犬
「酷い……。近頃は日照りが続いて、作物も育ちにくくなってるって言うのに……」
「あの犬、臆病者だからいつもは人里に降りてきてもすぐ追っ払えてたのにな。今回は一体どうしたって言うんだろう」
村を歩いているとどこからか聞こえてくる言葉は、嘆くような話ばかりだった。
人里に降りてきても簡単に追っ払えていた内は、まだ犬にも余力があっただろうし、どこかに餌になるものがあったからかもしれない。当然、臆病な性格も手伝っていたのかもしれないが、それを越えて極限状態になった、と言うだけの話だとは思うが。
玥寧は冷めたようにその話を聞き流しながら、一番手酷くやられていた畑へとやってきた。
畑に植えられているのは、人参やキャベツなどの野菜。そしてトマトや白瓜などのようだった。どれもこれも美味しそうに熟れているのを見ると、思わず喉を鳴らしそうになる。
――美味そうだなぁ……。
玥寧は自分も腹を空かせているあまり、魔が差しそうな気分になる。それでは野犬と変わらない。
――いやいや、仕事仕事。
小さく頭を振り、玥寧はもう一度荒らされた作物を見る。
野菜は大量に掘り起こされ、どれもが中途半端に齧られている。間もなく収穫と言うところで荒らされたとあっては、皆いい気はしないだろう。
「おお、玥寧」
「村長さま。野犬が出たんだって?」
「そうなんだよ。こんなにも作物を荒らされたとあっては、我々の生活が危ぶまれる。追っ払ってもらえんか?」
困り果てたように話す村長だが、当然、そのつもりで来たのだから受けないわけではない。それでも聞かずにはいられないことを口にした。
「私が出なくても村の男手があれば事足りるんじゃないのか?」
「確かにそうだが……お主はそれで良いのか?」
意味深なその言葉に、玥寧はぐっと口を引き結ぶ。
村長は分かっているのだ。玥寧の仕事が無く、生活に困っているという事を。村長とは親の代からの長い付き合いだ。小さな仕事でも、出来る限り玥寧に回してやろうという気遣いからくるものだというのは分かっている。
「別に、聞いてみただけだし。で? 野犬退治をしたらいくらくれる? あんまり破格だとどちらにしても困るんだけど」
玥寧が腕を組み、むっと顔を顰めながらそう言うと、村長は笑いながら小さな小袋を一つ、着物の袂から取り出した。
「ひとまず前金としてこれを渡しておこう。なぁに、贅沢しなけりゃ向こう三日ぐらいなら過ごせるだけの金は入っている。残りは犬退治が終わったら渡すとしよう」
村長から小袋を受け取り、躊躇いもなくちらりと中を見る。
確かに、中には三日は食べていけるだけの金額が入っていた。
「……残りの分はどのくらいもらえるんだ?」
玥寧はそれを懐にしまいながら、残りの金額について軽く触れる。
その内容によっては、別の出稼ぎも考えなければならない。
「今渡したのは一割程度の手付金だと思ってくれればいい。野犬を退治して安全が確保できたなら、残りの九割を渡そう。それでひと月は余裕で暮らせるだろうよ」
「よし、乗った! この仕事、きっちりやらせてもらう」
玥寧は村長と握手をし、早速仕事に取り掛かる。
作物の傍にしゃがみ込み、食い散らかした様子を見ながら背後に立っている村長に声をかける。
「それで? 野犬が来るようになったのは、ここ二、三日の間だって話だったよな?」
玥寧が村長に訊ねると、彼は深く首を縦に振る。
「あぁ。まぁ、正確には今までも来てはいたがな。いつもなら人を見たらすぐ逃げ出していたと聞いているが、人を襲うのは初めてだよ」
「……普通に考えたら、それだけ極限の状態まで追い込まれていたって考えられるよな?」
「まぁ、そうだな」
犬が人を襲うには何か理由があるはず。例えば強い恐怖を感じた時であったり、あるいは自分の縄張りが脅かされたり、もしくは身の危険を感じた時などだ。
「追っ払うのに石を投げてたと聞いたけど?」
考えられる原因の一つとして、その石が犬にダメージを与えていたかもしれない、ということだが……。
「怪我を負わせるような投げ方はしてない。小さい小石を犬の近くに、下から軽く投げるくらいだよ」
村長の隣にいた村民が答える。
そう言う話であれば、犬が強い恐怖を覚えるほどではないだろう。では、他に何か原因があるのだろうか?
玥寧はふと畑に目をやる。乱雑に掘り返された作物に、齧りかけの野菜があちらこちらに散らばっている。どれも中途半端な齧り方を見るに、植えられていた野菜に何か問題があったんではないだろうか?
「野菜だけど、何か薬使った?」
「薬? そんなもの使わないさ。そもそも、高くて手が出せない」
「……それもそうか」
ここは貧しい山奥の村。人が飲むための薬でさえ手を出すことに躊躇いを覚えてしまう人がほとんどの中で、わざわざ農作物のために薬を出そうと思う人はいないだろう。
だとすれば、他に考えられるのは畑の土を浄化する目的で植えるものの影響か。
そう言えば少し離れた場所に、綺麗な黄色やオレンジ色の花が咲いていたのを思い出す。
「万寿菊の影響とか……」
「万寿菊?」
「万寿菊は人間にとって大した毒はないが、動物が食べると中毒症状を起こすんだよ」
万寿菊の汁にはそれなりの毒性がある。その花の汁が付いた状態で日光を浴びると、皮膚炎を起こしたり痒みを伴ったりする可能性がある。だたし、それは人にあり得る毒性だ。誤って口に入れるような真似はそうそうない。だが、動物は別だ。極限に腹が減っているなら、食えるものは何でも食い荒らす可能性は捨てきれない。可能性としては低くとも、それによって中毒症状を引き起こし、錯乱して人を襲った、などという事も?
「少し前に見たけど、万寿菊が荒らされてる様子は無かったぞ」
「なんだ。じゃあ違うな」
玥寧は腕を組む。原因は不明だが、ひとまずは様子を窺い知ることが先決だ。何か人為的なものが絡んでいるなら、話は別だが今回の案件は、そこまで複雑ではないだろう。
「まぁ、そういう事なら……」
玥寧はその場に腰を下ろした。そして傍にある小石を掴み、手の中で軽く投げ始める。
突然座り込んだ玥寧に、村長たちが驚いたように彼女を見下ろしてきたが、玥寧にはその視線の方が不思議に思えた。
「犬、追っ払えばいいんだろ? だったらここに来るまで待機してるのが妥当じゃないか?」
「あ、あぁ、そうだな」
「で? 大体いつぐらいに姿を見せるんだ?」
玥寧が小石を見つめて手の中で弄びながら訊ねると、村長たちは顔を見合わせた。
「それが、日によって違うんだ。具体的にいつぐらいとは言えなくて……」
「分かった。じゃあ来るまでここで見張ってる」
「えぇ? ここで寝ずの番をするって言うのか?」
「そりゃね。私に来た依頼だからな。金も貰ってるんだ。適当な仕事はできないだろ? それとも、時々はあんたが代わってくれるのか?」
驚きを隠せない村民を睨むように見上げると、男はそれ以上何も言えず口をつぐむ。
人が襲われた、と聞いて尻込まない奴はいないだろう。玥寧は金が絡めば大抵のことは無茶をしてでも完遂しようとする。
生きるためには金が必要。そのための手段なんか選んでいられない。もちろん、法を犯すような手段は取らないが。
「じゃあ玥寧、気をつけるんだぞ?」
「あぁ、そうだ村長。一ついいか?」
立ち去ろうとする村長が玥寧を振り返ると、彼女は手にした小石を握りしめた。
「……退治であれば、問題ないんだよな?」
物騒な言葉が含まれるその言葉に、村長たちが思わず息を呑んだ。それを見た玥寧は目を瞬き、笑って見せる。
「やだな。考えてるような物騒なことをするつもりはないよ。ただ、時と場合ってもんがあるだろ? さすがに自分の命が危ない時に手段は選べないし」
そう言うと、その場にいた全員が肩から力を抜いてあからさまに安堵の息を漏らす。
……一体、何をすると思われていたんだろうか?
「もちろんだ。とにかく怪我のないように頼むよ。玥寧に怪我をさせたとあったら、玉蘭が黙ってないだろうからね」
村長の許可を得た玥寧は、深いため息を一つ吐いて空を見上げた。
昼下がり。太陽が少し西に寄っている。
いつの間にかこんなに時間が経っているとは思わなかった。ここで犬が来るのを待つことになるなら、前金で饅頭の一つでも買ってきておけば良かったと、玥寧は内心舌打ちをした。
「……腹減ったなぁ……」
その言葉が、虚しく風に掻き消された。




