饅頭
「ほら、食えよ」
「!」
陽がだいぶ傾き始め、空が茜色に染まり始めた頃。近くにある家々からは美味しそうな匂いがし始める。
玥寧はその匂いに耐えられず、生唾を飲み込みながらまだ枝に付いている野菜に手を伸ばそうか止めようか、本気で悩んでしまっていた。その度に何とか自分を律するも、こうも腹が減っては理性が吹っ飛びそうだ。今、この瞬間だけは野犬の気持ちが分かってしまう、と思っていた。危うく作物に手を伸ばそうかと手指が動いたその時、無造作に後ろから差し出されたのは、蒸したての肉饅頭だった。
玥寧が弾かれるようにそちらを振り返ると、饅頭を差し出しているのは彼女に最初に依頼話を持ってきた男――子安だった。
「玥寧のことだから、どうせ食ってないだろうって、村長が」
「おぉ!」
玥寧は目を輝かせ、差し出された饅頭二個を貰い受けると思いっきり食らいつく。口いっぱいに広がる生地の絶妙な甘さに、溢れ出す肉汁が広がり、玥寧はこれ以上ないほど幸せそうな顔をする。
「うんまぁああぁ!!」
「……お前、いつから食ってないんだよ」
あまりの食らい付き方に、子安は呆れたような顔で見てくる。
玥寧はリスのように頬を膨らませていた口を動かしながら、しばらく考えるように視界を彷徨わせ、饅頭を呑み込んでからけろりとした顔で答えた。
「三日」
「三日!?」
「いや、仕事が無さ過ぎてさ。食材を節約して使ってたんだけど、食わない日もあったりして。そしたら三日食ってなかったな」
まぁここ最近はいつものことだから。と、玥寧は笑って見せる。
自分一人で暮らし、自分で稼いだ金で生活を守る。きちんとした仕事についていない玥寧には、簡単なようでなかなかに難しいことではある。それならば何か定職を……と考えたこともあるが、そちらを優先しては本業に支障が出ると、なかなか踏み出せずにいた。
「そんなに切り詰めなきゃならないくらいなら、玉蘭さんに頼れよ。さすがに一人娘がそんな生活してるなんて知ったら、卒倒するぞ」
玥寧は最後の饅頭のひとかけらを口の中に放り込み、噛みしめるように食べて飲み込むと短く唸る。
「いや……大見得切って家飛び出した手前、帰り辛いんだよなぁ……」
玥寧の実家は、この村にはない。もう少し川を下った場所にあるこの村よりも大きな街にある。今は亡き祖父が建てたお屋敷で生まれた、本当は裕福な家の生まれだった。
「そもそも、何でこの村に住もうと思ったんだよ。お前ならもっと中心街で暮らせるだろうに」
子安が呆れた表情でそう訊ねれば、玥寧は久し振りに満たされた腹に満足そうな顔をしながら、何気なく今暮らしている家の方へ視線を向けた。
夕日に照らされた、小屋と呼ぶにふさわしいオンボロの家ではあるが、玥寧にはとても大切な家でもあった。
「……ここはさ、祖父さんの生まれ故郷なんだ。私は祖父さんを尊敬しているし、祖父さんのような道士になりたいんだよ」
「だからって……」
「そもそも、ここで暮らしてるなんて知ったら、それこそ母様はお冠な上に卒倒する。母様は祖父さんのこと凄く嫌っていたから……。そんなこと引っ提げて帰ってしまったら、二度と家から出してくれなくなりそうでさ」
意地もある。だが、それ以上に、戻ることで自分の行く道を閉ざされてしまう可能性がある方が怖かった。母の祖父嫌いは昔からで、玥寧が生まれてからは一度も祖父の話をしたことはない。
玥寧が祖父の存在を知り、祖父のしてきたことを知ったのは四年前。祖父の遺していた日記を偶然見つけて読んだことで、祖父と同じ道士の道を志し、念願叶って道士なったのが三年前。母の猛反対を半ば強引に押し切ってなった手前、顔を合わせにくいのもあった。
――今更だけど、母様怒っているんだろうなぁ……。
そう思いはするものの、道士になったことを後悔はしていない。それよりも、道士になったはいいが何一つ成果を上げることもなく、ただ食うのに困ったからと家に戻ったのでは、あまりに情けないではないか。
「……ここの皆の世話になりっぱなしになってる自覚はあるんだよ。暮らしていくのでさえ、お荷物になってるってこともさ」
「……別にお荷物だなんて誰も思ってないさ」
「?」
子安はぽんと玥寧の頭に手を置き、にっこりと笑った。
「玥寧の明るい性格とか、どんな小さな頼まれごとでも嫌な顔一つせずに引き受けてくれてみんな頼りにしてる。何より、この村の一番の若手は、今はお前しかねぇしな!」
そう言ってもらえるなら有難かった。大した術があるわけではないが、少しでも役立っているならと肩から僅かに力が抜ける。
「じゃ、見張り頑張れよ」
子安はそう言いながら、持っていた竹筒の水筒を手渡すとその場を離れて行った。
腹も満たされ、水分も手に入れた玥寧はその場に座り直し、畑の方へ視線を戻す。
荒らされたままの作物は綺麗に片づけられ、傾いた枝も補正されて、実の数は減ったものの元のように戻っている。
――さて、気力十分。どこからやってくるか待ち構えてやろうじゃん。
気合十分。玥寧は静まり返って虫の鳴き声しかしない畑の隅で、じっと息を潜めて野犬を待ち続けた。が、この日は野犬が来ることはなく、日が昇る。
明け方に玥寧を心配した村長が畑にやってくると、彼女はやや目が血走り、酷く眠たそうに振り返ってきた。その表情に一瞬足が止まってしまう。
「……あ、村長さま。おはようございます」
「その様子だと、昨夜は来なかったようだな」
「人に警戒してるのか、はたまた見たことない、人相の悪い案山子に驚いたんでしょ」
自分のことを「人相の悪い案山子」と揶揄すると、村長は何とも言えない表情を浮かべる。
玥寧はゆっくりと立ち上がると、着物に付いた埃を叩き落とす。そして大きく伸びをしながら深いため息を吐くと、眩しい朝日が差し込み始めた山を見る。
「ま、初日はこんなもんでしょ。問題はここからだ」
玥寧は村長を見ると、思い出したように頭を下げた。
「あ、昨日は饅頭ありがとうございました。じゃあまた夜、来るんで」
眠たそうな目をして、半ば眠りかけている様子で頭を下げると、玥寧はヨロヨロとおぼつかない足取りで家へと戻って行く。
そんな彼女の後姿を見送り、村長は心のどこかで年頃の娘に対して申し訳ないことをしたかもしれない、と僅かに胸が痛んだ。




