天使さんと天使様
「ブルートさん、今日から宜しくお願いします」
臆することなく開いた扉から彼女は清々と言葉を交わす。
「おう、聞いてるぞ。また面白いコトを始めたな」
「これも学園ですごすことには変わらないでしょう?」
「まったくもってその通りだ──タチ、オマエも面倒かもしれんがよろしくしてくれ」
肩に同情するように手を置かれたり、『また面白いコトを始めたな』という言葉だったりが不安を誘うが、僕が彼女に不安を感じたことがない以上返事は決まっている。
「はいっ、僕こそ面倒を掛けないようすごしていきます」
「ハッ、そういやオマエもここじゃ変わり者も変わり者だったな。まぁ上手くやれや」
「ちょっと待って下さいブルートさんっ! 今までの発言に、多くの問い質す点がありますっ」
彼女の追及は無情にも鐘の音と重なってしまう。
「まぁそいういこった。文句は今度聞いてやるから席に着け、タチと授業を受けるんだろ?」
「うぅ、……仕方ないですね。タチさん座りましょうか?」
「はい、お願いします」
「ハンッ、すっかり馴染んでんな。じゃあ、敲いた訳でもないのに開かれた門を、敬虔にも潜っちまったオマエにこの言葉を贈ろう──『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる』」
恐らく有名な文言であり、僕自身も似た言葉を聞いた事があるかもしれないと、思える程度には知っている。
「はいっ、先生っ」
「なんだ天使」
「手順も手法も出鱈目です」
「いいんだよ、今日は。熱心な生徒が一人いて、その生徒が初登校なんだ。堅苦しいのは後回しでいい」
「あの、僕に気を使わず普通の授業でも大丈夫です。僕だけでなく天使さんもいますし、授業についていく自信もあります」
「ホラ見ろ、オマエが余計な事を言うから変な遠慮をしちまったじゃねぇか」
「いや、私は、えーと……すいませんでした。そのまま続けて下さい」
落ち込む天使さんは天使見習いのそれではなく、等身大の彼女が顔を覗かせたようで、僕には未だ新しい。僕としては本当に普通の授業でも構わなかったが、どうやらそれでは都合が悪いらしい。
「と言う訳だ、変な遠慮はしなくていい。心配もしなくていい、どうせ特別扱いは今日の一回限りだ」
「わざわざ有難うございます、お言葉に甘えます」
「まぁ天使の言うことにも一理あるか。全体の流れとしては祈って、神を称える歌を歌って、御言葉を伝え、説き、また歌う。簡略なものだがこれを午前と午後の授業の冒頭に行い、通常の授業に入るのがおおまかな流れだ。ウチのクラスだと冒頭から生徒がいることはないが、中盤くらいからはポツポツとだ。だから、頭の内にオマエに色々と伝えておこうと思ってな──余計だったか?」
「いえ、是非聞かせて下さい」
「今のでほとんど話したも同然だが、ついでに言うなら通常授業もそうだが別に冒頭の礼拝に出なくても問題ないし、理解しようと思わなくてもいい」
「でもそれでは、この学園からの卒業は難しいのでは?」
「そうかもしれない──だが、そうじゃないかもしれない。そうすべきだ、という見解に囚われて行動することが必ずしも正しいとは限らないという事だ。オマエの場合は特に選択肢が自由だ。オマエの背負うモノが何か分からない以上適切な助言はできねぇ、だから囚われるな」
答えのない問題を提示された僕はふと気付く。
「……それが最初の言葉の意味ですか?」
「一つのものの考え方だ。ぶっちゃけちまえば、この学園で自然と生活をしていればいずれは卒業出来る。そういう風に出来てんだと思ってくれ。そしてオマエは今、相応しい場所で正しく行動している。ならばいずれ何かが答えてくれる──それは友人かもしれないし、オレたち天使かもしれない。信じろとは言わないが無茶をしすぎるな、その頑張りがオマエにとってマイナスになることだってあり得るんだ」
『──忘れないで下さい。あなたもまた心を傷めた者なのですから』
天使さんの忠言が頭を過る。
「ご心配有難うございます」
「いや、これも務めのうちだ」
ブルートさんも、暗にそれを気にかけてくれたのではないか。
「うう、私が伝えようと思っていたことも言われてしまいました──……それにしても随分と一度にお話しましたね」
「いやオマエ、オマエの口から伝えるのはどうかと思うぞ」
「うっ、い、今のは聞かなかったことにして下さい」
これからそれが、僕の障害とまでになり得るとは思っていない──僕の傷とは同時に心の拠り所でもあるのだから。
「まぁいい、どの道教えちまったしな。コイツなら問題ないだろうし、ある程度知っておかないと何をするべきかも定まらないまま、無茶をするに決まってる」
「私もそう思います」
それでも……この二人が、こうして心配してくれているのだから心の内には留めておこう。
「僕はそういう評価なんですね」
「前例がないんだ、色々許せって言ったろ? まぁ頑張れや──じゃあ最後に歌と祈りを一つ」
「では、私も」
ブルートさんが備え付けのオルガンへ、その隣に天使さんが向かう。
ここまでが特に弛緩した空気という訳ではなかったと思う。それでもブルートさんの指が添えられ、天使さんの目が閉じられると、今までにない粛然たるものになったと確信できる。
始まりの合図も何もない──いつからかオルガン特有の音色が教室中を満たし、天使達の歌声が反響していた。
「凄い……」
この歌は知っている──恵みの歌。
その歴史や背景、歌詞の意味を深く理解しているかと問われれば否だ──だけど、その全てが些事だと言い切れる。耳に届き、心に響くこの歌を聞いていれば、理解より早く心が潤う。
ああ……、この歌を聴き続けることがこの学園での義務だと言うのなら、その七罪すら許されるのかもしれない。
「素晴らしい歌でしたね」
「ええ、まったく──へっ?」
サラさんがいつの間にか僕の隣の席に腰掛けていた。
「タチくん、まったく気付きませんでしたもんね──ですが、それも仕方ないと思います。天使様がこうして、教室で歌って下さることなんて私も初めてです」
「天使……様」
その言い分に……あー、とてつもなく嫌な予感がする。
「ええ、天使見習いと言う特別な立場と聞いてますが、他の七人の先生方にも劣らない真の天使様です」
「タチさーん──どうでした、私の歌?」
そんな心配を余所に、走り寄ってくるのは天使さん。
「えぇ、と……」
いつの間に来ていた同級生達の奇異の視線と動揺──当然隣のサラさんも同じく言葉を無くしている。
「あれ、どうかしました? あっ、私の歌に感動して声も出ないんですね。えへへー」
僕はどうすればいい?
恐らくだが、天使さんはここにいる学生にとって天使様とまで呼ばれる存在であり、敬われている。そんな彼女が見ず知らずの転校生である僕に、親しみをもって声をかけているこの状況。
あー、確かに第一印象は天使のようなという比喩が総じて真実だった……──何故こうなったっ!?
「天使、少しは落ち着け──ああ、コイツはタチといって今日からこのクラスの一員になったヤツだよろしく頼む。少しばかり特殊な境遇だが、その変に興味があるヤツは聞いてみればいい」
ああ、あなたこそが今、救いの天使様です。
「宜しくお願いします、タチです」
「さぁ、さっさと授業始めるぞー。後で聞くなり、こっそり授業中に聞くなり何でもいいが今は席に着けー──席云々は天使、主にオマエがだ」
こうして僕の自己紹介は、想像もしなかった形で始まり、終わりを迎えた。
「はーい」
そして当然のように僕の隣に座る天使さんである。
少しの間延びした時間であっても誰かが取り立てて騒ぐ訳でも、言葉少なに噂話に花を咲かせる訳でもないみたいだが──見られている、それに間違いはないだろう。ブルートさんやサラさんが言ったように、僕がこの場所に相応しくないからだろうか。それとも天使さんという存在が、僕の想像以上に偶像として敬われているのだろうか……もしくは、今の僕には想像もつかないような理由がまだあるのだろうか。
「え、と、タチくん、どういうことなんです?」
「何と言えばいいか……えー、簡単に言いますとここに来て迷子になっていた所を助けて頂きました」
「迷子……?」
「タチさんは凄いですね、この少しの間に友人が出来ています。私なんて、なかなか上手くいかないのに……」
そう言って俯く天使さんを見て、至らなかった自分を戒める。
「あ、えとこちらサラさんです。寮の案内をして頂きました」
「失礼しましたっ。私、サラと申します。よろしくお願い致します」
「はいっ、お願いしますね」
瞬時に笑顔になった天使さんを見て安心したが、ふと和やかに言葉を交える二人に挟まれているこの状況こそがと、思わないでもない。でも今更どうしようもないので考えない……考えたくない。
聞いていた通り、後半の授業は僕が受けてきた世間一般と思われる国語の授業であった。教材が国内の作家ではなく、シェイクスピアだったのはらしいと言えばらしいのかもしれない。
「タチさーん、こっちです」
先を行く天使さんが嬉々として手を振る姿は、僕にとっては既に馴染み深い事柄だ。
「あの、私はいてもいいのでしょうか」
「もちろんです。天使さんが一緒にとお誘いした訳ですし、遠慮は必要ないかと」
そうだ、『せっかくだから一緒に行きましょう?』と誘ったのは天使さんだ。唯の学校案内でこれほど恐縮してしまっているのはやはり──
「そう、ですね」
「先程の授業での空気と言いますか、その『天使様』という呼び名──もしかして僕は、大変なことをやっていますか?」
「比較的に言えば……」
「出来れば手短に説明してもらえます?」
聞きたくはないけれど……そうはいかないだろう
「えー、七人の天使様兼、先生がこの学園におられるのはご存知かと思います。その方々の一人と、まるで友人のように振る舞っていると言えばいいでしょか」
「おぅ……」
非常に大変で簡潔で分かり易い。
「タチさーん、二人で何を話してたんです? 私も混ぜて下さいよー」
駆け寄って来た天使さんは、拗ねたように口を尖らしているのだが──どうしたものか。
「申し訳ありません、天使様。私などが──ご一緒しても良いのかと少し……」
「サラさんっ、私達先程ちゃんとした挨拶をしましたよね?」
「は、はい」
「いきなり友人は難しいと私も思います。ですが私は、あなたと仲良くなりたいと思っています。ですので、そんなに緊張しないで下さい」
「はい」
「──ちなみに私とタチさんは既に友人ですっ」
「ええ、そこはもう認めますが、少し話が違うんじゃないですか?」
「えーと、何がです?」
この人は無自覚なのか……。
「何と言いますか、貴方のこの学園での立ち位置です」
「うっ、──ですが私が何かを言うより以前に、天使さんと呼んだのはタチさんですよ」
そう言えばそうだったかもしれない。
「ならそうと言ってくれればよかったんですよ。他の天使の方達も、特に何も言わなかったから疑問を挟むこともなかった──先程の授業まではです」
「すいませんでした。言い出すタイミングと言いますか、既にクラスメイトの方と上手く生活を送れているとは思っていなくて……」
あれ、これ、僕が天使さんを責めたてているような形に……。
「タチくん、これ以上は──間が悪い時は誰にでも、悪意などなくとも起こり得ます。天使様とご友人、それが許されることならば私は素晴らしいことだと思います」
「許すも何も、素晴らしいことかどうかも分かりませんが、有難うございます。サラさんはとてもお優しい方ですね──決めましたっ。是非サラさんともお友達になれるよう、私、励みますっ」
「そんな、私には勿体ないです」
「タチさん、何をボーっとしてるんです。この階の案内を始めますよ」
そして最終的に、僕が置いてけぼりをくらっているような……。
「いやそれよりっ──……はぁ、また後でいいです」
「では、こちらになりまーす──案内と言ってもこの場所に説明は不要ですかね」
「……図書室」
「はい、正解です。タチさんは本を読まれますか?」
「人並みには読むかと」
凄い、この階の全てが──単純に相当の蔵書数だ。
「では本の借り方くらいは、今知っておきましょう。さぁ、入りますよー」
「随分と豪勢な図書室ですね。一学園の施設とはとても思えません」
大きめの校舎の、一階部分全てを使っているのだから当然か。質素である中の煌びやかさと言えばいいのだろうか。無駄なく壁一面に続く本棚と、その中心の位置に存在する大きな壁画がそれを感じさせるのか。
「ええ、学園が誇る自慢の図書室です。天使様達に望めば大抵の本は揃えて頂けますし、本を読む環境としてもこれ以上ないものと思います」
「まったくです」
なんにせよ、学園の図書室だと案内されるよりも、どこかの国の国立図書館だと案内された方が得心するに違いない。
「あの天使様、タチくん、受け付けはこっちですよ」
「何で天使さんまで一緒になるんです?」
壮麗な内装に引かれるように歩み進んでいた僕達を止めてくれたのはサラさんだった。
「いえ、つい見惚れてしまって。一応生徒さん達の施設なので日頃はあまり利用しないようにしていますから」
それは勿体ない──そんな遠慮が必要なのかと、思わないでもないが何かあるのだろうか。
「では天使様に代わって私がタチくんに記入の仕方を教えますので、天使様は少しの間ですがごゆるりとなさって下さい」
「あ、お願いします」
「うー、有難いんですが何か違う気が……」
サラさんの気遣いは、天使様として接する上では間違いないのかもしれない。それでも、説明を受け終えた僕を、思案顔で待っていた天使さんの姿には感じる所があった──何か一つ、切っ掛けを作れればと思う。
「よく考えれば私、こうして学園の案内は出来ますが、ほとんどの場所を利用したことがなかったように思います」
「そうなんですか?」
三階の美術室と理科室の案内を終えた天使さんが思い出したように宣言する。
「生徒としてではなく、天使見習いとして皆さんとご一緒してきましたから」
「──僕はその、未だに天使見習いと言いますか、天使さんのこの学園での立場と言ったものがいまいち分かりません」
「どうなんでしょう、実は私にも分かりません。私は、ここに来た当初から天使になるという事が理解できなくて、他の天使様に言われるままに勉学に励んでました。そして私も、私なりの努力を重ねてきたつもりです──それが皆さんにどの様に映り、どの様に思われているか少し不安でもあります」
「そう、ですか」
不満はないと、けれど霞のような疎外感を感じると彼女は言っていた。今、口から零れた言葉はその全てを集めたものなのかもしれない──そして確かに、僕達は境遇が似るのかもしれない。
「天使様はっ、──皆の憧れですっ」
「サラさん?」
沈みかけていた空気を引き裂いたのは、サラさんの懇篤の言葉だった。
「……この学園に慣れた者は皆、天使様を崇います。比肩することすら躊躇われる程の容姿、慈愛あふれる所作、そして何よりも素晴らしい歌声──天使様は他七人の天使様と同じく天使様です。これは私個人の意見ではなく学園の皆が声を揃えるでしょう。どうか天使様、そのような悲しいことを仰らないで下さい」
「えっ、え? 私、皆さんからそのように思われてるんですか?」
「はい、偽りなく」
「嬉しいです──タチさんっ、私の頑張り無駄じゃなかったみたいですっ」
「えぇ。僕も希望を持てそうです」
「──えー、私はタチくんがどんな希望を持ち得るのか知りませんが、タチくんの現状を快く思わない人たちがいるかもしれないというのは頭に入れておいた方がいいと思います」
「今からでも正した方がいいでしょうか?」
もしかしたならサラさんも、思う所があるのだろうか──それはそうか、既に一度自分で辿りついた結論だ。
「いえ、決して──」
「ダメですっ!」
今度は天使さんだった。
「いや、だけども──」
「ダメなものはダメです。せっかく友人と呼べる隣人が出来たんです、今更正そうなどと悲しいことを言わないで下さい」
「天使さん、僕が何かを言われるのは構いません。ですが、もしもこの件で天使さんが謂われない中傷に晒されたり、天使さんの問題解決の障害になるようなことがあれば僕は自分を許せません。僕達は既に友人かもしれませんが、天使さんを敬う気持ちは他の生徒と変わらないと自負しています──僕は君に感謝しています、ですから」
「そ・れ・で・も、ですっ。喜ばしいことに、皆が私を慕ってくれているのであれば話せば伝わります。少しずつ伝えていきましょう──私達の学園生活は始まったばかりなのですから」
学園生徒の皆が崇うのも頷ける。
「はぁ──分かりました、天使さんの御心のままに」
「ふふ、何ですかー、そのチグハグな返事は」
「お二人が素敵な友人関係だというのはよく分かりました。私の心配は杞憂というものでしょう、差し出がましい言舌をお許し下さい」
それはそれとしてだ。僕にも同じ思いがあるにも関わらず、僕と他の人間で何故ここまでの齟齬が生まれる?
「ですから、そんなに畏まらないで下さいって。私達はクラスメイトなんですから」
「クラスメイト……ですか?」
「あれ? 言ってませんでしたっけ、タチさんと同じ期間だけになりますが私も怠惰のクラスでお世話になります」
「えー──そもそも、サラさんは既に知っていますが、未だクラスメイトに僕の問題を告白していません」
「あっ……」
「ふふ、あははは──天使様の素の御顔が、今のものなのですね。分かりました、私もご期待に沿えるよう努力します──……天使さん」
「はいっ、お願いします」
僕には痴がましいことだったのかもしれない。切っ掛けを作ると意気込むまでもなく、天使さんは魅力的だ。こうして時間さえかければ、天使さんの望むものは手に入る──僕に出来る事なんてものは、少ないのかもしれない。
この際だ、確かめられることは今の内に確かめておこう。
「これは二人に質問なんですが、僕と天使さんの関係とこの学園の生徒と天使さんの関係とでここまでの差があるのは何故でしょう?」
「何故でしょうね。決して疎まれているとは思っていませんでしたが、まさか他の天使様と同じように敬われているとは思っていませんでしたから」
「天使さん、先程私は他の天使様と同じくと言いましたが、それも正確とは言えないかもしれません」
「と言いますと?」
「何と言いますか、天使さんは特殊だと言えます。先生方のように接することは出来ず、かと言って友人のようにという訳にはいかず、それでいて遠すぎる訳でもない。そして誰もが天使さんの容姿に、所作に、歌声に魅了される──そうして、少しずつ今の環境が出来上がったのではないでしょうか」
「どうしても私は特殊だという事ですか……」
僕もきっと他人事ではいられない。特殊であるということは──周りと違うということは、それだけで一つの対象になる。
「いえそんなっ、決して悪い意味ではなく一種のアイドルや看板娘のような存在であると考えて下さい」
「ア、アイドルですか!? 私の天使になるという努力が、そのような形で実を結ぶとは思ってもみませんでした」
また少し沈みかけた空気が、再び僕の伺い知らぬ所で解決されるのは悔しい──故に、
「おめでたいというべきではありませんが、決して悪い事ではないと、僕は思いますよ」
「ふふっ、そうですね」
いつかの彼女の優しさが彼女に届いた時、横道に逸れ続けていた事柄が声をあげていた。
「音楽室……ですか?」
「はい。どうやら使用中のようですねー、ここの設備もなかなかのものなので、是非今度ご一緒しましょうね」
「はい」
「サラさんもっ」
「はい、お願いします」
手を取りじゃれ合う二人は、傍目から見れば友人そのものであり微笑ましく、少しの翳りを見せた空間さえも華やかなものとする。
「私、歌は得意なんですっ。よく天使様達にも褒めて頂いてて──あ! 分かりましたっ。普段こんな感じの私がアイドルのように扱われるのはきっと、歌が少し上手いからなんですよ」
「ええ、割合で言えば多くを占めると、予想出来るには十分な歌声でした」
「んっ? タチさん、今のは少し失礼なのでは──」
「あら天使様、ごきげんよう」
ご、ごきげんよう!?
「キヨナさん、ごきげんよう」
こっちもですか!?
「──本日はどうやらお忙しいご様子、機会がありましたらわたくしたちの合唱をご覧になって頂けませんか?」
「はい、是非お邪魔させて頂きます」
「それは皆さん喜ばれますわ。ではお邪魔になってはいけないから本日はこれにて失礼いたします、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
最後のごきげんようは、僕とサラさんにも向けられたものだったかもしれないが、僕とサラさんの口からは終ぞその言葉が出ることなく会釈だけが唯一叶う作法だった。
「て、天使さん。今のは?」
「嫉妬のクラスのキヨナさんです。タチさん、キヨナさんは厳しい方ですから『今のは?』なんて言っていると怒られますよ」
いやそれもそうだろうと思うけど、衒いなど一切なく交わした言葉はあまりに彼女に相応しいものだった。
「えーと、天使さんは普段から先程のような挨拶をするんですか?」
「いえ、特には」
「それにしては随分と様になっていると言いますか、むしろこれ以上ないと言いますか」
「嫉妬のクラスに何名か上品な方がいてですね、その方達の期待に応えようと励んでいたら馴染んじゃいました──そう言えば嫉妬のクラスの方達と交流があってからは、何故か他のクラスの方からも『ごきげんよう』と挨拶をもらうことが増えたような」
「それだっ」
「それですっ」
「ふぇっ、何です二人して」




