変異
あの日を境に、星漢の様子は悪化していっていた。夜毎叫んだり、怒鳴ったかと思えば笑ってみたり、物を倒す音が響き渡ったりと騒音が絶えない。これにはさすがの近隣住民たちも薄気味悪がり、怪訝な顔で彼の家を避けるようになっていた。
「あたし、あいつの家の隣なの嫌なんだけど」
「分かる。気味悪いよね……。引っ越せば?」
「そうしたいのは山々だけど、そんな余裕ないわよ。ねぇ、しばらくあんたんとこに泊めてくれない?」
そんな会話があちらこちらから聞こえてくることも不思議じゃなくなった。
村の治安が悪くなり、ひそひそとした陰口が絶えないこの状況を、村長もとても気にしていた。
「……あいつは一体、どうしたんだ」
村長も星漢のことは良く知っていた。今まで誰にも迷惑をかけず、控え目だった彼がここまで壊れるようなことが信じられないようで頭を抱えてしまっている。
「このまま放っといたら、この不安や陰口の矛先が爺さんに向けられることも、そう遠くないだろうな」
丸テーブルを囲んでいた承武の言葉に玥寧も頷き返した。
「季節の変わり目のせいかとも思ったんだがな……。あそこまで壊れた人間は見たことが無い。承武はあるんだろ? 旅先でおかしくなった人間がいたって、この間言ってたし」
「噂に聞いただけで、実際に見たことはねぇよ」
頭を抱えた村長は、その会話に、隣に座っている承武に視線を向ける。
「そのおかしくなったその人間は、どうなったんだ?」
「話じゃ、どこか山の中の洞窟内に監禁されたって聞いたが、その後どうしたかまでは知らねぇ」
「……監禁か」
それもやむを得ないのかもしれない、と村長は小さく呟く。
村外れに、使っていないボロ家が一件残っている。彼には可哀想ではあるが、そうしなければ皆が怯えて日常生活を送ることができないだろう。今はまだ家の中で騒いでいるだけだが、いつ外に飛び出してきて他の誰かに危害を加えるか分からない。周りの人間たちは皆、そこをとても気にして村長に何度も相談に来ている。
その隣で黙って考え込んでいた玥寧が、ふと口を開いた。
「……あのさ、村長さま」
「どうした玥寧」
「星漢の今の行動、この間の野犬によく似てる気がするんだよな」
顎に手をやり、テーブルの上に置いてある白茶を見つめながら玥寧が呟く。
野犬も始めは大人しく、人間を見ただけで尻尾を巻いて逃げ出していた。それが、あの事件の時は異常な凶暴性を発揮して人に危害を加えるようになった。そして、今回の星漢も同じにおいがしている。
その話に、村長の顔つきがにわかに厳しくなる。
「物憑きの可能性がある、という事か?」
「確証はないんだ。でも、前に家に行った時、あいつ誰と会話してたんだろうって、ずっと気になっててな」
独り言にしては会話が成り立っているようにも聞こえた。しかし、相手の声は一切聞こえてこなかった。もしボソボソと話すのが癖の人だったのだとしても、あの星漢が取り乱すほど気性の荒い人間が相手なら、声の一つや二つ、聞こえてきてもおかしくないはずなのだ。
「食い物も食ってる様子が無いし、水も摂ってるかどうか分からない。私たちが見た時には、前よりもこけてたように見えたし、目も濁って見えた」
野犬の時ほど「憑き物だ」とハッキリ言い切れないのは、よく知る星漢の姿があるせいなのかもしれない。
村長は低く唸り、しばし黙り込んだ。そして一度席を立つと部屋の奥へと消え、ほどなく袋を一つ持って戻って来る。
「?」
その袋は玥寧の前に置かれ、不思議に思い村長を見上げると、彼は難しい顔を浮かべながら口を開く。
「おぬしが先の野犬に似ているというのなら、そうなのだろう。野犬同様、このままにしておくわけにはいくまい」
玥寧はその袋の口を開くと、以前貰ったものよりも多額の金が入っている。
それを見た瞬間、玥寧はニヤリと微笑んだ。
「よし、請け負った」
「おい、憑き物かどうかも分からねぇのに請け負うのかよ」
「試してみる価値はあるだろ?」
重たい袋を持って来た鞄の中に捻じ込むと、じろりと睨むように承武を睨みつける。
「今度は絶対に邪魔すんなよ」
「……まだ根に持ってる」
フン、と鼻を鳴らすと玥寧は鼻歌交じりにその場を離れた。
そんな彼女を見送る承武に、村長はちらりと視線をやる。
「お前、武人のくせに尻に敷かれるタイプか」
「……武人だろうがそれは関係ねぇだろ」
承武は頬杖を突いたまま、祖父に視線を向けるでもなくぼそりと呟いた。
玥寧は、最初の時ほど気持ちが上がっているわけではないが、それでも再び道士としての仕事ができることが嬉しかった。何より、これが次の仕事に繋がり、収入を得られたことに対する喜びもある。この金があれば、もう一つ壺の中身も満たされるだろう。当面は食べることに困ることはない保証は心強い。
――このまま順調に仕事の波に乗れたら最高なんだがなぁ。
玥寧は、金の袋を部屋の隅に片付け入れ、法具の入った鞄を背負い直して星漢の家へと向かった。
数日前に来た時より、事態は悪化している。
表から見た家そのものに変わりはないものの、窓ガラスは割られ、その先には本や置物が散乱していたし、洗濯物はあの時のままだ。
玥寧は、足音を立てないよう家の横へと移動をする。移動した先にはあの奥の部屋がある。その部屋の窓ガラスは割られてはいないが、中の様子を窺えるくらいの隙間が開いていた。
身長がさほど高くはない玥寧は、その隙間から中を覗くために僅かに背伸びをする。
「!」
覗き込んだ瞬間、玥寧は強烈な眩暈を覚え、思わずその場にしゃがみこんだ。
――なんだ? この臭い……。
目がチカチカする。さらに形容し難い、何とも言えない強いにおいに、玥寧は懐から布を取り出して鼻と口元を塞いだ。
「君の……言う通りに、なんでも、するよ……」
部屋の中からはか細い声で呟く星漢の声が聞こえてくる。
なるべく吸い込まないよう、息を止めて中を覗き込んだ玥寧の目には、足の踏み場もないほどに散乱した室内の中心にへたり込むように座っている星漢の姿が見える。屋内は暗く、彼の後姿しか見えないが尋常ではない。
彼に声を掛けようかと思ったが、うっかりにも息を吸うことが憚られる。
息が続く限り止めたまま、彼の周りの様子を見た。
――やっぱり、星漢以外の人間はいないな。
ざっと目視をして一旦その場から離れようとした時、星漢の前に薄い靄が揺らいだのが見えた。
――怪異だ!
玥寧はギリギリまで息を吸うのを堪え、足早に星漢の家から距離を取った。




