第1話:波音の再会 海編1 (カイと再会したあと2度目の港町)
山を下りて、数日後。
空気が少しずつやわらかくなり、風の中に潮の匂いが混じり始めていた。
「……海の匂い」
リナが小さく呟く。
森や山の匂いとは違う。
湿っていて、少しだけ重くて、それなのに胸の奥を開いていくような匂いだった。
「戻ってきたな」
隣でカイが言う。
その声に、リナは少しだけ顔を上げた。
前に来たときとは違う。
ただ隣にいるだけなのに、今はそのことがはっきり分かる。
今は――並んでいる。
港町は、相変わらず賑やかだった。
船の軋む音。
行き交う人の声。
波が岸壁を叩く音。
太陽の光が海に反射して、きらきらと揺れている。
どこか懐かしい景色だった。
「懐かしい」
リナが少し笑う。
「まだそんな経ってねえだろ」
「気持ちの問題」
軽いやり取り。
けれど、リナの目は自然と周囲を追っていた。
人の流れ。
視線の意味。
情報の動き。
以前なら、ただ賑やかだと思っていた景色が、今は少し違って見える。
どの船が急いでいるのか。
誰が噂を持っているのか。
どの人が不安を隠しているのか。
港町のざわめきの中に、小さな違和感が混じっていた。
「……見える」
リナは、思わず呟いた。
「何が」
カイが聞く。
「うまく言えないけど、人の流れとか、空気の変わり方とか」
「なら、まずは情報だな」
「うん」
二人は自然に歩き出した。
港の中央通りには、新聞売りの少年が声を張り上げていた。
リナは一部買い、近くの壁際で紙面を広げる。
潮風に紙が揺れた。
「……影の件、また出てる」
リナが新聞を押さえながら言う。
そこには、短い記事が載っていた。
海上にて異変。
複数の船が一時接触不能。
乗組員の一部に記憶の混濁あり。
「海か」
カイが短く言う。
「前より増えてる気がする」
リナは紙面から目を離せなかった。
影は、人の記憶や感情の残滓だ。
けれど、海の上で起きているというだけで、妙な不気味さがあった。
流れるもの。
沈むもの。
戻ってこないもの。
海は、何かを隠すには広すぎる。
そのときだった。
「おーい!!」
大きな声が、港のざわめきを割って飛んできた。
振り向く前に分かった。
「……ジン」
赤い髪の男が、大きく手を振りながら駆け寄ってくる。
「リナちゃん!! 久しぶり!」
その勢いのまま、一気に距離を詰めてきた。
「元気してた? 無事? 怪我してない?」
「ちょ、ちょっと落ち着いて」
近い。
近すぎる。
リナが一歩引くより先に、隣の空気がわずかに鋭くなった。
カイの眉が、ぴくりと動く。
「……おい」
ジンがちらっと視線を向ける。
「ん?」
「誰それ?」
リナは少し慌てて答えた。
「……カイ」
一瞬。
ジンの表情が変わった。
ほんのわずかに、笑みの奥が静かになる。
「……あー」
そして、小さく笑った。
「君が“それ”か」
カイの目が細くなる。
「何の話だ」
「いや別に?」
ジンは肩をすくめた。
でも、視線は外さない。
じっとカイを見る。
値踏みするような目。
けれど、嫌な感じはしない。
ただ、何かを確かめている。
「思ったより、ちゃんとしてる」
「どういう意味だ」
「もっと近寄りがたいと思ってた」
「だいたい合ってる」
「おい」
リナが軽くカイの腕をつつく。
そのやり取りを見て、ジンが笑った。
「いいじゃん、面白そう」
「面白がるな」
カイが低く言う。
けれどジンは気にした様子もなく、リナへ視線を戻した。
「で? 今回は二人で動いてるわけ?」
リナは頷く。
「うん。ペア組んだの」
その言葉に、カイがほんの少しだけ視線を逸らした。
ジンはそれを見逃さなかった。
「へえ」
にやっと笑う。
「ちゃんと捕まえたんだ」
「……捕まってねえ」
カイが即座に返す。
「どっちでもいいって」
ジンは軽く笑った。
リナは二人を見比べて、少しだけ困ったように息を吐く。
初対面のはずなのに、妙に噛み合っている。
いや、噛み合っているというより、最初からお互いに警戒し合っているような距離だった。
そのとき、ジンの視線が止まった。
「……それ」
リナの首元を見る。
琥珀のペンダントが、光を受けて揺れていた。
「やっぱりか」
小さく呟く。
カイの視線が鋭くなる。
「何か知ってるのか」
ジンは一瞬だけ黙った。
港の喧騒が、少し遠くなる。
そして、軽く笑う。
「まあ、ちょっとね」
「教えろ」
「やだ」
即答だった。
「は?」
カイの声が低くなる。
「タイミングってあるでしょ」
ジンは指を軽く振った。
「今じゃない」
カイの空気が少しだけ変わる。
「……ふざけてんのか」
「いや、真面目」
その目は、ちゃんと真剣だった。
いつもの軽さが消えている。
そのことに気づいて、リナは無意識に琥珀へ触れた。
「それ、たぶんさ」
ジンがリナを見る。
「君が思ってるより、重いよ」
リナの指先に、琥珀の硬い感触が伝わる。
温かい。
でも、少しだけ怖い。
「……分かってる」
静かに答える。
ジンは少しだけ目を細めた。
「そっか」
それ以上は言わなかった。
重くなりかけた空気を、ジンがすぐに戻す。
「でさ。影の件、追ってるんだろ?」
軽く笑う。
「うん」
「俺も同じ。ちょっとこれが厄介でさ――」
少しだけ声が落ちた。
一人でもできなくはない。
でも。
ジンは、ちらりと二人を見る。
「せっかくだしさ、組まない?」
軽い言い方だった。
けれど、その奥にあるものは軽くない。
一瞬の静けさ。
潮風が通り抜ける。
リナはカイを見た。
カイは少しだけ考えてから、短く答える。
「……わかった」
ジンが笑った。
「決まりだな」
海は、静かに揺れていた。
その日の依頼は、港の外れに出る小型船の護衛だった。
海上で荷を運ぶ途中、船員の記憶が抜け落ちるような異変が起きているという。
最初はただの疲労か、海で働く者にありがちな事故だと思われていたらしい。
けれど、同じ海域を通った者だけが妙な空白を訴え始めたことで、影絡みの可能性が出た。
「まずは現場を見る」
ジンが言う。
「船、出せるの?」
リナが聞く。
「顔きく奴がいる」
「ほんと顔広いね」
「便利だろ?」
ジンはにっと笑った。
小型船は、思ったよりも揺れた。
乗り込んだときは、まだ平気だった。
港の中では波も穏やかで、リナは海面を覗き込む余裕すらあった。
陽の光を受けて、海がきらきらと輝いている。
遠くから鳥の声が聞こえ、風に混じる塩の匂いが胸をくすぐった。
綺麗だと思った。
けれど、沖に出た途端、体が波に置いていかれるような感覚に襲われた。
「……っ」
思わず船縁に手をつく。
視界の端で、カイがこちらを見た。
「顔色悪いぞ」
「……大丈夫」
「大丈夫な奴の顔じゃねえ」
短く言われて、リナは言い返そうとした。
けれど、次の波の揺れで、胃の奥がきゅっと縮んだ。
海は、綺麗だった。
ただし、船は別だった。
「おーい、生きてるか?」
ジンが軽く手を振る。
「……生きてる」
リナが小さく答えると、ジンは遠慮なく笑った。
「見事な船酔いだな」
「笑わないで」
「悪い悪い。でも、ここから本番かもな」
その言葉の直後だった。
船底を叩く水音。
軋む木材。
揺れる視界。
その中に、ひやりと冷たいものが混じった。
誰かの忘れた記憶の残滓。
リナの胸元で、琥珀が微かに熱を持つ。
「……いる」
リナがそう呟いた瞬間、カイが動いた。
甲板の影が不自然に伸びる。
船員の一人がぼんやりと立ち尽くし、手にしていた縄を落とした。
ジンが剣を抜く。
「カイ、右」
「分かってる」
二人の動きは速かった。
波に揺れる不安定な船の上だというのに、まるで足場の悪さなど初めから計算に入っているようだった。
ジンが影を引きつける。
カイがその奥にある核を探る。
リナは吐き気をこらえながら、琥珀に伝わる微かな痛みに意識を向けた。
怖い。
気持ち悪い。
でも、ここにいる誰かの記憶が、削られていく。
「……そこ」
リナは震える指で、船縁の下を指した。
「荷の影じゃない。船に、染みついてる」
「いい勘だ」
ジンが笑った。
「カイ!」
カイは返事をしなかった。
ただ、次の瞬間には船縁へ踏み込み、伸び上がった黒い影の中心を正確に斬り抜いていた。
影は音もなく裂けた。
黒い靄がほどける一瞬、リナの耳に誰かの声が触れた気がした。
帰りたい。
それは、言葉というより、感情だった。
胸の奥が痛む。
けれど、その感覚は波の揺れと一緒にすぐ遠ざかった。
残ったのは、潮風と、船員たちの荒い息だけ。
リナはそこで限界を迎え、甲板の端にしゃがみ込んだ。
「……海、きらいかも」
「海じゃなくて船だろ」
カイの声が上から落ちてくる。
「どっちも今は同じ……」
ジンは腹を抱えて笑いかけて、カイの視線に気づいて咳払いした。
「まあ、初日にしちゃ上出来だ。船酔いしながら影の位置当てる奴、そうそういねえよ」
「褒めてるの?」
「かなり」
そう言われても、素直には喜べなかった。
けれど、桟橋へ戻ってきた今、潮風に吹かれていると、少しだけ胸の奥が落ち着いていく。
港町は生きていた。
船から荷を下ろす男たち。
魚を並べる女たち。
子どもを叱る母親の声。
誰かの笑い声。
潮に濡れた木の匂い。
知らない場所ではない。
でも、前に来たときとは違って見えた。
「で?」
ジンが大きく伸びをする。
「今日はどうする?」
「まずは状況確認だな」
カイが短く答える。
「この辺りの影の発生が偏ってる」
「……海に何かある?」
リナの言葉に、ジンがちらっとこちらを見る。
その目が一瞬だけ、軽さを失った。
「あるかもな」
けれどすぐに、いつもの調子で笑う。
「だから行くんだろ」
カイは港の奥へ視線を向けていた。
その横顔は、どこか静かだった。
リナはその横顔を見て、ふと思う。
再会してから、まだ長い時間が経ったわけではない。
けれど、カイの隣にいることは、もう不自然ではなくなっていた。
忘れていたはずなのに。
思い出せないことがまだたくさんあるのに。
それでも、近くにいると胸の奥が揺れる。
琥珀が、微かに熱を持つ。
「おい」
カイの声で、リナは我に返った。
「また顔色悪いぞ」
「船酔いの名残」
「本当か?」
「本当」
カイは少し疑うように目を細めたが、それ以上は聞かなかった。
ジンが二人を見比べて、にやっと笑う。
「とりあえず、しばらくここを拠点にするか」
「しばらく?」
リナが聞き返す。
「一ヶ月くらい」
軽い声だった。
けれど、その提案は思っていたよりも具体的だった。
「港町周辺の依頼を回す。海上、倉庫、外れの森。影の出方も見たいし、お前らの動きも見たい」
「俺たちを試す気か」
カイが言う。
「試すっていうか、組むなら知っときたいだろ」
ジンは肩をすくめた。
「無理に合わせなくていい。けど、噛み合うかどうかは別だ」
リナは少しだけ考えた。
一ヶ月。
この港町で、依頼をこなしながら過ごす。
ジンと、カイと。
不安がないわけじゃない。
影のことも、琥珀のことも、カイの過去も、分からないことだらけだ。
でも、ここで逃げる気にはならなかった。
「私は、いいよ」
リナが言うと、ジンは満足そうに頷いた。
「カイは?」
「……勝手に決めるな」
「嫌なら今言えよ」
ジンが笑う。
カイはしばらく黙っていた。
その沈黙のあと、小さく息を吐く。
「一ヶ月だけだ」
「決まり」
ジンが手を叩いた。
「じゃあ明日から毎朝、朝練な」
「……え?」
リナの声が裏返る。
「当然だろ。連携見るって言ったじゃん」
「毎朝?」
「毎朝」
ジンは楽しそうだった。
「軽くな。ほんとに軽く」
「お前の軽くは信用できない」
カイが即座に言う。
「ひでえな」
「事実だろ」
そのやり取りに、リナは思わず笑ってしまった。
潮風が吹く。
まだ少しだけ船の揺れが体に残っている。
それでも、足元はさっきよりずっとしっかりしていた。
ここで、やっていくんだ。
ふと、そう思った。
海が、静かに揺れている。
潮騒の奥に、まだ見えない何かが眠っている気がした。
けれど今は、三人で同じ方を向いていた。




