襲撃
日が傾き、空は茜色から夜の闇になろうかと言う頃に、玥寧は家を出た。
昼間は往来していた人々の姿はもうない。玥寧の固い地面の土を踏む足音だけがやたらと周りに響き渡った。そして畑まで来ると、昨日も座っていた場所に腰を下ろす。
村の灯りはなく、視界はあまりいいとは言えない。だが、幸いにも今日は雲もなく月も満月だ。地上に届く光としては昨日よりも頼もしい。
――野菜は子安たちがほとんど収穫しちまったからな。食べるものもそこまで残っているわけじゃないから、ここには来ないかもしれないな。
青々とした実以外に、売り物にならないような野菜はそのまま残されている。そして、熟れた野菜もチラチラと残っているのを見ると、野犬のためにわざと残していったのかもしれない。
玥寧は息を潜めて気配を消し、出来る限り身動きを取らないようじっとその場で待っていると、遠くから規則的に地面を掻くような音が聞こえてくる。
――来た。
玥寧がその方を睨み見つめていると、山を登って現れたのは一瞬怯んでしまいそうなほど大きな体の野犬だった。その犬を見た瞬間、冷や汗と共に息を呑んだのは言うまでもない。
――で、でけぇ……。こんな大きさだなんて聞いてないぞ。
確かに痩せ衰えてはいる。毛並みは艶もなく、ところどころ栄養不足なのか禿げているような場所も見て取れた。四つ足で歩きまわっている姿を見るだけでもかなりの大きさだと分かるのに、立ち上がりでもすれば、比較的小柄な玥寧の身長などゆうに超えてしまうだろう。
――図体のでかい奴は大概気が弱いだとか言うけど、全部の個体がそうだとは限らないからな。
一気に緊張感に包まれ生唾を飲み込みながら、無意識に傍にあった石を掴む。
野犬は警戒する玥寧をよそに、地面を執拗に嗅ぎまわり食べ物を探している。数歩進んでは地面を掻き、また数歩進んでは地面を掻く。かと思えば元の場所に戻り同じ場所を引っ掻きまわり、動きが不規則だ。
――犬の嗅覚は鋭いはずなのに、あいつ何してんだ?
野犬の動きが不可解で、思わず眉間に皺が寄る。
ぐるぐると同じ場所を歩き回っているかと思えば、ようやく畑の中に足を踏み入れ始める。ザリザリと柔らかな土を掻く音が響き、野犬の傍に先の折れた大根が一つ、転がり落ちる。その衝撃に顔を上げた野犬は唸り声をあげ、異常な反応で大根に噛みついた。
「!」
口に咥えたまま激しく首を振って、大根を振り回し始める。
あの行動は、狩った獲物の息の根を確実に止めるための行動そのものだ。
やがて野犬の噛みつく強さと、振り回された勢いで大根が砕け落ちる。そこをすかさず、追い打ちをかけるように食らい付くと、ぼりぼりと言う、まるで骨を砕いているかのような鈍い音を立てて食い荒らす。
――なんか、尋常じゃねぇぞ。
普通の野犬にしては気が荒い。あの犬が、村民たちの言う犬なのかは分からないが、非常に気性が荒い。溢れ出る涎を辺りに巻き散らし、月明かりに光る眼に黒眼が見えない。
犬は大根を跡形もなく砕くと、また地面を執拗に嗅ぎまわりはじめた。よく見れば、大根は齧られてはいるが食べると言うよりも砕いただけのように見える。
極限に腹を空かしているはずなのに、飲み込むことはせず砕くだけ……? いや、実際は食っているんだろうが、それにして痩せ過ぎている。
野犬はそのまま再び畑でぐるぐると同じ場所を行ったり来たりしていた。行っては戻り、土を引っ掻いては行く。その動きを見ていると、玥寧はハッとなった。
――あの動き、昼間の子安の動きに似ている……。
そう思った瞬間、玥寧の指が近くの小石を弾き、音を立てた。
「やば……」
瞬間的に声が出た瞬間、野犬は顔を上げてこちらを見てくる。そして深く唸り声を上げながら、ゆっくりと近づいて来た。
光る眼光は怪しく揺らめく。横顔で確認した目にはやはり黒眼が見えない。滴る涎はだらだらと地面に線を描いている。
――これは……怪異だ!
玥寧は急ぎ、持って来た袋に手を突っ込んだ。そして筆と紙を取り出そうとしたが、一足早く野犬が飛びかかってくる。
「!」
護符を書く間もなく、玥寧は野犬に組み敷かれるような形になった。雨のように滴り落ちる涎をまともに顔面に食らい、思わず背筋に身の毛がよだつ。
野犬は低い唸り声をあげて大きな口を開き、顔に噛みついてこようとした。玥寧は咄嗟に庇うよう顔の前に腕をやり、同時に振り上げた足が野犬の腹部を強く蹴る。その拍子に、野犬の鋭い牙が玥寧の腕の皮膚を割き、蹴り飛ばされた野犬の体は近くの石垣に激突し、甲高い声を上げて動かなくなった。
「……っ」
玥寧は肩で息を吐きながら地面から身を起こす。無意識についた腕に激痛が走り、この時初めて腕に負った傷に気が付いた。
「……何だよ、これ」
愕然とした様子の玥寧の背後で、野犬の声が村中に響き渡ったことで、寝静まっていた家々の灯りが一斉に灯り始める。
「玥寧!」
松明を手に一目散に駆けてきたのは子安だった。
彼が畑に駆け付けるのとほぼ同時に、気を失っていた野犬は目を覚まし、一目散にその場から走り去っていく。
「大丈夫か?」
べたべたに汚れ、腕から多量の血を流している玥寧の傍に子安がしゃがみ込む。
「こりゃ……ひでぇ」
茫然としている玥寧の様子に、焦りの色を見せた子安が険しい表情で顔を上げる。
「明明! 救急箱を!」
子安は急ぎ妻に救急箱を取ってくるように声を上げる。その背後から息を荒らげながら村長も駆け寄ってくる。
「玥寧! 大丈夫か?」
手当を受ける玥寧を見た村長は、愕然とした表情を浮かべる。
「……なんてことだ」
巻きつける包帯にはすぐに血が滲んだ。玥寧も顔を顰めるほどの痛みが走る。そして顔を上げることもなく、微かに震える声で口を開いた。
「……村長さま。あの野犬、怪異だ」
「怪異?」
「あれは尋常じゃない。明らかな怪異だ」
複雑な顔を浮かべる村長に対し、顔を上げた玥寧の目は、深手を負ったにも関わらず、どこか活き活きとしていた。
「……玥寧?」
そのあまりに活き活きとした眼差しに、村長を始めその場にいた全員が思わず引いてしまう。しかし、当の本人は興奮していた。
――私の、道士としての最初の仕事がやっと来た!
押さえきれない喜びと興奮が、今の玥寧の頭の中を占めていた。




