう一個」
カイが別の紙を見る。
「……影絡み」
「そっち優先だな」
ジンは即答した。
その足で、必要なものを揃える。
ロープ。簡易ランタン。保存食。替えの布。
ジンの買い方は早い。
迷わない。
値切るところはきっちり値切り、店主に文句を言われても笑って流した。
「これも持っとけ」
ジンがリナに小さなナイフを渡す。
「咄嗟のとき用」
「……ありがとう」
リナは受け取って、重さを確かめる。
早速太ももに巻き付け、丈の長い上着で隠した。
「あとそれ」
今度はカイに向ける。
「寝袋追加な」
「いらねえだろ」
「海舐めんな」
即答だった。
カイは小さくため息をついて、受け取った。
街は、どこかおおらかだった。
距離が近い。
笑い声が多い。
気づけば、通りの向こうから声が飛んだ。
「ジン! 今夜空いてるかー!」
「無理ー!」
ジンは即答した。
「仕事ー!」
そのまま笑う。
いい街だな。
リナは、少しだけ思う。
知らない場所ではない。
けれど、前に来たときとは少し違う。
ただ楽しいだけじゃない。
この街には、人が暮らしている。
笑って、働いて、怒って、誰かを待っている。
その中に、影が紛れている。
そう思うと、胸元の琥珀がほんの少し重く感じた。
その日の依頼は、小さな影だった。
港の外れ。
古い倉庫の裏手に溜まった、記憶の澱のようなもの。
依頼主は、倉庫番の老人だった。
数日前から荷の数を忘れたり、昨日会ったはずの人の顔が思い出せなかったりするという。
「年のせいかと思ったんだがな」
老人は困ったように笑った。
「でも、若い連中まで似たようなことを言い出してよ。こりゃあ、ただごとじゃねえと思ってな」
「正解だな」
ジンが倉庫の影になった壁を見ながら言う。
「ここ、溜まってる」
リナも頷いた。
ひやりとする。
けれど、昨日の船の上で感じたものよりは薄い。
ただ、それでも確かにある。
誰かが大切にしていた記憶の欠片。
捨てたくても捨てられなかった思い。
そういうものが、港の湿った空気に絡みつくように残っていた。
「すぐ終わる」
カイが言う。
その言葉通り、影そのものは大きくなかった。
けれど、実際に対峙してみると、三人の連携はまだぎこちなかった。
「そこ!」
ジンの声。
「右!」
カイが動く。
リナが合わせる。
琥珀が微かに震え、影の奥に残る誰かの後悔が指先を冷やした。
カイは核を見抜く。
ジンは逃げ道を塞ぐ。
リナは、その残滓が人へ伸びる前に受け止める。
影はほどけるように消えた。
黒い靄の中から、一瞬だけ古い笑い声のようなものが聞こえた気がした。
港で働く若い男たちの笑い声。
誰かが失くした、小さな約束。
リナは胸元を押さえた。
「……大丈夫か」
カイがこちらを見る。
「うん」
答えながらも、少しだけ悔しかった。
できた。
でも、遅かった。
もっと早く気づけたはずだ。
もっと上手く動けたはずだ。
終わったあと、ジンが剣を肩に担いで笑う。
「悪くねえ」
「形にはなってる」
「まだ粗いけどな」
カイが付け足す。
「……分かってる」
リナは少しだけ悔しそうに言った。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、ジンは肩をすくめた。
「だからいいんだよ」
「え?」
「ここから伸びる」
その言葉は、軽いようでいて、不思議と真っ直ぐだった。
一拍置いて、ジンが言う。
「しばらく一緒にやるぞ」
「さっき決めただろ」
カイが言う。
「確認だよ、確認。依頼を一個やってみて、やっぱ駄目だったら考え直すつもりだったし」
「……そうなの?」
リナが聞くと、ジンはにっと笑った。
「でも、悪くない。お前ら、無理に合わせてないのに、妙に噛み合う」
カイは何も言わなかった。
けれど否定もしない。
夕方、三人で港へ戻った。
風が、少しだけ優しい。
「朝、軽く手合わせな」
ジンが言う。
「動き見たい」
「……分かった」
カイが答える。
「うん」
リナも頷いた。
そのまま宿へ戻るのかと思ったが、ジンはふと足を止めた。
「腹減ってねえ?」
振り返る。
「……減った」
リナが素直に答える。
カイは何も言わないが、否定もしない。
「よし」
ジンがにやっと笑った。
「いいとこあんだよ。安くて、美味くて、量もある」
一拍。
「あと酒がうまい」
「最後いらねえな」
カイが即座に返す。
「お前なあ、人生の半分損してるぞ」
「別に困ってない」
「はいはい。じゃあ、俺が楽しむからいいや」
路地を抜ける。
賑やかな声。
肉と魚の焼ける匂い。
年季の入った木造の店は、扉が開けっぱなしで、中から笑い声が溢れていた。
「おー、ジン!」
店主が手を上げる。
「今日も来たか」
「顔出しとこうと思ってな」
ジンは慣れた調子で、自然に席へ座る。
「こっちは?」
店主がリナとカイを見る。
「仕事仲間。しばらく一緒に動く」
「へえ」
店主の目が少しだけ柔らぐ。
「なら、ちゃんと食わせねえとな」
料理が机いっぱいに並んだ。
焼き魚に、たっぷり野菜が入ったスープ。
焼きたてのパン。
香ばしい匂いが、空腹を思い出させる。
「……美味しそう」
リナが小さく呟く。
「だろ?」
ジンが笑う。
「食え食え」
三人で食べる。
静かじゃない。
でも、うるさくもない。
心地いい距離だった。
リナは温かいスープを一口飲んで、ほっと息を吐いた。
体の奥に残っていた潮風の冷たさが、少しずつほどけていく。
「で? お前ら飲まねえの?」
ジンが酒を飲みながら言う。
「飲まない」
カイが即答。
「飲めない」
リナも続く。
「はーあ……つまんねえやつら」
ジンが肩を落とすふりをする。
「別にいいだろ」
「まあな」
笑う。
でも、少しだけ楽しそうだった。
「その代わり」
ジンがリナを見る。
「顔赤くなんねえのは助かるな」
「……え?」
「酔うとすぐ分かるタイプだろ」
「分かんないよ!」
「分かる分かる」
軽く笑う。
そのやり取りを見ていたカイが、ぼそりと言った。
「……もう酔ってるだろ、こいつ」
「失礼な! これくらいじゃ変わんねえよ」
ジンは笑った。
けれど、その目は少しだけ柔らいでいる。
食事の終わり頃、話題は自然と朝練のことになった。
「そういや、お前ら見てると思い出すな」
ジンがぽつりと言った。
リナは手を止める。
カイも顔を上げた。
店のざわめきは変わらない。
けれど、ジンの周りだけ、ほんの少し空気が静かになった気がした。
「昔さ。ペア組んでたんだよ」
ジンは酒の入った杯を見つめていた。
「女でさ。ちょうどお前みたいな感じ」
「……私?」
「そう。無茶するし、でも折れないし」
小さく笑う。
それは懐かしむような笑みだった。
「いつも前に出るんだよ。止めても聞かねえの。危ないって言ってんのに、分かってるって笑ってさ」
その口調は軽い。
けれど、指先は杯の縁をゆっくりなぞっている。
「……影にやられた」
静かな言葉。
店のざわめきが、一瞬遠くなる。
「助けられなかった」
ジンは、笑わなかった。
「届かなかった」
リナの指先がわずかに動く。
影に飲まれる。
それは、ただ命を失うこととは違う。
記憶を喰われ、想いを削られ、最後にはその人がその人であった証すら薄れていく。
リナは、その怖さを少しだけ知っている。
エマの影を、思い出す。
消すのではなく、解放したあの感覚。
誰かの人生に触れるような痛み。
「……でもさ」
ゆっくり口を開いた。
「今は一人じゃないでしょ」
ジンが目を瞬く。
「こうやって、一緒にいるし」
まっすぐな言葉だった。
慰めるためではなく、ただ今ここにある事実を置くような声。
ジンはしばらく黙って、それから小さく笑った。
「……ほんと、あいつに似てる」
少しだけ、救われた顔で。
そのとき、カイが口を開いた。
「重ねるな」
低く、はっきりと。
空気が少しだけ張りつめる。
「……は?」
ジンが眉を上げる。
「過去の相手と、今は違うだろ」
カイは視線を逸らさない。
「そいつにも、こいつにも失礼だ」
一瞬の沈黙。
リナは何も言えなかった。
胸の奥が、なぜか熱くなる。
カイの言葉は乱暴ではなかった。
けれど、まっすぐだった。
誰かの代わりじゃない。
誰かの続きでもない。
リナは、リナだと。
そう言われた気がした。
ジンは、少しだけ笑った。
「……正論だな」
でも、その目はほんの少しだけ真剣だった。
「悪かった」
軽い謝り方だった。
けれど、その奥にあるものは軽くなかった。
リナは首を横に振る。
「ううん」
言葉はそれ以上続かなかった。
けれど、それで十分だった。
食事が終わって外に出ると、夜が街を包んでいた。
灯りが揺れる。
潮風が頬を撫でる。
昼間よりも人の声が近く、どこか少しだけ甘い酒の匂いがする。
「どうする?」
リナが聞く。
「少し歩くか」
ジンが言う。
カイは何も言わず、歩き出した。
三人は、自然に並んだ。
同じ方向へ向かっている。
ただそれだけなのに、胸の奥が少しだけ温かかった。




